父の先見
消えゆく言語たち
新曜社 2001
Daniel Nettle & Suzanne Romaine
Vanishing Voices 2000
[訳]島村宣男
いま地球上にはおよそ6000の言語がある。地球のどこかで話されている言葉の数だ。世界中の言語名、方言名、別呼称を総計すると39000語にのぼる。けれども、国は200くらいしかない。それでも単純に平均すれば1国あたり約30の言語が使われていることになる。
言語というものは猛烈に多様なのだ。ただし近現代になるにしたがって、地域によって疎密ができてしまった。実際にはアフリカやポリネシアのように、地域によってものすごい数の言語たちが隣りあってひしめいているところと、ヨーロッパのように寡占状態のところがある。だから、この「1国30言語」という平均像はいつわりの数字であるが、しかしその程度に言語というものは数が多いのだ。
実情はもっと複雑だ。世界に6000言語があるといっても、この数は500年前の半分にすぎない。この500年間で世界の言葉は約半分が死滅してしまったからだ。しかも、その半分になった言語のほぼ20パーセントが、いままた瀕死の状態にある。それも加速的に消滅しつつある。
本書はこのような広域でおこりつつある言語消滅に関する克明なレポートであり、かつ、その要因を政治・経済・社会の過激な変動に探して告発しようという提案になっている。
7年前、世界中の名だたる言語学者がトルコの小さな寒村に集まった。コーカサス北西部で話されていたウビフ語の最後の話者が危篤になりそうだというニュースが伝わったからだ。
こういうことがのべつおこっている。それも毎年だ。1982年にオーストラリアのムババラム語の最後の話者が死んだ。その2年後にはマン島語の最後の話者が死んだ。オーストラリアでは先住民言語が1年に1言語ずつ滅んでいるらしい。ヨーロッパ人と接触する以前のオーストラリアには、確認されているだけでも250以上の言語が生きていた。
コロンブス到着以前の北米大陸だって、推計300言語が話されていた。いまはそれが175言語になった。ざっと半分が死滅した。半分が残っているとはいえ、話者がたった10人以下の言葉が51言語にものぼる。これらがまもなく死滅していくだろうことは目に見えている。ワッポ語の最後の話者のローラ・サマーサルばあさんが死んだのは1990年のことだった。
なぜ言語(語り言葉)は消えていくのだろうか。駆逐されるのか、それとも自滅するのか。その両方ともいえるし、そんなふうに単純には説明できないともいえる。事情は複雑なのである。
たとえば1932年にエル・サルバドルでおきた事例は、まことに悲しい事情を物語っている。農民暴動がおきた。そこで服装や体つきでインディオと見なされた連中が片っ端から殺されることになった。その数、約25000人におよんだ。3年後になってもラジオや新聞はインディオの暴動を警告し、暴動がなければ先進国からの援助も得られるというキャンペーンをしていた。そこで多くの先住民たちが、インディオと見られないようにするために自分たちの言語を放棄していったのだった。
こういう事態が各地でおこっているわけなのである。差別の激しいケニアの作家ングギ・ワ・ティオンゴは、果敢に自分の言語であるキクユ語による文章をあえて発表しつづけたため、投獄された。
服装なら変えられるし、髭なら剃ればすむ。髭はまた伸ばせばはえてくれる。けれども皮膚の色や言語の特徴はなかなか変えられない。言葉ははえてこないのだ。それらは身体の内側からつくられている。だから、北部同盟がタリバンを放逐したところで、北部同盟にパスティン人が残っていれば、その言葉はまだ続く。しかしかれらが死ねば、言語も死んでいく。ボスニア・ヘルツェゴビナやチェチェンやウイグルで、民族や部族が抑圧されたり殺されたりするような事態が進行すれば、その言語はひとたまりもなく壊滅してしまう危険性をもっているわけなのだ。
さらにもっと恐ろしい事情もある。英語がますます広まっているという問題だ。少数民族の言語を研究する者たちは、英語を「殺し屋の言語」とよんでいる。「アイルランド語は英語に殺された」というのは、かれらのなかでは合い言葉になっている。
1966年、すでに世界の70パーセントの郵便物が英語に、ラジオ・テレビの放送言語の60パーセントが英語になっていた。はっきりしたデータはないのだが、国際政治の場面や教育の現場でも英語がそうとうにふえている。インターネットによってさらに英語の殺傷能力は増してきた。英語をつかう者には加害者の意識はない。それなのに英語は殺し屋なのである。
英語という言語自体の文法や発音や言いまわしに殺し屋の要素があるわけではない。英語をつかう場面の強引と暴力が英語を強くしているにすぎない。ごく最近、日本でも英語を公用語にしようとか第2公用語にしようといった提案が出て、一部の者たちの“国語の良心”をいちじるしく傷つけたことがあったが、そのような提案に呆れることができる人数があまりにも少ないことにも、ぼくは呆れたものだった。
今日、使用頻度の最も高い100程度の言語を、世界総人口の90パーセントが話している。国連には6つの公用語しか用意されてはいない。ひどい寡占状態である。残された10パーセントの多くはアジア・アフリカにいる。とくに熱帯地域に多い。
なかでもアフリカは重症で、すでに54言語が絶滅し、さらに116言語が絶滅の危機にある。多言語地帯としてとくに有名なナイジェリアでは、いままさに17言語が涸れつつあるという。アフリカはまた、全体としては2000言語があるにもかかわらず、20語系にしか仕切られていないという状態にある。
それなら、これらの言語は消滅するのもやむをえないほど特徴の薄い言語なのかといえば、そうではない。むしろ逆なのだ。たとえば、81個の子音とたった3個の母音でできているウビフ語、5個の母音と6個の子音しかもたないパプアニューギニアのロトカス語など、多くの言語が言語学上でもいちじるしく興味深い特徴をもっている。イヌイットの言葉はたいていは犬の重さやカヤックの大きさと氷や雪の種類とが対応できるようになっているし、北米ネイティブ・アメリカンのミクマック語は樹木の種類を風が通る方向や音によって呼称できるようになっている。まことに雄弁なのだ。
ぼくが注目しているオセアニア系の言語の多くは、「譲渡可能な所有物」と「譲渡不可能な所有物」という区分けによって言語が分類できるようになっていて、世の中の品詞というものが男性名詞と女性名詞でできているわけでも、自然名詞と固有名詞に分かれているわけでもないことを、誇り高く告げている。
そもそも言語には、拡張しつつある特定言語に接触すると、しだいに単純化していくという性質がある。シンプルになる。単純な言語が複雑な言語を駆逐するというのではなく、特定の言語が政治力や経済力を背景にして大量に流れ、その大量言語に他の少数言語が接すると、その言語が単純化する傾向があるということだ。英語が殺し屋になるのはそのせいである。
しかし、エル・サルバドルの事例がそうであったように、言語というものは言語だけが自立しているのではなく、その言語が使える生活状況や政治経済状況がまとわりついて次々に生病老死をくりかえしているものだ。また、そこには侮蔑や差別や嘲笑がつきまとう。いくら方言がすばらしいからといって、テレビで訛りのなおらない言葉づかいをしていたら、とたんに仲間から冷やかされて、そのまま意気消沈して芸能界を降りたタレントも少なくはない。
言語は多様であるにもかかわらず、その言語がもたらす文化の多様性を手放しでは確信していられない。その言語を使う文化の場面がしだいに少なくなっていけば、そのまま言語の多様性も削られていく。そういう宿命をもっている。それにもかかわらず、生物が絶滅の危機に瀕していることには先進国はやかましく言うわりに、こうした「絶滅途上の言語種」については、まったく対策がたてられてはいない。
本書は、「生物多様性」というものがあるのなら、それに匹敵する「言語多様性」があるということを、ほとんど喉を嗄らすほどに訴えている。本書はだから、グローバリズムに対する徹底抗戦を謳った一書でもある。しかしながら、どうも、このような絶叫に似た言語学者や言語生態学者たちの訴えは、ほとんどの政策決定者や知識人には届いていないようである。とくにグローバリズムやコンプライアンスが「言語多様性」を奪っている。逆にナショナリズムのほうも母語の多様性を単純化してしまう。
ぼくは本書を読んでずいぶん寒気をおぼえたけれど、そのように寒気を感じる読者数もおそらくはものすごく少ないのだろうとおもう。ぼくは以前から好きな造語を文中や会話の中につかうのが平ちゃらなのだが、新聞や出版社の校閲者からはたいてい訂正を求められるし、テレビ番組では「言いなおし」を強いられる。これでは、ぼく自身の言語感覚が絶滅種に近づいているというふうに言われてもおかしくないということになる。ああ、無情。ああ、無常。