父の先見
草庭
白日書院 1948
この一冊からぼくの真行草の探索がうらうらと始まった。そのうらうらは紆余曲折のくりかえしでもあった。
顧みれば、京都高倉押小路に住居と松岡呉服店が引っ越し、しばらくしてそこにあった蔵を潰し、隣の帯屋と庭を共有工事して不審庵見立てで写した茶室を父と隣人とが建てたときが、ぼくが茶室や茶庭を瞥見する最初だった。
ところが子供にとっては、これはまったくの闖入者のようなもので、庭の遊び場をなくしたぼくと妹には、それらの結構のいっさいは猫に小判というよりも、出入りを止められた禁忌の対象だったのである。
たびたび開かれる茶会というものも辛気くさいもので、とうてい子供心を躍らせない。父の茶会はそれでも派手なほうではあったものの、その趣向がわかろうはずもない。だいいち“お薄”など苦くて呑めたものじゃない。それでも自宅の庭に杉皮を張りめぐらした茶室があり、そこにしばしば「ほお、こんなもんつくらはったんですか」といいながら客が吸いこまれていったのを見ていたということは、どこか眼の奥に「異風の印象」というものがひっかかっていたということで、のちに侘茶のことなど考えていくにあたっては、ときどきその遠き日のフォルムが役立った。
堀口捨己のことは、最初、磯崎新さんから聞いたのだと憶う。ふーんそうか、そういう人がいたんだと思った。
そうか、というのは、「建築における日本的なるもの」を考えた人がちゃんといたということだ。当時、日本建築史をおこした伊東忠太や関野貞や天沼俊一のことは何も知らなかった。仮に知っていたとしても、そこからは堀口捨己のことは出てこなかったろう。伊東忠太に始まる日本建築史研究はそれなりに独創に富んだものではあったけれど、その大半が社寺建築や寝殿造りをめぐるもので、茶室のことなど誰一人として注目してはいなかったからだ。だいたいアーネスト・フェノロサやブルーノ・タウトにも茶室は目を奪うものではなかったのだ。昭和7年に出た岸田日出刀の『日本建築史』にも茶室はまったくふれられていない。茶室など建築ではなかったのである。
それを堀口捨己が単身で切り拓いていった。その最初の航跡が本書にのこされている。昭和初期からの論文を集め、昭和23年に白日書院でまとまった。きっかけは、耳庵松永安左衛門が本書にも収録されている昭和7年の「茶室の思想的背景とその構成」にいたく感激して、長い手紙をよこしたことにあったらしい。
本書中の白眉はその「茶室の思想的背景とその構成」という長めの論文である。
ここで堀口は、茶の湯とは「観照としての生活」を好む日本人による「一種の生活構成」である、という見解を披瀝する。一言でいえば、茶の湯というものがつくる空間と時間を「観照生活の表出」と見た。
こういう見方は、いまでは当然のようにもおもえるが、当時はかなり大胆な見方であった。まして建築家あがりの者が言ってみせることではなかった。いったい「照らし合わせて観る」なんて、建築論では罷り通ってはいなかった。それではボードレールにはなっても、建築論にはなりっこない。けれども堀口は日本をボードレールのように見たかった。
そこで堀口は、そこから珠光・紹鴎・利休・有楽・宗二・宗旦その他を自在に横断して、そこに共鳴する仏教や儒教の香りを聞き、それらを天心の茶の湯論の方向に合わせつつ、しだいにペトロニウスの「美の決裁者」としての茶の湯のほうに傾けていこうとしていった。
美の決裁者を茶に感じるということは、茶はフィニッシュの積み重ねでつくられているということである。堀口はこの「それぞれがフィニッシュしていくもの」という一点に茶の湯の思想を最初に仮説してみせたのだ。これが堀口の卓見であり、その後の堀口の推論を加速させた。
たしかに茶の湯は美の決裁をする。そしてその決裁をするためにこそ、季節に合わせ、客に合わせ、時間に合わせた「取り合わせ」を考える。考えて考えて、そして、そのそれぞれの道具の「取り合わせ」をフィニッシュさせる。
こうして、美の決裁のために準備したプロセスを逆に辿ること、あるいは辿らせること、それが茶の湯というものなのだ。
茶事の次第がいったん決まれば、そこは自由であってかつ厳密な小宇宙の流れのままなのである。そこまではペトロニウスだって理解してくれることだろう。
しかし、堀口はこのような主客をまたぐ観照論だけで話を片付けようとはしなかった。ペトロニウスになくて茶の湯にあるものを探していった。それが堀口のいう「数寄の心」と「不同の理」というものである。ここからはボードレールをも越えていく。
「数寄の心」と「不同の理」については、残念ながら堀口は詳しい展開をしていない。けれども、そこには必ず「反相称性」というものが躍如することを強調した。
これはギリシア建築にもルネサンス建築にも見られない。やっとバロック後期になってバッハのフーガなどともに2焦点をもつ楕円構造をもって登場するものの、その反相称は今度は厳(いかめ)しくも華美にもなりすぎた。あるいは、それがバロックの特質でもあるのだが、物語を過剰に用意した。
茶の湯はこうはならなかった。躙口の位置から床の間の花にいたるまで、そこに取り合わせた数々の反相称性を「不同の理」にむけて配在し、そのうえで、それらをまるで意識していないかのように漉きに梳いて、数寄あげた。
物語を減らしていったのだ。こういうことはいくらルーベンスやベルニーニを見ても、見えてこないことなのである。堀口はそこを強調したかった。そして、そのようなことを強調したのは、堀口捨己が最初の人だったのだ。
ぼくがかつて本書を読んだとき、初めて茶室や露地を考えるということが可能なのだという驚きをもった。
それまでは茶の湯を議論できるとはおもわなかった。紹鴎も利休も、そういう議論は無用だと説いているようにおもっていたからだった。しかし、本書は、むしろ紹鴎や利休が心の議論の果てで結構と次第をフィニッシュしていったことを告示してくれた。われわれこそが、その心の議論を再生しないかぎり、茶の湯はただ堕落するだけだということを教えてくれたのである。
いま、あらためて本書をざあっと見て感じるのは、すでに堀口が茶の湯に関する文書をそうとうに読みこんでいたこと、蹲踞・くぐり・にじり・窓・柱・床の間などのインテリアの趣向の作分に多大の注意を払ってその特質を述べようとしていること、とくにそれらのいずれもが「構成的」(コンストラクティブ)で、どのひとつも決して自立しようとはしていないことに目をむけていたこと、そのうえで主客のコミュニケーションのおこりかたにこそ「日本的なるもの」の最も重大な秘密を嗅ぎ分けていることである。
こうしたことは、たしかに岡倉天心においてはすでに自覚されていた。けれども天心はまだまだ精神性のみを強調するところがあって、その茶室空間に出入りするものたちが声をひそめて対話していることまでを描かなかった。堀口はそこを初めて生き生きと取り出した。
まさに『草庭』によって、茶の湯の語り方が昭和再生したといわれるゆえんであろう。