父の先見
ゼッフィレッリ自伝
東京創元社 1988・1998
Franco Zeffirelli
Zeffirelli 1986
[訳]木村博江
私生児である。世界を代表するオペラの演出家である。ルキノ・ヴィスコンティの弟子だった。
イタリアのパルチザンとしてナチスと闘った青年でもあった。マリア・カラスを愛したし、カラスからも愛されていたし、コケにもされた。プラシド・ドミンゴを青年のころに見出した。トスカニーニに学び、バーンスタインと遊んだ。
三度死にかけている。オリビア・ハッセーを主演させた『ロミオとジュリエット』で大ヒットをとばし、少年時代からあこがれていた聖フランチェスコを『ブラザー・サン・シスター・ムーン』で映画にした。これもヒットした。『チャンプ』『トスカニーニ』の映画監督でもある。ココ・シャネルがゼッフィレッリを男にした。フィレンツェで育って、フィレンツェを愛した。
こんな男が自伝を書いたのである。書いたというより、序文にあるようにゼッフィレッリはひたすら語り、これをBBCのスタッフが文字にして、自分で手を入れた。それにしても、よくもこんな派手で真剣な男の自伝が巷間に出まわったものだ。
ただ、読み通すのに久々に時間がかかった。イタリアの戦時戦後の事情、ヨーロッパ・オペラの事情、あまりに派手に乱舞するスターたちの動向。それらがなかなかアタマに入らないのだ。
だいたいゼッフィレッリにあたるような男は日本にいない。スペクタクルを演出するというだけなら、たとえば市川猿之助や山本寛斎や、あるいは浅利慶太を思い浮かべてもいいかもしれない。しかし、かれらの演出はおおむねは型にもとづいている。
ゼッフィレッリのスケールは図抜けているし、やるたびに趣向が違っている。もともと日本ではオペラのオリジナル演出などほとんどないといってよい。しかもゼッフィレッリはオペラも演劇も映画もつくる。テレビもつくるし、法王パウロに頼まれて聖ピエトロ寺院を演出してしまう。こういう男はいない。
ヨーロッパではゼッフィレッリのような演出スペクタクルを「オピュレンス」ということがある。うまく訳せないが、富裕とか豪奢を意味する言葉で、かつ大胆で意外なスケールを含み、人々に満足感をふりまくものが滲み出ていなければならない。それが「オピュレンス」である。
これは日本には、ない。かつて桃山や宝暦天明にあったかもしれないが、日本には久しく「オピュレンス」は消えてきた。
ゼッフィレッリはそれをふんだんに盛りこんだ男なのである。だから嫌みもあるし、やりすぎもある。この自伝にもスーパースターが目白押しで、さすがに読むのが面倒になる。ところが、何かがこの男のやりすぎのスケールを支えている。何かがこの男の求心や収斂を支えている。それは宗教文化というものである。フィレンツェに育ち、ルネサンスに囲まれた日々が培った宗教力がこの男の作品創意をぶよぶよにしなかったのだ。
本書を読んで、フランコ・ゼッフィレッリから学ぶべきものはあまり見当たらない。多くの仕事の事情が次々に紹介されているのだが、生き方や仕事の仕方についての深い洞察や鋭い指摘が何もないからである。
それにもかかわらず、この長ったらしい自伝にはわれわれがまったく知らない世界の舞踏曲のようなものが描かれていて、こういう世界を知ること自体が貴重であり、対面すべきものであるように見えてくる。それはたとえていえば、『ゴッドファーザー』や『ラストエンペラー』、あるいは『恋に落ちたシェークスピア』や『宮廷料理人ヴァテール』をじっくり見ておく意味があるという理由に近い。そのような映画には、とくにわれわれの生活に直接響くものはないのだが、われわれは溜息とともに何かに圧倒されている。そういうものが、ゼッフィレッリが大半の人生の時間を費やして向かっていった世界から見えてくる。
そこで浮上してくるのが、ゼッフィレッリの師にあたるルキノ・ヴィスコンティのことである。ヴィスコンティこそは、『地獄に堕ちた勇者ども』や『神々の黄昏』において、このような世界のありかたを見せてくれた張本人だった。
ゼッフィレッリは青年時代は演劇にかかわろうとしていた。それまでは、戦争だったからただ闘っていた。
1945年、22歳、最初の仕事はフィレンツェのベルゴラ劇場の舞台背景を塗ることだった。ある日、そこで舞台稽古を見ているときに強烈な人物に出会った。それがヴィスコンティだった。ヴィスコンティは役者やスタッフを怒鳴りちらし、罵り、それを上回る情熱を舞台稽古に叩きつけていた。ゼッフィレッリはたちまちこの力に魅せられる。
ヴィスコンティ家は先祖がミラノを統治していた伯爵家である。ヴィスコンティ一族のことはイタリアでは誰もが知っていた。ヴィスコンティはそのような名門に生まれて、そのうえ大富豪の製薬会社の娘と結婚した。馬を乗りまわし、勝手な行動で話題をまきちらす一方、ムッソリーニらのファシストと闘って勲章を得ていた。芸術好きなヴィスコンティは、当時はイタリアであまり知られていなかったコクトーやサルトルやスタインベックの世界観を紹介し、その世界観を舞台にぶつけるために劇団を組織した。
他方では、パリの社交界に出入りしてココ・シャネルと甘い関係をもち、そのシャネルの紹介で大監督ジャン・ルノワールを知ると助手をつとめ、そして映画に入っていった。
このヴィスコンティの知性と豪奢に、ゼッフィレッリはすべてを奪われたのである。
本書には、まだまだ演劇に熱中していたころのヴィスコンティがシェークスピアの『お気に召すまま』のオペラ化を構成演出するにあたって、ダリに舞台美術を頼んだいきさつがのべられているのだが、それを読むと、ダリの魔術がヴィスコンティによって包まれていった雰囲気が手に取るように読みとれる。このときヴィスコンティの助手としてダリと交渉をしていたのがゼッフィレッリだったのである。ちなみに、ゼッフィレッリはこのときに初めて天才マリア・カラスに出会っていた。
こういうわけなので、ゼッフィレッリの「オピュレンス」の多くはヴィスコンティからの継承なのである。しかし、その後のオペラ演出や映画演出を見ていると、ゼッフィレッリにはヴィスコンティの方法をはるかに陽性に転じる能力もそなわっていた。もし、今後の世の中がやっぱりエンターテイメントを身近に引き寄せていたいというなら、もう少しゼッフィレッリのスペクタクル感覚に学んでおいたほうがいいのではないか。そうでないといくつもの偽スペクタルがホールと町とブラウン管を占めすぎて、見てられない。