才事記

内部観測

郡司ペギオ幸夫/松野孝一郎/オットー・レスラー

青土社 1997

 かつてぼくは『存在から存在学へ』という小冊子の冒頭で、こんなことを述べたことがある。
 われわれは地球に乗った飛行中の者であり、その飛行中のわれわれ自身を観察するには、われわれ自身が、われわれとともに同時に飛行しているものたちとの相対的な観察軸にいることを知る必要があろう、というようなことである。
 1979年のことだった。そして、このような問題意識で第1冊目をスタートをしたこの小冊子のシリーズを、ぼくは「プラネタリー・ブックス」と名づけた。工作舎からの刊行物だった。

 ぼくがこの小冊子の冒頭で提起し、また宣言しておきたかったのは、わかりやすくいえば、われわれはわれわれ自身の経験のすべてを、われわれ自身をふくむシステムにひそむ進行中の観察力によって記述する方法をもっているのだろうか、もっているのだとすれば、それはどういうものなのか、ということだった。
 一筋縄ではいかない問題である。
 この問題意識は、その後もずっとぼくのテーマとして強く響きつづけているものなのだが、ところが、そのようなテーマを、さて、いったい何とよんで公開の議論の場に提供すればよいか、そのへんのことについては決め手を欠いてきた。
 しかし、この問題が思考や思索にとって、あるいはシステムとは何かということにとって、格別に大事な問題で、それがやがて科学のどこかの場面で重視されるだろうことだけは、はっきりわかっていた。もし、科学が議論できないのなら、哲学が新しい存在学として、このことをとりあげるべきだろうとも思っていた。
 それが昨今、いよいよ「内部観測問題」として浮上してきたものなのである。

 本書の内容は、収録されたそれぞれの論文のタイトルを一覧すれば、なんとなく見当がつく。次のようになっている。

内からの眺め(松野孝一郎)
統整を越える構成(松野孝一郎)
適応能と内部観測(郡司ペギオ幸夫)
内在物理学、内部観測と悟り(オットー・レスラー)

 まことに刺激的なタイトルである。しかし、この刺激的なタイトルと論文が何を訴えてくるかを、簡潔な言葉で説明するのは、なかなか難しい。

 内部観測とは、ふつう考えられているような認識の対象ではない。内部観測を認識されるべき対象とするというようなことは、ない。まず、このことをつかむ必要がある。
 では、どういうことが内部観測かというと、むろん認識もふくむのだが、その認識を成立させている経験そのものの全貌を可能にしているしくみの根底にあるだろう「何か」、その「何か」を、それらを経験をしている者自身が観察するとはどういうことなのか、そのことを考えようとする、あるいは見ようとすることなのだ。この「こと」のいきさつのすべてを取り扱う視点が、内部観測なのである。
 おそらく、この経験者には、経験を構成しているいろいろなものがはたらいている。それを経験的担体とよぶとすると、その担体は必ずや「他からのはたらきかけ」を受けている。また、自分自身のはたらきかけもある。「他から」という「他」は、「そのまた他」のはたらきかけを受けている。このような自他のはたらきかけを受けながら、経験者は自分が経験していることをなんとなく“了解”する。
 このはたらきかけはそれがどういうものであれ、これまでは「信号」とよばれてきたものである。
 一方、われわれはわれわれ自身の経験の担体がどういうものかということを“知る”には、その担体あるいは担体間の関係をどこかに転写し、短時間であれ貯蔵しておかなければならない。これは一般的には「記録」とよばれてきた作業にあたる。
 この「信号」と「記録」のつながりのしくみが問題なのである。そこには、いわくいいがたい「含意」とでもいいたくなるような“超関係”が動いているようなのである。

 これ以上の“説明”はやめておく。ぜひ、本書を繙くとよい。ただし、本書はかなり生硬な提案で、こなれてはいない。
 けれども、本書に提示された「問題」は、ぼくが長年にわたって抱いてきた問題であるとともに、今後の科学や哲学の新たな切っ先を用意するものであることはまちがいない。著者たちの記述にある背後の意図にこそ、戦慄すべきである。