父の先見
ルネサンス博物問答
晶文社 1993
Bernard Palissy
Recepte Véritable 1563
[訳]佐藤和生
年表がついている。たった7ページだが、いつまで見ていても飽きない。ルネサンスの隠れた歴史が、形をもった土のひび割れの隙間から鮮やかな釉薬を窯変させるかのように立ち上がってくる。
ぼくはこの本を読んだとき、すぐに山田脩二に感動を伝えたくなった。脩ちゃんはもともとはモノクロームの風景を撮らせたら天才的な写真家だったのだが、その後、突如として湯布院に移住し、温泉村の日々を撮っているのかとおもったら、いつのまにか淡路島に引っ越して、しばらくして本格的な瓦職人になってしまった。脩ちゃん自身がこう言ってよく周囲を笑わせているのだが、彼は“カメラマン”から“カワラマン”になったのだ。
パリシーの父親も瓦職人だった。その瓦職人のもとにパリシーの技芸が開花した。1510年だから、レオナルド・ダ・ヴィンチの死の8、9年前に生まれた。やがて焼き絵ガラスの製法に関心をもち、ガラス職人としてブルゴーニュやブルターニュやプロヴァンスなどを遍歴すると、地質、泥灰土、森林などの生きた性質を体でおぼえ、研鑽を究めた。数学や測量法はその前から身につけていた。この時代の修業はのちにゲーテも書いたようにすべからくマイスターになるための遍歴で、つまりは学職の親分になるための遍歴である。
それからニュルンベルクでヒルシュフォーゲル兄弟に弟子入りして、ステンドグラスの下絵師として修業をつんだ。15歳くらいからステンドグラスの下絵に興味をもっていたようだが、ここで本格的にマスターしようとしたのだろう。もうひとつ、このあたりでプロテスタンティズムにも興味をおぼえたようだ。この時代のドイツはルターやカルヴァンによる新教時代なのである。カルヴァンとは一歳ちがいだった。
ついでパリシーは30歳ころに、目がさめるような1つの釉陶に出会う。皿である。研究者たちはフェラーラの窯で焼かれたものだと推測している。別の説ではマジョリカ焼ともいう。ともかくこれでパリシーの血と体に革命がおこり、釉陶の研究に没頭していったのだ。陶工パリシーの名が上がるのはまだあとであるが、このときの感動は生涯にわたって共鳴しつづける。エクアンの城館とサントの城壁塔に初期の陶芸工房をつくったときも、その釉陶皿がパリシーの頭の中で鳴り響いていただろう。
パリシーが釉陶に出会ったのは1540年である。これは、日本でいえば千利休が北向道陳の紹介で武野紹鷗の門下に入った年代にあたる。一方、パリシーが本書を刊行したのは1563年である。利休が《圜悟の墨跡》を掛けて茶会を開いていた。前年には奈良の松永久秀を訪れて《松屋肩衝》などの三名物に出会い、その前年には山上宗二が利休の門下に入っている。
このような符牒をおもうと、パリシーが陶芸に邁進した時期は、日本で桃山陶器が出現しようとしていた時期とぴったり重なっている。本書が日本の陶芸家や茶道関係者に読まれるべきだとぼくが確信しているのは、そういう符牒にもよる。
しかしそんな符牒がなくとも、本書は日本文化に関心がある者すべてに読まれるべきだ。たとえば作庭者やインテリアデザイナーや園芸家、また土木家や建築家も読んだほうがいい。いやもっと広くクリエイターが読むといい。
パリシーは陶芸だけでなく、造園にも室内装飾にも水道の建設にも、さらには城塞都市構想にも手を染めた。「つくる」ということのすべてに挑んだといってよい。日本ではこれを総じて「作事」とか「作分」という。そのために多くの知識とも格闘をした。したがって、書いてあることはルネサンスの技法なのだが、その背景には紹鷗や利休と同じ精神がある。そう思える。カメラマンからカワラマンになった脩ちゃんにこの本の話をしたくなったのも、そのせいだ。
ついでにいえば、ピエール・ガスカールの『ベルナール師匠の秘密』(法政大学出版局)も一緒に読んだほうがいい。ガスカールはドイツ軍の捕虜となって収容所の日々を5年おくったのちに40近くの職業を転々としながら『死者の時』(岩波文庫)や『種子』(講談社)などでゴンクール賞などをとった静謐な作家だが、これはこれでガスカールの想像力がベルナール・パリシーの技法と思想と時代とをみごとに描いている。
というわけでパリシーはイタリア型ではなくドイツ型のルネサンスを代表する職人ということになるのだが、パリシーは造園家でもあったので、本書はその造園術のための一冊にもなっている。原題を『正しい処方箋』という。日本ならさしずめ室町期の『作庭記』にあたる。質問者と回答者という問答形式で書かれているのは、これはルネサンス後期まで流行した古代ギリシア以来の対話篇スタイルの変形というもので、パリシーに特有のものではない。
主題は一貫して、庭園をどうつくればいいか。ただし、あまたの技法を次から次へ、基礎から応用へと博物学的に処方するという内容になっている。その語りの手順が興味津々だった。
パリシーは造園術を語るにあたって、まず堆肥と伐採計画から語りおこす。ついで「塩」を例に、自然というものが塩・水・土の三要素によってどのように構成されているかを説いていく。あえて塩の話をしているのは、パリシーがこの時代にふさわしく錬金術にもかなり凝っていたせいで、塩は錬金術で最も重視されていたからである。
ようするに庭を作るには、まずもって自然の基本を理解しなさいと言っている。それを最初に徹底的に叩きこむ。そういう自然哲学的な始まりなのだ。これがパリシー流であり、ルネサンスの職人技法というものだった。パリシーは農夫だってフィロゾフィ(哲学と錬金術)をもつ必要があると考えている職人だったのである。その点では科学者であり、自然哲学者なのだ。
もともとヨーロッパでは、庭園というものは創造主の言葉を理想的に配置した一冊の書物であって、時代の理想をあらわすアート&デザインだとみなされてきた。生きた書物であり、造られた立体書物なのである。パリシーにもこの「庭園=書物=芸術」説が生きていて、庭園の見取り図づくりを説明するにあたって、自分がインスパイアされた詩などを紹介している。
この詩篇は104篇あって、驚くべきことにその104篇すべてを庭園化することがパリシーの庭園意志になっていた。詩篇がもっている自然賛歌のすべての要素が庭園のアーキテクチャに転化する。詩句のひとつひとつが十字路、植栽、四阿、回廊、彫像、円卓などになっていく。テキストが次々に立体デザイン化されるのである。まさに庭園は書物だったのである。そこへもってきて、パリシーには時代を先取りするバロック的な感覚があり、詩篇の遊戯性・諧謔性・歪曲性などがデザインの随所にとりこまれた。曲折した天井や奇形的な窓枠やグロテスクな彫像が、こうして含まれていく。
こんなぐあいに話が進むのだが、博物学的であるわりに、なんとも味がある。ヴァレリーやバシュラールやガスカールたちがパリシーに耽ったというのは、よくわかる。この耽読の感覚は、利休が定家に耽り、松平不昧が山上宗二に耽った感覚に通じるものがある。むしろ、日本の近現代の研究者や数寄者や陶芸家や作庭家たちがパリシーに耽らなかったことを残念におもうばかりだ。
ちなみに1986年のことだが、ルーブル美術館の増設工事で、ガラスのピラミッドなどが造られたとき、カルーゼル庭園付近でパリシーの工房跡が発見され、話題になった。パリシーの研究はこれからである。