父の先見
内なる神
蒼樹書房 1974
Rene Dubos
A God Within 1972
[訳]長野敬・新村朋美
われわれがいま一番失っているか、もしくは苦手になっていることが少なくとも2つある。ひとつはインスピレーションを受けたり放ったりすること、もうひとつはトポスにこだわってその夢を見ることだ。世の中がエビデンス(証拠)のなすりつけあいになって「ひらめき」が後退し、どこでもいつでもユビキタスになれるため「その場」にこだわれない。
インスピレーション(inspiration)が稀薄だということは、いつのまにかわれわれにインスパイア(inspire)が出入りしなくなっているということである。内示してくるものが衰え、外示するものが来てくれない。これでは「ひらめき」が乏しくなる。直観が鈍るのは当然だ。
トポスにこだわれないのは、場所に対する執着が薄くなっているということである。食う寝るところも住むところも贅沢をいわなければ適当に選べるし、旅をするのも友を訪ねるのもいつでもできるので、特定の場所にはこだわらない。しかしトポス(topos)がどうでもよくなればトピック(topic)もどうでもいいわけで、したがってユートピック(u-topic)にも夢を感じないということになる。
そんなことを、死んだ父親が残した借金をやっと返しおわって、さて一文なしになってこれからをどうしようかと左見右見しているころに考えていた。1970年の晩夏のことだ。そして、ふいに思い立った。一年後に雑誌を創刊してみようと決めたのだ。オブジェ・マガジン「遊」と銘打ち、そこをトポスとして、さまざまなインスピレーションが飛び交う場にしたいとも決めた。
場所について本気で考えてみたかったので、「遊」創刊号からしばらく「場所と屍体」を連載した。父の死に遭遇して感じたこと、中村宏の《場所の兆》というタブロオを見て触発されたことを書いた。そのすぐあとベルクソンの卒業論文「アリストテレスの場所論」を読み(そのまま白水社の『ベルクソン全集』をそこそこ読んだが)、さらにそこからアリストテレスのコーラとトポスをめぐる場所論の周辺をあれこれさまよった。
それから三年ほどしてからだったか、ルネ・デュボスの『内なる神』が翻訳されたのだ。びっくりした。抜きん出た場所論だった。
デュボスを読むのは初めてだったが、第六章の「場所の永続性」に惹かれて前後を読みすすむうちに、端倪すべからざる生命思想の持ち主であることが伝わってきた。実在のかくれた側面、連続性と複雑性、差異と内包、秩序と組織、変化と適合を対比させながら見るといった問題意識は、ほとんどこの本からもらったもので、それはそのままぼくの知覚や思索のバリアを食い破ってきた。
いまおもえば生物学者が「複雑系としてのシステム」について言及してみせた最初の、おそらくは最も高度な思想書だったのではないかとおもう。デュボスは1970年代の初期に「多型系・非線形」としての複雑さをめぐって、MITのジェイ・フォレスターと深い議論をしてもいた。
しかしデュボスがもっとすばらしいのは、「人間の精神」というものをトポスとインスピレーションの交差で語れていたことだった。「測定されたこと」を、つねに「設計されるもの」と「変化するもの」によって照射しつづけようとしたことだった。
デュボスは1901年にフランスで生まれて十代でアメリカに渡り、前半生を微生物学者としてロックフェラー研究所を中心におくった。
世界細菌学界のリーダーで、医療世界を一新した抗生物質の研究開発者でもあった。デュボスによって抗生物質が誕生し、デュボスによって抗生物質が広まった。「細菌生態学」というニュージャンルも開拓した。戦後すぐの1945年にはいまでも名著として数えられている『バクテリア細胞』(未訳)を書いた。
こういう経歴だったから、いかにも微生物化学や医化学技術の最先端に君臨しているように見えるので、最初はそこになんらかの注目すべき思想があることなど期待してはいなかったのであるが、どっこい、そうではなかった。むしろ抗生物質によって何でもクスリに頼ればいいという安易な風潮が広まり、医療技術の発達が自然界と身体界に対する「恐れ」と「畏れ」を稀薄にしてしまったことを反省しつつ、自分はできるかぎり「精神の原郷」のための「内なる神」に言及しておきたいということを強調する、たいへんな思想者だった。
話題はまさに古今におよび、引用されている発言は多岐にわたっていた。それにもかかわらず、その大半はみごとに厳選されているリベラル・アーツ(教養)であって、その根っこも深いところに突き刺さっている。こうしてデュボスの本のほとんどを読むことになったのである。
デュボスの場所論は2つの「ここ」に根差している。「生きている場所」あるいは「人間の生きる風土」だ。アリストテレスやベルクソンの場所論には目もくれていない。もっと新しい視点で構成されている。
デュボスは、場所にはもともと「エンシオスの神」がいると言った。エンシオス(entheos)は“enthusiasm”の語源にあたるギリシア語である。これは「インスピレーション」(inspiration)の語源だ。デュボスは、場所には「内なる神」としてのインスピレーションが潜在していて、このインスピレーションを取り出すことが人間の精神の力であり、そうだとすればそれこそが「場所の精神」のルーツだろうと言ったのである。
こういうことに気がついた科学者はきわめて少ない。文学者や芸術家は少しく気づいた。D・H・ロレンスが「土地の精神」を綴り、ロレンス・ダレルが「場所と精神」を較べ、ジェラード・マンリー・ホプキンズが「心景」(inscape)ということを言った。建築家にとっては「ゲニウス・ロキ」(地霊)という言葉がおなじみだろう。
これらには魂や霊が出入りしていた。インスピレーションが跳ねていた。ただ、このままでは「科学」にはならない。そこをデュボスは踏みこんで、「地球についての神学」を足場に組み、地球と遊離酸素の関係を吟味しながらしだいに神学的な脚立を取りはらい、ついでは自然という見方だけでは場所にひそむ胚胎の本質が見えないと言って、場所が萌芽させる生命の動向、すなわち有機体としての分子の声に耳を傾けていったのである。
有機体を哲学するという発想はすでにホワイトヘッドが『過程と実在』(松籟社・みすず書房)などで、あらかたの体系をつくりつつあった。
だからデュボスもそこに与したことになるのだが、デュボスはその有機体としての活動概念のなかから、正確に生命活動に適応できた動向だけを取り出し、「反応」と「応答」の相違を抜き出した。そのうえで地球と生命の関係、あるいは場所と人間の関係を切り離さずに相互作用として記述できる可能性の探検に向かっていった。
デュボスの探索はそこにとどまらなかった。あらかた生命の問題を叙述しおえると、ついでは場所というものがその後の人間の共同体によって部落や都市や国家になっていったことを眺め、そこにもう一度、原初の「内なる神」が本気で躍動しているかどうかを調査した。調査の結果は残念なものだった。部落や都市や国家がつくりあげたはずの「文化」はいつのまにか「技術」に取って代わられていた。デュボスはそこに読者の目を導いていく。産業社会や工業社会がすでに「内なる神」を失いつつあることを指摘し、これでは人間の理性はインスピレーションを喪失したままになるだろうという警告を発したのだった。
デュボスの思想の語り方は独特だ。本書以外でもその語り方をした。数あるデュボスの著書のなかで、いくつかの印象にのこったことをメモっておく。
順不同でいくが、『生命の灯』(思索社)はタイトルからは想像がつかないかもしれないが、人間を考えるには生命以前の段階から観察を始めて、どこから生命の点火がおこったのかを考えるべきだと主張したものだ。物質がどこから生命になっていくかを考えることが、人間が自然界のどこから人間になるのかということを推理させうると言ったのである。
『人間への選択』(紀伊國屋書店)は、人類という生物学的な普遍性が人間であることを選んだ理由を考えるには、人文学者も社会学者も自然科学者も「聖地」の特色をちゃんと知るべきだということを提案している。聖地とは何か。パワースポットなどではない。古代中世人が「かたじけないもの」を感じて選地した「聖地」と対面しなさいというのだ。聖地としてのトポスを論じていて示唆深い。
タイトルが意外な『理性がまどろむ時』(思索社)は原タイトルが『理性という名の怪物』であったことを知れば、その意図の見当がつくかもしれない。17世紀に始まった理性主義が科学を曖昧にしていった意味を問うたのだ。ぼくはフランシス・ベーコンを分析しているところに興味をもった。今日の科学者でベーコンのイドラ(偶像)をめぐる議論の限界を問題にできる科学者など、いなかった。
大著『人間と適応』(みすず書房)では、デュボスのありったけの知を駆動させた。われわれがとっくの昔から外部環境の諸因子をとりこんでいて、それを一方では栄養として他方では体内細菌として活用しながらも、大気汚染や環境汚染や人為的な化学汚染をふりまいてきたため、さしものホメオスタシスが少しずつ狂いはじめていることを指摘し、このままでは適応と制御の意味を変更せざるをえなくなっていると警告を発した。もっと多因子系の研究が必要だというのである。
こうしたなか、ぼくが気にいったのは『健康という幻想』(紀伊國屋書店)である。これは人類がどのように健康や長寿を求めたかという歴史を、ふつうなら病気の歴史にしてしまうところを180度ひっくりかえして「健康幻想史」にしてみせた。人類が「健康」という観念とそれにまつわるでたらめな規準をつくりあげてしまってから、人間は健やかなるものを失ったという説だ。それを抗生物質の発明者が書くところが、デュボスのデュボスたるゆえんなのである。ただしぼくは、この本によって「健康なんてくそくらえ」という方針を確立させてしまい、おかげで健康から見放されることになってしまった曰くつきの本だった。
さて、ルネ・デュボスが81歳で亡くなる直前の1982年2月20日、「遊」の内田美恵がニューヨークの自宅に赴いて貴重なインタビューをした。遺著となった『生命の祭祀』(未訳)が刊行されたばかりだった。
内田はアメリカ領事の娘で6歳から英語を喋り、フォーラム・インターナショナルの通訳者・翻訳者として工作舎に来てからは、ぼくの担当になって多くのセイゴオ・コンテキストを英語にしたり、多くの外国語書籍を一緒に“解読”したりするパートナーになっていた。だからぼくの好みはよくわかっていて、デュボスにぞっこんなのも知っていたので、ニューヨークに行った折に会ってきてくれたのだ。
23歳まで英語を話せなかったフランス人デュボスと、16歳まで日本語がカタコトだった内田が、場所や風土や言語を通して雑談を交わしながら、生物や人間に出入りするパターンやプロセスの話題を深めていくというインタビューだ。
そこでデュボスが強調したのが、“Use it or lose it”ということだった。「使うか、失うか」という意味だが、デュボスは生物も人間も社会も、ずうっと「使うか、失うか」を試してきたのに、そこから何を選択していいのかわからないような文明をつくってきたことを、振りかえった。これは科学者がずっとかかえてきた問題、いわゆる「合流させるのか、分離するのか」にもあてはまっていた。
内田が持ち帰ってきたテープを聞きながらデュボスを偲びつつ、もっと聞いておきたかったことがいろいろあったなあと嘆息した。とくに訊ねておきたかったのは、ぼくにはついつい発生に立ち戻ってものごとを考えるくせがあるのだが、デュボスのように細胞や細菌や微生物のあたりから前後左右に思索と推理の翼を広げるには、どうしたらいいのか。そこにはきっと何らかの“王道”があるようにも思うのだが(仏教でいうなら「中」の思想)、科学者がそのようなミドルウェアの思想をもちつづけられ、そこにいつもエンシオス(インスピレーション)の神を出入りさせられるにはどうしたらいいのかということだった。
あれからまた20年ほどがたった。まもなく21世紀だ。デュボスは『内なる神』のあとがきを「私は多くの春を過ごしてきた」と書き始めたものだったが、ぼくもそういう幾多の春を思い出しつつ、その著書をくりかえし啄むしかなくなっている。
デュボスのことばかりではない。大半の本の著者たちが、もはや会えない著者ばかりなのだ。ぼくは本の中で、新たに「エンシオスの逬り」を浴びるか発揮するしかなくなったのである。だったら、そうしよう。あえて既読したものにもう一度触れなおし、エンシオスの着脱に感じいってみよう。
こうして一週間ほど前から「千夜千冊」という試みを始めたわけである。毎夜、ウェブの中で本を啄んでみようという試みだ。いま第10夜にやっと届いたばかりだ。第1夜が中谷宇吉郎の『雪』、2夜がロード・ダンセーニの『ペガーナの神々』、昨夜が丸谷才一で、そして今夜がルネ・デュボスなのである。
もう一言、付け加えておきたい。今日的な意味でデュボスの言葉に耳を傾けておいてほしいのは、きっと次のことに尽きているからだ。それは、デュボスが何度も「未来に対する創造性を期待するなら、経済の発展と技術の革新に目を集中させないことだ」と言ってきたということだ。これについては、デュボスが1972年から六年間にわたって国連人間環境主義のアドバイザーを務めたときの、もっと有名な言葉がある。“Think globally, Act locally”というものだ。日本にこそあてはまる。