父の先見
ウイルスの反乱
青土社 1996
Robin Marantz Henig
A Dancing Matrix 1993
[訳]長野敬・赤松眞紀
「タンパク質に包まれた悪い知らせ」という言い方がある。「地球上で最も小さなハイジャッカー」という言い方もある。
ウィルスのことである。そのウィルスの正体が、しかし、なかなかわからないのである。
ウィルスは細胞ではない。核もないし細胞質もない。ウィルスは一層あるいはそれ以上のタンパク質の餃子の皮か、ミルフィユに包まれた極小きわまりない遺伝物質なのである。が、病原体ともいえない。ウィルスはそのほかの発見されたいっさいの病原体とも異なった、とんでもない性質をもっている。だいいち、ウィルスの大きさは病原体にくらべるとやたらに小さい。アデノウィルスのような平均的なウィルスでさえ、血液一滴の中になんと50億個が入りこめるのである。
ウィルスは埃りとともに飛ぶこともできるし、くしゃみにも乗っていける。また、そういうことがおこらなくとも、まるで不精者のように、いつまでも待っていられる。待つことがウィルスの半分以上の仕事になっているらしいのだ。そこでしばしば「ウィルスは死んでいるのか生きているのか、さっぱりわからない」と言われることになる。
が、いったん宿主の細胞の中に入ると、たちまち活性化される。こうなれば、ウィルスははっきり生きているということにる。しかしそれでは、まるでゾンビなのである。
ゾンビは何をするかというと、宿主の細胞機能を横取りしてしまう。本来ならば、宿主細胞は細胞自身の遺伝子をコピーすることになっているのだが、そしてそれこそが生命の尊厳なメカニズムというものであるのだが、ウィルスはその宿主のコピーのメカニズムをそのまま借用して、自分の増殖を企ててしまうのである。
つまり、まず、ウィルスが細胞の中に入ると、ウィルスを覆っていたタンパク質のミルフィユの殻が溶け出してくる。これはウィルスがもっている酵素の機能によっている。そうなると、宿主細胞はウィルスの遺伝子にじかにさらされる。そこで得たりとばかりに、ウィルス遺伝子は自分と同じウィルス遺伝子をつくるように指令する。ついで、増えてきた遺伝子の組み合わせによって、ウィルスのタンパク質をつくってしまう。実は行く先を変更させるハイジャックどころではないのだ。
ときにウィルスは、このあとに細胞自身の生存に必要なタンパク質の製造を中止させるプログラムさえ書きこんでしまう。なんとも凄惨なことであるが、自殺タンパク質をつくってしまうのである。
こうして、このような外来者であるウィルスが、最終的に遺伝情報のプログラムをDNAのかたちでもつのか、RNAのかたちでもつのかということが、重要になってくる。いや、それを調査研究することが今日のウィルス学の最も重要な出発点になったのだった。
もし、RNAのかたちでプログラム機能が保持されれば、これはRNAウィルスとして人類に敵対するほどの猛威をふるう。そのひとつがエイズの原因であるレトロウィルスHIVである。
本書は、こうしたウィルスの恐怖を縦横無尽に説明し解読しようとして駆けずりまわる、あたかもウィルスを暴くウィルスのような本になっている。とりあげられた話題はまことに多く、また今日のわれわれを蝕む危険な病気についての説明も多い。本書の原題が『ダンシング・マトリックス』となっているのは、そんな本書の書きっぷりによっている。