才事記

和漢朗詠集

藤原公任撰

冨山房 1909 1982

[訳]川口久雄

 この詞華集を読むと、さまざまな思いが猛烈に去来する。そのうちの最も大きな感興は、ここにひそむ優れて日本的な編集方法のことである。
 詞華集とはアンソロジーのことをいう。アンソロジーでは編集の技量がそうとうに問われる。何を選ぶかというだけが重要なのではない。その按配をどうするか。内容で選ぶか、作者で選ぶか。主題のバランスをどうするか。男女の作者の比率はこれでいいか。長短をどうするか。巧拙をどこで見るか。有名無名をどうするか。これらのいずれにも十全な配慮が問われる。
 今夜とりあげた『和漢朗詠集』は和漢の秀れた詩歌を此彼の文化表現にまたがって、かつ同時に選んでみせるという編集だ。漢詩文から詩句を選び、そこに和歌をもってくる。和歌を選んで、そのあいだに漢詩を入れる。ついでこれらをどう按配して並べるか、そのレイアウトをどうするか。それぞれむつかしい。
 
 詞華集『和漢朗詠集』は関白頼忠の子の藤原公任が編集した。編集したといっても勅撰ではなく、自分が好きで編集した。頼まれたわけではない。ハウスメイドの、カスタマイズ・ヴァージョンである。
 顕昭の『後拾遺抄注』に、こんな話が伝わっている。公任は娘が結婚するときの引き出物として詞華集を贈ることを思いついた。そこで当時、貴族間に流布していた朗詠もの、つまりは王朝ヒットソングめいたものを自分なりに選び、さらに新しいものをふやして贈ることにした。それだけでは贈り物にならないので、これを藤原行成に清書してもらい、粘葉装に仕立てた。もっともこの話はたんなる伝承で、もとは藤原道長の娘の入内の折につくられた屏風のために選集された歌を、のちに清書し冊子にしたのだとする説もある。いずれにしてもまことに美しい。
 料紙が凝っている。紅・藍・黄・茶の薄めの唐紙に雲母引きの唐花文をさらに刷りこんだ。行成の手はさすがに華麗で、変容の極みを尽くした。漢詩文は楷書・行書・草書を交ぜ書きにした。和歌は得意の行成流の草仮名である。これが交互に、息を呑むほど巧みに並ぶ。
 部立は上帖(上巻)を春夏秋冬の順にして、それぞれ春22、夏12、秋24、冬9を配当した。
 たとえば冬は「初冬・冬夜・歳暮・炉火・霜・雪・氷付春氷・霰・仏名」と並ぶ。つまり時間の気配の推移を追った。いわば「うつろひ」と月次を重視した。これに対して下巻すなわち下帖は、自由に組んだ。その構成感覚がうまかった。「風・雲・松・猿・古京・眺望・祝……」といったイメージアイコンが48題にわたって並ぶ。最後はよくよく考えてのことだろうが、「無常」「白」である。すべてが真っ白になってしまうのだ。なかなか憎い。
 これを漢詩と和歌の両方でつなぐ。菅原道真の『新撰万葉集』の手法を借りた。つなぎのしくみはイメージとエクリチュールの重ね結びである。いわば洋服(漢)と着物(和)を併せて楽しむようにするわけだから、ここにはかなりの「好み」が動かなければならない。公任にして編集できたことである。
 結局、漢詩が588首、和歌が216首を数えた。漢詩は白楽天(白居易)が断然に多い。135も入っている。李白(952夜)と杜甫は入っていない。全体には中唐・晩唐の漢詩人から選んでいるので、公任がよほど李白・杜甫を嫌ったということになる。これは当時の風潮でもある。中西進(522夜)さんが快著『源氏物語と白楽天』(岩波書店)で詳述したように、当時は白楽天がビートルズのように日本を席巻していた。日本人の漢詩ではさすがに菅原文時・菅原道真がトップで選ばれている。
 この「好み」は紫式部(1569夜)に近くて、和泉式部(285夜)に遠い。公任だけではなく、これまた当時の「好み」だった。先の中西進のもの、大岡信(539夜)の『うたげと孤心』(集英社→岩波文庫)、丸谷才一(9夜)の『恋と女の日本文学』(講談社)などを読むと、このへんの見当がつく。

 和歌は貫之(512夜)20、躬恒13、人麻呂(1500夜)と兼盛8である。ここにも紫式部に近くて、和泉式部に遠い「好み」があらわれる。
 これらの漢詩と和歌を交互に並べたのではない。公任は自在に並べた。漢詩ひとつのあとに和歌がつづくこともあれば、部立によっては和歌がつづいて、これを漢詩が一篇でうけるということも工夫した。その並びはまことに絶妙だ。しかも漢詩は全詩ではなく、適宜、朗詠しやすいような詩句だけを抽出した。このピックアップやカットアップがいい。
 こうして最初にもってきたのが紀淑望の立春の賦からのエピグラフだ。なかなか溌剌とした賦なので、むろんその内容と表現でも選んだのだろうが、公任はこの作者が淑望であることに注目したのであろう。紀淑望は紀長谷雄の子で、貫之の養子とも言われるが、それよりも公任は淑望が『古今集』の真名序を書いたということを重視したにちがいない。真名序は漢文で書かれた序文のことをいう。ここに「和漢の並立」というコンセプトとフォーマットがみごとに立ち上がった。

 このような編集方法は、藤原公任ひとりの手柄なのではなかった。この時代の貴族に流行し、これらに先立って試みられた日本的編集方法の、そのまた再編集だった。
 まず「漢風本文屏風」があった。小野道風が書いた延長6年の内裏屏風詩、天暦期の内裏坤元録屏風詩をはじめ、漢詩を書きつけた屏風だ。このほかにも長恨歌図屏風、王昭君屏風、新楽府屏風、月令屏風、劉白唱和集屏風、漢書屏風、後漢書屏風、文選屏風、文集屏風などがある。いずれも唐絵を描いた屏風に漢詩句漢詩文の色紙が貼ってある。公任はこれらから漢詩をピックアップしたにちがいない。
 和歌にも似たような屏風が出回っていた。大和絵を描いた屏風に和歌色紙を貼ったもので、これもかなりたくさんの種類がある。扇面和歌散らし屏風、和歌巻屏風などもある。これらはぼくも『アート・ジャパネスク』編集中にかなり出くわした。
 もっと調べてみると、『古今著聞集』の画図部に「倭漢抄屏風二百帖」というものがあったと載っている。藤原道長の邸宅に出入りしていた藤原能通が絵師の良親に描かせたもので、道長の子の教通に進呈された。唐絵と倭絵(大和絵)を対応させ、それぞれにふさわしい漢詩と和歌を配当してあった。しかもこの屏風の色紙の歌詞は公任の清書であったというのである(これが道長の娘の入内の折の屏風であり『朗詠集』のもとになったのではないかとする説になる)。
 これではっきりする。公任はこうした和漢屏風の流行を熟知していたばかりか、その制作過程にもしばしば携わっていたのだった。今日の言葉でいえば、和漢屏風や『和漢朗詠集』は2ヵ国語対応型ヴィジュアル・テキスト・ライブラリーといったところで、屏風システムというOSに色紙というソフトを自由に貼りこんでいるという点では、マルチメディアライクなデータベースになっている。下巻はどちらかというと主題別百科事典にさえなっている。王朝エンカルタなのである。

 王朝時代にはやくも徹底されていたこうした日本的編集方法は、もっと注目されるべきである。日本の自立には中国から漢字や律令を導入せざるをえなかったのだが、それにあたってはまずは中国のシステムを入れ、これをフィルタリングして一部をゆっくり日本化し、それが確立できたところで、元の中国システムと日本システムを対照的に並列させるという方法が探られたのだ。
 こういう方法がじょじょに確立していったのである。この編集方法はいろいろな場面にあらわれる。政治と立法の舞台の大極殿を瓦葺きの石造りの中国風にし、生活の舞台の清涼殿などを桧皮葺きで白木造りの寝殿にするというのも、その例だ。もっと象徴的なのが『古今集』に真名序(漢文)と仮名序(仮名書き)を配したことだった。
 もったいないことに『和漢朗詠集』は、いまほとんど読まれていないという。そういう本は日本の古典にはいくらもあるのだから仕方がないが、『和漢朗詠集』だけは一度は覗いたほうがいい。少なくともインターネットやウェブ・ライブラリーに関心があるのなら、覗きたい。『平家物語』や『太平記』に関心がある者も、覗きたい。とくに下巻の「無常」「白」にいたる漢詩と和歌の進行に心を寄せてみたい。
 ぼくは公任の『北山抄』が有職故実を巧みに編集しているのを見て、公任の編集手腕に初めて関心をもち、そのあと『和漢朗詠集』の編集構造に注目するようになったのだが、いまでは大事な王朝感覚データベースとして活用している。そこに「和漢」を並べながらそこから脱出し、自立していくプロセスが読みとれるからだ。