才事記

鹿鳴館の系譜

磯田光一

文藝春秋 1983

 明治16年11月28日に鹿鳴館は麹町区内山下町に開館した。いま日比谷の帝国ホテルがあるところより少し南側にあたる。プロデューサーは井上馨、設計はジョサイア・コンドル、総工事費が約18万円。すぐに洋装舞踏会が開かれた。ピエール・ロティは「東京のど真ん中で催された最初のヨーロッパ式舞踏会は、まったくの猿真似だった」とからかった。
 しかしこれが文明開化のひとつのショーイングの成果なのである。それとともにこれが日本の翻訳文化の確立であり、タテの文化が完全にヨコになった瞬間であり、江戸とは無縁の文学の誕生であって、初の日本モダニズムの樹立だった。磯田光一は鹿鳴館がいかに猿真似であれそのことをあえて積極的に認めないかぎり、日本の「近代」の意味など見えてこないと考えた。
 本書の第11章は「3人の鹿鳴館演出者」というふうになっている。3人とは聖徳太子・伊藤博文・吉田茂のことだ。聖徳太子は斑鳩に若草伽藍という鹿鳴館をつくった。そこで冠位十二階というハイカラで多彩な色彩を豪族たちが身に着けることを奨励した。それから1280年後、井上馨は冠位十二階を鹿鳴館のパーティにあてがい、伊藤博文は憲法17条を元田永孚の国会開設意見書にしてみせた。吉田茂はどうしたか。1951年9月4日にパンアメリカン機で臨んだサンフランシスコの講和会議とその後のパーティが鹿鳴館だったのである。日本はときに鹿鳴館を必要とする国なのだ。
 これが本書を貫く基本姿勢である。本書の数年前、磯田は『思想としての東京』(国文社→講談社文芸文庫)および『永井荷風』(講談社文芸文庫)によって、明治日本のモダニズムの原点をさぐろうとしていたのだが、その原点にひそむ謎の解明は本書に任された。

 磯田は1960年代の大学紛争に愚直なほどに真摯にかかわって、中央大学をやめていった文学者である。吉本隆明(89夜)はそうした磯田のことをいささか皮肉と敬愛をこめて“モダンな隠棲者”と揶揄していた。
 たしかに磯田の文芸的隠棲ぶりには徹底したところがあった。三島由紀夫(1022夜)の死後、知人に自分はこれから三島の喪に服するという通告を出したりするような律義なところ、ようするに何かを一筋だけ通すようなところがあった。
 磯田は、三島を扱った『殉教の美学』(冬樹社)によって文芸評論家としてのスタートを切った。本書はそうした磯田の晩年の隠棲的金字塔にあたっている。明治という時代が近代をどこで獲得したかという概念工事上の原点ともいうべき一筋が「日本史のなかの鹿鳴館」として丹念に探られた。
 
 本書には明治文化を「概念の出来事」として読むというおもしろみがある。それは、平川祐弘(686夜)の『和魂洋才の系譜』(河出書房新社→平凡社ライブラリー)や江藤淳(214夜)の大著『漱石とその時代』(新潮選書)が明治的人物の文脈を読ませたのに対して、また前田愛(1282夜)の『都市空間のなかの文学』(筑摩書房)が明治的都市の文脈を読ませたのに対して、「モダン」という概念の文脈を読む試みだった。
 本書は一方で、日本のモダニズムの発生の仕方について議論しようとする者たちのための、語り口のプロトタイプをつくりだした。このプロトタイプを、磯田がどのような議論によって肉付けしたかというのが本書を読むフォークとナイフの使い方になる。切り口は、江戸晩期の「文学」がそもそもは「洋学」に対抗するもので、かつリベラルアーツの意味をもっていたにもかかわらず、やがて文学はたんなる文芸作品の羅列の意味に変わっていったという問いから始まっている。たしかに『日本開化小史』の田口卯吉のあたりまで「文学とは人の心の顕像なり」であったのである。ところが、いつのまにか文学は文芸意匠の代名詞になってしまった。これはなぜなのかというのが、磯田の問いである。
 この問いに答えるにあたって、磯田は鹿鳴館だけではなく、小学唱歌の成立の経緯や湯島天神や丸善の設立と人気の背景を追い、それらが漱石山房の内外に及ぼした影響と無縁ではなかったと述べた。
 
 明治とは、文学を「心の顕像」から「モダンの意匠」に変えていった時代だ。磯田はなにもかもがモダン文芸ふうになっていったと見た。それが明治の味だ。ときに円卓による牛鍋に、ときに美人画を入れた紙巻煙草「ヒーロー」に、ときには狩野芳崖のマリア風の《悲母観音》というふうに。たとえば小学唱歌、たとえば鹿鳴館、たとえば丸善、たとえば東京外国語学校、たとえば漱石山房である。
 これらは「文学」が「明治文芸」というシャレた意匠に変わっていったことに見られるように、たんに外国の意匠を借りた日本というものではなく、あえて近代日本が進んで選んだモダンの意匠だったのである。
 長いあいだにわたって、われわれはこのことを「肯定した近代」として解釈するのを嫌っていた。その理由はいうまでもない。戦後民主主義にとっては、日清日露の両戦争を犯し、韓国併合を企てた日本の近代は唾棄すべきものだったのである。
 けれども磯田は、そこを時代を呼吸した代表的な人間の表象の内側から突破しようとした。選ばれた食材が「明星」と漱石(583夜)と『田園の憂鬱』と萩原恭次郎だ。このあたりの語り口はいまではそんなに新しいものではないが、当時は舌鼓を打たせた。

 一言でいえば、明治は「立」と「青」の時代だった。「立志・立身・立国・立憲」を「青年・青雲・青鞜・青春」が引き受けようとした。いわば「青立」が明治であった。それを準備した江藤新平・岩倉具視・大久保利通・森有礼が次々に倒れていって、その死骸の上に「青立」が咲いた。だからその意匠には、鹿鳴館がそうだったように、体の線を隠すペチコートやパーティドレスやフロックコートがふわりとまとわれていた。
 磯田はそれをひとつひとつ脱がし、新たな皿に盛るための料理人になることを買って出た。買って出た以上は、それをおいしくしたい。素材に文句をつけるばかりではしょうがない。
 本書は次の文章でおわっている。「つぎつぎに日本に訪れてきた外来文化とその影響を、軽薄と呼ぶのは容易であるが、小林秀雄(992夜)に倣って近代日本の文化を“翻訳文化”としてとらえ、われわれの喜怒哀楽さえその中にしかなかったことに想いをいたすとき、翻訳文化も抜きさしならぬ歴史を形成してきたことに、われわれは気づくであろう。古代文化の形成さえ、翻訳文化にもとづくものであった」というふうに。
 小林秀雄を引くことはなかったろうものの、そのように書きたい心境はよくわかる。ここには本書が磯田の甘美な幻想でおわってしまったことを、はからずも告げてしまってもいる。ほんとうは、磯田は次のように書くべきだった。「明治のモダニズム以上のことを、その後はいったい誰がしてみせたのか」というふうに。