父の先見
ドイツ国民に告ぐ
玉川大学出版部 1999
Johann Gottlieb Fichte
Reden an die Deutsche Nation 1807
[訳]石原達二
一人の哲人が国民のすべてに何かを訴えることは、歴史上においてもそうそうないことだ。フィヒテがそれをやってのけた。レーニンや孫文や浜口雄幸やヒトラーやカストロのような政治家や革命家ではない。フィヒテは哲人であり、一介の大学教授だ。
著述ではない。声を嗄らしての肉声の演説だった。マイクロフォンもなかった。それも一回や二回ではない。一〇回をこえた。なぜフィヒテはドイツの国民に向かって熱烈な演説を連打しつづけようとしたのか。その肉声で何を訴えたかったのか。
ぼくがこの本の標題を知ったときの名状しがたい戦慄感のようなものは、何といったらいいか、ニーチェが「ツァラトストラかく語りき」とか「この人を見よ」と言ったということを知ったときと、よく似ていた。ドイツ国民に告ぐ? そのころのドイツとはどういう国だったのか。大群衆を前にして語ったのだろうか。いやいや、大学の先生がそんなことをするはずがない。そもそもいったい、このフィヒテという男は何者だったのだ?
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは、一七六二年にザクセン地方ドレスデン近郊の寒村の職人の家に生まれた。八人きょうだいの長男である。幼くして聡明だったようだが貧しすぎて修学できず、近くの教会で聞くゲルマン神話に耽っていた。
そういう少年フィヒテに興味を寄せた男爵ミルティツ侯がいて、そこに引き取られ、名門プフォルタ学院に入った。ここは青少年期のニーチェやランケが学んだところだ。一七八〇年にはイエーナ大学に進み、神学を修めた。ワイマール公国領の大学で、カール・アウグスト公のもとでゲーテが活動を始めると、たちまち文化センターとなり、シェリング、シュレーゲル兄弟、ヘーゲルらが学んだ。
ところがその間にミルティツ侯が死去したため、学資がストップした。二六歳で研究を断念したフィヒテは、自殺を考えるほどの貧窮になったらしいが、友人の紹介でなんとかスイスで家庭教師の職を得た。このときカントのテキストを教材にした。
カント哲学に関心をもったフィヒテは一七九一年にケーニヒスベルク(現在はカリーニングラード)のカント翁を訪ねた。七十歳に近かった。そのときのカントの示唆は体の血を清新にした。その気分のまま処女作『あらゆる啓示批判の試み』(哲書房・全集1)を書き、カントの紹介で出版にこぎつけた。評判がいい。
一七九四年、イエーナ大学の教授職に就いた。「根本哲学」を主唱していたラインホルトの後任だ。すぐに『全知識学の基礎』(岩波文庫)を問い、知識人を唸らせた。これは惟うにイアン・ハッキングばりの編集的世界観の近代的な芽生えのひとつであって、またヘーゲルが組み上げることになる現象学の萌芽でもあった。
一七九八年、三十代後半になっていたフィヒテはしばらく哲学雑誌を編集していたのだが、そこに載せた文章が無神論だとの非難をうけ、論争に発展した。「無神論論争」だ。翌年、イエーナ大学を追われるようにして辞めたフィヒテは、若きシュレーゲル兄弟、シュライエルマッハー、ティークらのロマン派の文人たちと交流するようになって、新たなドイツ人としての深い自覚に入っていった。フィヒテが「ドイツ」や「ドイツの魂」を強く感じはじめたのはここからだったろう。
そこに立ち塞がったのがナポレオンである。ドイツ人にとってナポレオンの侵略がどういうものだったかは、日本人のぼくには想像を絶する。いろいろ書いてみたいことはあるけれど、その時代背景については略する。ともかくもフランス軍がプロイセンを支配するなか、ベルリン大学の哲学科の初代教授になった。
フィヒテは何度も軍靴の音が高まるベルリンで講演に立ち、祖国の再生を訴えたのである。ウンター・デン・リンデン通りにある真冬のベルリン科学アカデミーの講堂だ。講演は一四回。「我々」(das Wir)を語った。それが『ドイツ国民に告ぐ』である。
次のように演説を始めた。「独立を失った国民は、同時に、時代の動きにはたらきかけ、その内容を自由に決定する能力をも失ってしまっています。もしも、ドイツ国民がこのような状態から抜け出ようとしないなら、この時代と、この時代の国民みずからが、この国の運命を支配する外国の権力によって牛耳られることになるでしょう」。
そして、次のような趣旨を激烈に語っていく。
私がこれから始める講演は、三年前の冬に行った『現代の特質』の続きだ。私は先の講演においてわれわれの時代は全世界史の第三期にあたり、たんなる官能的利己心がそのすべての生命的な活動、運動の原動力になっているということを申しのべた。しかし同時にこれがために、利己心は行くところまで進みすぎて、かえって自己を失うに至ったのだとも申しのべた。
これでは行方を失いつつあるドイツは救えない。私はこの講演をドイツ人のために、もっぱらドイツ人についての出来事に絞って語りたい。なぜドイツ人のためなのか。それ以外のどんな統一的名称も真理や意義をもたないからなのだ。
われわれは、未来の生を現在の生に結びつけなければならない。そのためにはわれわれは「拡大された自己」を獲得しなければならない。それにはドイツはドイツの教育を抜本的に変革する必要がある。その教育とは国民の教育であり、ドイツ人のための教育であり、ドイツのための教育である。
私のこの講演の目的は、打ちひしがれた人々に勇気と希望を与え、深い悲しみのなかに喜びを予告し、最大の窮迫の時を乗り越えるようにすることである。ここにいる聴衆は少ないかもしれないが、私はこれを全ドイツの国民に告げている……。
フィヒテの講演は、このあと新たな教育の提案に移っていく。それこそはドイツ人の、ドイツ人による、ドイツ人のための教育計画とその哲学の披瀝だった。ここでその内容をあっさり要約してしまうのは、フィヒテの演説の熱情と口調を失わせるのでしのびないけれど、やむをえずかいつまむと、提案はおおむね六項目にわたっていた。
(1) 学校を、生徒が生み出す最初の社会秩序にするための「共同社会」にするべきだということ。
(2) 教育は男女ともに同じ方法でおこなわれなければならないということ。
(3) 学習と労働と身体が統一されるような教育こそが、とくに幼年期から必要であること。
(4) 学校は「経済教育」をおこなう小さな「経済国家」のモデルであろうとするべきであること。
(5) 真剣な宗教教育こそが「感性界」を可能世界にしていくはずだということ。
(6) すべての教育は国民教育でなければならず、したがってすべての教育はドイツ人に共通のドイツ語でなければならないということ。
この六項目だ。いまではそれほど画期的なことを主張しているわけではないように見えるかもしれないが、当時の教育論がスイスのハインリッヒ・ペスタロッチの民衆救済型の農場的教育論に代表されている時期に、教育をドイツ人の民族観念や言語感覚と根本的に結びつけ、それを熱情あふるる口調で主張しつづけたということは、やはり尋常ではなかった。
フィヒテの思想は有機的で生命観に充ちていた一方、きわどいところも差別的なところもある。とくにユダヤ人については警戒を解かなかったし、しばしば排撃的な言辞を用いた。のちに反シオニストらがフィヒテに心酔したのはそのためだ。
しかし、カント哲学を最初に継承したのもフィヒテだったのである。ヨーロッパの知的世界観は、フィヒテを外しては先につながらない。久保陽一の『ドイツ観念論とは何か―カント、フィヒテ、ヘルダーリンを中心にして』(ちくま学芸文庫)や大橋良介編『ドイツ観念論を学ぶ人のために』(世界思想社)などを覗かれるといい。
フィヒテは「知識学」(Wissenschaftslehre)の人であった。「知識学を生きる哲人」であった。知識で生きるのでなく、知識学を生きるのである。こんな一節がある。「知識学をもつ者は、(略)知識学を生き、知識学を行い、自分のそのほかの知の内でそれを駆使する。(略)人は知識学をもつのではなく、知識学であるのであり、誰であれ、自身が知識学になってしまうまでは、知識学をもつことはない」。
何かを覚悟しているような表明だ。知識ではなく知識学が血をもって生きる。これは知識学者になるということではない。机になるのではなく机学になるように、星を見るだけではなく星学になるように、存在を担うのではなく存在学になるように、知識に向かったり知識を取ったりするのではなく知識学になる。
そんなこと、ありうるのだろうか。フィヒテはありうると見た。フィヒテのあとのヘーゲルも、ありうると見た。それが「ドイツ観念哲学」という、空理空論を怖れず、そこに全存在を投与してしまおうという、とんでもない哲学である。その全貌はともかくとして、こんなことが成立するために、フィヒテが前提にしたことがある。それは理性を理論的な理性と実践的な理性に分けないと決めたことだ。理論理性と実践理性は一つの理性の二つのあらわれであるとみなしたのだ。
フィヒテの言う「一つの理性」とは「自我」(das Ich)である。たんなる自我ではないので、フィヒテは「絶対自我」とか「同一自我」とか「自我の原則」というふうにも言った。もし「一つの理性」が絶対的な原則をもちうる自我だとしたら、どうなるか。理論に傾く自我と実践に向かう自我は、その根元において統合(synthese)されているのである。絶対的自我の両面性のようなものが、われわれを考えこませたり、行動させたりしているということになる。
このように自我があらわれることを、フィヒテは「事行」(Tathandlung)と名付けた。わかりにくい訳だけれど、平たくは「なりゆき」とか「なりふり」というところだろう。その「なりゆき」や「なりふり」を含む「事行」に理論理性も実践理性もひそんでいるとみなしたのだ。ただし、少し気になることがある。それは自我はずっと持続しているのかどうかということだ。また定常的なのだろうかということだ。定常的であってほしいので絶対的自我という想定をしていたのだが、そうでもないこともある。つまり「非我」(das Nicht-Ich)になっていることもありうる。
こうしてフィヒテは、自我と非我を孕んだままに世界の全知識に向かえるような「原則」(Grundsatz)をもつ人間のありかたを、まとめて「知識学としての全部自己」というふうに捉えたのである。全部自己というのはぼくの翻訳だ。そのことを証明してみせたのが『全知識学の基礎』という、岩波文庫二冊分だった。
フィヒテはベルリン大学の総長になったあと、チフスに感染して一八一四年、五一歳で急死した。後年、ヘーゲルは生前の強い希望で自分の遺体をフィヒテの隣に埋葬させた。フィヒテ亡きあと、ドイツ観念哲学はシェリングとヘーゲルに渡っていくのだが、そこにはドイツ・ロマン派の動向がつねに絡んでいった。
そのドイツ・ロマン派の領袖であったシュレーゲル兄弟の弟フリードリヒ・シュレーゲルは、ドイツをつくったのはフランス革命とフィヒテの知識学とゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』だったと言った。きっとそうだったのだろうと思う。
フィヒテはさらに次の次の時代の思想も予告していた。哲学は必ずやどこかで「絶対悪」を求め、いわゆるニヒリズムに達するだろうというものだ。この予告は当たっていた。時代思想はシェリングの「無底」やバクーニンの「無政府」をへて、ニーチェの「超人」にも向かったのである。
こんな説明でフィヒテの知識学という怪物の輪郭が伝わったかどうかやや心もとないけれど、もう一言、加えておく。フィヒテは、こういうふうに「知識学としての全部自己」が動くのは、知識は必ず定立(These)と反定立(Antithese)の両方で動き出し、そのどこかで統合(Synthese)をおこしているからだとみなして、このような考え方の有効性を強調していったのだ。アリストテレス以来の弁証術(ディアレクティケー)は、こうしてフィヒテ、ヘーゲル、マルクスの弁証法になったのである。