父の先見
歌の本
岩波文庫 1950
Heinrich Heine
Buch der Lieder 1827
[訳]井上正蔵
ハイネはどう見てもニーチェを先行していた世界分析者であったが、なぜハイネがそこまで到達できたのかがぼくにはわかっていない。おそらくはヘーゲルを終生の師と仰いでいたことと関係があるのだろう。
ハイネはイプセンやトーマス・マンをもぞんぶんに先取りしていたはずだが、そのようにハイネが多様な文章力を発揮できた理由も見えていない。ハイネの思索と行動はマルクスの思想とかなり重なるものをもっていたはずだが、そのようなハイネをハイネ自身が脱出していったのだ。なぜそうなったか、ぼくにはまだ説明ができない。
憶えば、生田春月だか片山敏彦だかが訳したハイネ詩集をもって雨の甲州路を一人で旅をしていた高校時代が懐かしい。あのころはハイネもバイロンもヘルダーリンも、キーツやランボオやシャルル・クロスやコクトーさえもが一緒くたに読めた。それでべつだん、何も蹉跌はなかった。いい加減といえばいいかげん、その加減がなんとでも拡張重畳濃縮をおこせるといえば、それこそが青春の加減乗除だった。
やがて『歌の本』でデュッセルドルフのハイネがハンブルクのアマーリエに捧げる愛の詩の意味を知ったときは、ぼくは自分が恋をしていたのは従妹のMSだったことに気がついて、その詩を暗唱しようとしたものだ。アマーリエはハイネの従妹であり、ぼくに最初に恋心を告げたのも従妹だった。しかしMSのガス自殺とともに、ぼくの「若き悩み」は変質していった。
詩人の素性や思想や唐突な行動を知ることは、そんなことを知らないときより悩ましい問題をもたらすものであるが、ハイネのばあいはとくにそうだった。青春とともに盂蘭盆の精霊流しのごとく送り出してしまったつもりの詩人が、ぼくの思想にもどこかで関係しそうな問題をかかえていたということを知るのは、なんとも辛い。辛いというより、困ったことだ。こうして、ハイネが恋愛詩人であったのはぼくの学生時代までで終わってしまっていた。
ハイネの謎はいろいろある。いちばん厄介なのはユダヤ人としての血の問題である。こんなことはぼくには推測しようのないことなのだが、その後、ハイネがユダヤ人問題に悩んでいたことを知った。
厄介ではないが、ぼくがもっと知りたい問題としては、ハイネにおける革命の問題がある。ハイネには「おそらくすべての革命家のうちで最も断乎たる革命家である私」という有名な自己規定があるのだが、なぜハイネにそんな自信が湧いていたかということが謎だった。一八三〇年のパリ七月革命に魂を震わせたハイネはそのあとすぐに激動と混乱のパリに移り住んで、心のなかでは祖国ドイツにおける革命を確信していたはずなのである。その時点ではマルクスとほぼ同じ判断をもっていた。しかしハイネは「革命」も「政治」も振り切った。
それゆえ、そのマルクスとの関係についても謎が多い。一八四三年にハイネがパリでマルクスに会って以来、二人のあいだには互いに崇敬の念が交感されている。マルクスは若くしてハイネの詩魂に感嘆し、共感していた。ハイネの『貧しき織工』の詩がマルクスに与えた影響も、多くの研究者がいまだに追っている。二人はともに、ビーダーマイヤーに酔っていた「惨めな祖国ドイツ」を変えようとした。そのことはマルクスの『ドイツ・イデオロギー』にもハイネの『ドイツ冬物語』にも痕跡を認めることが可能だ。ところが、二人は重なっていかなかった。
ハイネはマルクスとは決定的なちがいをもっていたのだろう。世代のちがいだけではない。ハイネは革命理論をつくるよりも、革命詩人だけをつくりたかったようなところがあったのだ。
まだ、ある。なぜハイネは北海の孤島ヘルゴラントに住み移ったのだろうか。あれはやはり「祖国脱出」だったのだろうか。
それからハイネがゲーテを自分とは異質な人と見ただけでなく、互いに反発する者ととらえたことも気になる。ハイネが七五歳の老ゲーテに会ったのは瑞々しい二六歳のときである。しかしそれ以来というもの、あれほど熱烈だったゲーテ信奉が氷が溶けるように消えている。消えたばかりかゲーテに対する反発も芽生えていた。
このことに関連するが、ハイネがノヴァーリスよりもホフマンを評価していた理由もわかるようで、わからない。ハイネの言葉によれば、ノヴァーリスは「その観念の産物とともにたえず青い空中に漂っている」が、ホフマンは「奇態な化け物たちと一緒ではあってもたえずこの世の現実にしがみついている」からだという言い分だ。ハイネらしい見方ではあるが、けれどもぼくにはどう見ても、ハイネがその胸中からロマン主義を捨てたとは思えない。
ハイネは最後にコミュニズムの未来になにがしかの可能性を託すのだが、そのときロマン主義の真の復活も同時に望んだはずなのだ。このことは一八五四年の『ルテーツィア』の序文にあらわれている。
こんなぐあいで、ぼくにはハイネを掴みきれないところがいっぱいある。『歌の本』が「ローレライ」などによって語られてよかった日々は、もはやぼくにはなくなってしまったのだ。
代わって謎多き男としてのハインリッヒ・ハイネが立ちはだかっている。そのハイネは多様なヨーロッパ近代人の原型としてのハイネなのである。けれども立ちはだかっているだけで、謎はいっこうに溶け出さない。溶け出さないのに目が外せない。とくにユダヤ人としてのハイネの問題など、ほとんどアプローチが止まったままなのに、その止まりかげんにおいてハイネに眼が留まってしまうのだ。それでも『歌の本』のなかの「帰郷」はいまでもぼくの〝歌の本〟になっているし、『ロマンツェーロ』などはときにノヴァーリスやゲーテを超える作品に見えるときがある。つまりぼくにおけるハイネはあまりにも矛盾しすぎてしまった魂なのである。
いったい、なぜこのようになってしまったのか。これはハイネがそもそももっているものがぼくに付着しただけなのか、それともヨーロッパの文明進化がハイネにもたらした根本矛盾なのか、あるいはドイツ人の独特の観念の歴史が結実したものなのか、そこもわからないという体たらくだ。わずかにそのようになった理由を感じる符牒がないわけでもない。それは、近代日本の詩人や作家たちがハイネをどう読んできたかということに関係している。
ハイネの謎をぼくが考えるようになったのは、明治や大正の日本人の知のかなり大切な棚にハイネがいるような気がしたからだ。それ以来というもの少しずつではあるが、ハイネの生き方とハイネの捉えられ方の関係が気になってきた。
いろいろ覗いていて驚いたのだが、明治大正期にハイネを訳したり論じたりした者たちの数はものすごく多い。森鴎外・尾上柴舟・上田敏・生田春月は訳し、田岡嶺雲・高山樗牛・石川啄木・生田長江・橋本青雨・佐藤春夫・萩原朔太郎らはハイネに突入していった。が、そのくらいのことならまだしも秀れた海外詩人の紹介ということですむ。しかしよくよく見てみると、これらのハイネ感染の気運とでもいうものは、どこかでハイネによって日本人が日本人であろうとしていくための借用証のようなところが感じられるのだ。
おそらく萩原朔太郎の「ハイネの嘆き」を読んだのがいけなかったのであろう。朔太郎が「嘆き」と呼んだのは、『歌の本』の序文にある「かつて美しい花火遊びで人々をよろこばせた火はなぜ突然に由々しい火災のためにつかわれざるをえなかったのか」という嘆きである。朔太郎はそれを啄木の詩魂にむすびつけ、はっきりそう指摘したわけではないのだが、啄木における師の与謝野鉄幹を〝ハイネにおけるシュレーゲル教授〟に見立て、明星派をロマン派に見立てた。のみならず啄木が社会主義に傾倒していった気持ちとハイネのコミュニズムへの傾倒を朔太郎流に比較した。さらには、かつての日本の詩人で「唯一のヒューマニストは啄木だけだった」と言って、暗にハイネにおけるヒューマニズムを持ち上げた。
こういう朔太郎の論法はちょっと困るのである。啄木論でもないし、といってハイネ論でもない。それなのに、単独な批評よりずっと啄木とハイネを重ねる力をもっている(啄木がハイネを愛読していたことは、友人の金田一京助が『歌の本』を送ったことでもはっきりしている)。それでも、まあ、これは朔太郎得意の詩情の論理というものだから、まだ矛盾してくるわけではない。借用証としての罪も少ない。
高山樗牛が書いた「南洲とハイネ」(『樗牛全集』博文館)はどうか。これはなんと西郷隆盛とハイネの比較であって、そうとうに無理がある。しかも樗牛は、この文章を西郷隆盛の銅像建立に反対するために書いた。ということはハイネは国民精神に反する詩人として象徴されたのである。ここに日本人とハイネのツイストした関係があらわれる。やや複雑な事情になるが、樗牛は西郷やハイネを批判したのではない。西郷の持ち上げ方に文句をつけ、それと同様なことがハイネの持ち上げ方にあるというふうに言いたかったのである。
ハイネの著作物は神聖同盟の宰相メッテルニヒによって弾圧され、ビスマルクによって発禁にされた歴史をもっている。
神聖同盟はロシア皇帝アレクサンドル一世の提唱でロシア、オーストリア、プロイセンのあいだで結ばれた君主間の盟約で、一八一五年秋に結成された。これをオーストリアのメッテルニヒが利用して、ヨーロッパ諸国の自由主義やナショナリズムの擡頭を抑えようとした。そこでハイネの著作物が弾圧されたのだが、ところが二人ともがハイネの愛読者でもあった。それでもメッテルニヒやビスマルクは、ハイネがもたらす「まちがった熱狂」を国民に知らせたくなかったのである。
これはひどく歪んだ精神である。歪んだ精神なのだが、裏側から見ると「ハイネという社会性」をストレートに見ているという面もある。同様に、樗牛は西郷を西郷として議論しきれずに西郷の銅像に反対することで、西郷を擁護しようとした。それをこともあろうにハイネを借用して議論しようとしてみせた。これも歪んだ見方である。こんなことでは西郷もハイネも見えてはこない。
ともかくも、ハイネに対する見方には、なぜか必ずこういう歪みがああだ、こうだとつきまとうのだ。そして、その歪んだ見方は近代の日本人にはまさにそのまま覆いかぶさったのだ。
佐藤春夫だってハイネに入れあげた。柳田國男がハイネを読んで国民的な感情をゆさぶられたこともよく知られている。たしか橋川文三が最初に指摘したことだった。こういうことを言い出すとキリがないのだが、近代の日本人が感じたハイネの呪縛から、ぼくを含めて多くが逃れえていないようなのである。柳田にとって藤村とハイネと自分と椎葉村と遠野は同じものだったのだ。
ここには革命と愛と祖国愛をめぐる最も濃厚な矛盾が蟠りすぎている。その濃厚な矛盾こそ、おそらくは日本の左翼知識人のなかに横溢する〝もう一人のマルクス〟なのである。
クリスティアン・ヨハン・ハインリッヒ・ハイネは、一七九七年十二月にデュッセルドルフのユダヤ人の家に長男として生まれている。
私学校リンテルゾーンに入るのだが、一八〇四年にナポレオン法典がドイツにも及んだせいでユダヤ人でもキリスト教の学校に入れるようになったので、リンテルゾーンと併行してフランシスコ会の学校にも通った。一八一〇年にデュッセルドルフのギムナジウムに行くようになってからは、絵画や音楽やダンスやフランス語の個人レッスンを受けていた。
ところがここでギムナジウムを中退して、進んでファーレンカンプ商業学校に通い、十八歳でフランクフルトの銀行家のところで見習いをし、三年後には叔父の援助でハリー・ハイネ商会なるものを起業してしまう。商会はさすがに一年で挫折するけれど、ハンブルクで見初めた叔父の娘アマーリエに心を奪われた。まあ、こういうことは必ずおこることで、この失恋がハイネに抒情詩を書かせることになったのも、とくに謎ではない。それよりも変なのは商人に挫折してから、今度はいまさらながら大学に通うようになったことである。ボン大学だ。
一応は法律を専攻するのだが、ヴィルヘルム・シュレーゲルの授業を受けて感染した。ペトラルカについての講義だった。これはもちろんシュレーゲルがすばらしかったのだ。当時のドイツ人はたいていシュレーゲル兄弟のどちらかに攫われたはずである。朔太郎らの日本人ならなおさらだ。しかしハイネは「骨」を求めていた。一年足らずでボン大学を辞めると、次はゲッティンゲン大学へ行き、さらにはベルリン大学の門をくぐった。そのあいだに論文『ロマン派』や(シュレーゲルの影響だ)、戯曲『アルマンゾル』を書いている。
決定的だったのは、ベルリン大学でヘーゲルの講義に出会ったことだ。論理学、宗教哲学、美学、すべてに心酔した。のちのちまでヘーゲルを終生の師と仰ぐことになる。ここらあたりでハイネの深みのある謎が沈澱していったのではないか。
文筆や詩作はずっと続行した。一八二一年の初の『詩集』、一八二三年の戯曲『ウィリアム・ラドクリフ』、一八二六年の『ハルツ紀行』など、たて続けだ。若かったせいもあるだろう。『ハルツ紀行』など言葉が景色と混合して逬っている。
そのくせ学業や学問にも、友人交流にも、ひどく熱心なのである。ゲッティンゲン大学に入りなおして法学の学士を取得し、ワイマールのゲーテを表敬訪問し、数々の編集者と知りあっては五〇以上の雑誌に寄稿した。途中、ハイリゲンシュタットで洗礼を受けて、プロテスタントに改宗もしている。何かをそのつど見切っているのだろうと思う。次々に、しかも着実に新しいことを体感している。それを育む血潮と知性もあった。ちっともじっとしていない。
長きに及んだ学生期を了えるとハンブルクに移り、ここで『旅の絵』を刊行して、一八二七年にはのちのちベストセラーともロングセラーともなる『歌の本』を出した。ついでミュンヘンでコッタ出版社の「新一般政治年鑑」の編集を引き受けた。ミュンヘンにいるあいだにグリム兄弟と親交を結び、シューマンと仲良くなった。
一八二九年にベルリンへ転居したのをきっかけに、大きくヨーロッパを数年をかけて旅をした。イギリス、オランダ、イタリア、ヘルゴラント島などだ。こうして、最後に終住の地、パリに移るのである。フランス移住はサン・シモンの社会主義に惹かれていることも手伝った。こんな世話焼きでもあったのである。
ハイネは多感で、多くの人脈と交流するが、そのハイネの多感に惹かれた者も多かった。とくに作曲家たちである。ベルリオーズ、ショパン、リスト、ロッシーニ、メンデルスゾーン、ジルヒャー、ワーグナーらが、みんなハイネに惚れた。ロベルトとクララのシューマン夫妻、ジルヒャー、リストは惚れただけでなく『歌の本』の詩にこぞって曲を付けた。《ローレライ》《詩人の恋》《二人の擲弾兵》などの歌曲がこうして生まれた。ハイネの言葉に参ったのだ。
賞賛を惜しまなかったのは音楽家たちだけではない。バルザック、ユゴー、ジョルジュ・サンド、デュマらのフランス・ロマン主義の作家たちも、この異国の詩人に敬意を示した。そして、そこに加わったのが二五歳のカール・マルクスだったのである。一八四三年、パリでマルクスに出会ったハイネは四六歳だ。
マルクスは少年時代からハイネの詩に憧れていた。ハイネは悦んで詩を朗読してみせるのだが、ヨーロッパ社会に変革の嵐が吹きすさぶことを夢想しているということも、熱く語った。やがてシュレージエンの織物工たちが蜂起した印象を詩にした『貧しき織工』(のちの『シュレージエンの織工』)が発表されると、マルクスともどもエンゲルスもこれを激賞した。
ハイネは通りいっぺんの革命詩人ではない。たくさんの襞がある。その襞にはサン・シモンからマルクスまでが、ベルリオーズからバクーニンまでが、バルザックからワーグナーまでが入りこめた。
こういう詩人はヨーロッパにもめずらしい。アルチュール・ランボオはパリ・コミューンの騒然に熱狂はしたけれど、知性と感性が包む革命幻想は描けなかったし、周囲もそれを期待しなかった。
いったいハイネとは何だったのだろうかと思う。こんなことを書いている。「思想は行動になろうとし、言葉は肉体になろうとする」。「多くを所有する者は、なお多くを手に入れる。僅かしか所有しない者は、その僅かなものさえ奪われる」。「私はじっと墓の中に寝て、じっと見張りをしていたい」。
ところで、岩波文庫には『流刑の神々・精霊物語』が入っている。これは見逃せない作品だ。グノーシスの知に富み、ボルヘスの香りをもち、フレイザーの『金枝篇』の趣きがある。すでに文明が殺したか流してしまった神々との交流が描かれているのだが、そうか、ハイネはこの神々を求めて革命を幻視していたのかとも思わせる。