父の先見
悉皆屋康吉
創元社 1945
悉皆屋は広くは呉服屋のひとつの職能をさすが、狭くは染色ディレクターのような職能をいう。大阪で生まれた。やがては呉服屋に近い職能も含み、洗い張りも湯通しも仕立ても何でもやった。
何でもやったから「悉皆」なのである。ただ「何でも」は受けの何でもで、悉皆屋は手持ちには何もない。生糸も白生地も反物も帯も何もない。すべては外から取り寄せて、注文に応じたものを仕上げてお届けする。
一方、専門職としての悉皆屋は、呉服屋や客の注文で着物の布地の染めや染め直しを染物屋と掛けあい、客の注文通りの色に染めさせる。それが悉皆屋の本来の仕事だが、それでは色見本に合わせるだけの“色の仲買人”か“染色コンサルタント”にすぎないので、そこで注文以上の色を編み出したり、逆に新しい染め色の色合いをつくりだしたりして、客や呉服屋にその色を熱心に勧めるということをする。本書の主人公の悉皆屋康吉もそういう色の作り手で、本物のあきんど職人だった。
康吉は稲川という小さな悉皆屋の小僧に入り、手代となった。そのうち梅村市五郎の番頭に引き抜かれた。梅村は浅草馬道で商売を始め、京都の山春という大きな染物屋にわたりがついてからはめきめき身代が肥え、震災前には日本橋きっての悉皆屋になっていた大店で、康吉はそこの大番頭の伊助に目をつけられる。
伊助は康吉を鍛えに鍛えた。白地の紋縮緬一反を無地の深川納戸に染めてほしいという注文がきたときは、うっかりふつうの納戸色だと早合点してしまったのだが、伊助は「納戸は色気が大変なんだ」ということを叩きこむ。
納戸には深川納戸と鴨川納戸があって、ここには江戸の色気と京都の艶のちがいがある。深川納戸はすこし沈んで、鴨川納戸はすこし光っている。その深川納戸と、隅田納戸と花納戸ではまたちがう。橋立納戸と鳥羽鼠のちがいを見分けるのもなかなかむずかしい。そのほか相生納戸、幸納戸、鉄納戸、藤納戸、大内納戸など、納戸色にはさまざまのヴァージョンがある。ぼくの母は藤納戸のお召が気にいっていた。
こうして康吉は染め色の風合いをしだいにマスターしていった。康吉はそういうことが大好きだったので、まるで露伴(983夜)の主人公に出てくる江戸の職人のように研究熱心になっていく。
時代は大正末期から昭和の戦争期におよぶ。当時の呉服屋の仕来や風情が軍靴の響きが高まるなかで鮮やかに浮かび上がってくる。
こういう小説は露伴や鏡花(917夜)の時代をべつにすると、昭和の現代小説ではめずらしい。職人気質の芸術家を描くとか、まして商売人の気質を描くなどということは流行らなかった。芸人の話なら川口松太郎をはじめずいぶんあったけれど、職人や商人は小説の主人公になりにくかった。
そうしたなか、敗戦直後に最初に活動を開始したのが丹羽文雄と舟橋聖一で、二人とも41歳だった。舟橋は昭和16年ごろから『悉皆屋康吉』一本に絞って執筆しつづけていたらしい。東京が空襲にあうと熱海の来宮の旅館にたてこもった。同じ熱海の西山潤雪庵では谷崎潤一郎(60夜)が『細雪』を書いていた。
舟橋聖一は本所横網町生まれだから生粋の江戸っ子である。その体には関東大震災で灰燼と帰した江戸文化が埋もれ火のようにたぎっていた。その埋もれ火が『悉皆屋康吉』やその次の『田之助紅』で炎をあげる。そのかわり、舟橋はかなり勝手気儘に生き抜いた。戦時中に「戦争に背をむけて女と寝ていて何が悪いのか」と開きなおって物議をかもしたこともある。敗戦の夜は嬉しくて家中の電灯をつけて、それまで敵性音楽だったジャズをかけた。
作家としてのプライドもそうとうなもので、大村彦次郎の『文壇栄華物語』(ちくま文庫)によると、戦前に原稿料がトップだった菊池寛(1287夜)のむこうをはって、戦後は原稿料日本一をめざした。本当かどうかは知らないが、いっときは日本一になったと聞く。
ぼくは父親が舟橋ファンだったので(だいたい父は新派の舞台にのるようなものはなんでも好きだった)、勧められて読んだ。父が勧めるというのは、「これ、おもろいで。ここに入れとくさかいな」と言うだけで、父の部屋と居間とのさかいの低めの棚が家族のフリマのようになっていて、そこで家人各自が勝手に沈黙交易をするようなもの、とくに押し付けがましくはない。むしろ暗示的だった。
それになんといっても、わが家自体が悉皆屋型の呉服屋だった。母も京都の呉服屋の大店の大番頭の娘だったし、父はもともとは近江の長浜の家から来た。まだ浜縮緬が幅をきかせていた時代である。最初の店が「中辻商店」、次に「松岡商店」、最後は「呉服商松岡」だった。ただ繊維不況はそのころにもう始まっていて、どこの呉服屋もナイロンやレーヨンとどのように闘うのか、いろいろ対応を迫られていた。
父は旦那衆で徹底した遊び人でもあったので、とうてい商売一途とはいえなかったけれど、そのかわり唐突に好きな方向転換をする。最後は横浜元町に呉服屋を出すといって、一家で京都を引き払い、元町と外人墓地のあいだのロシア人が大家のボロ洋館に越した。店は出したがすぐに失敗し、50代で死んでいった。
そういうことがあったから、『悉皆屋康吉』はちょっと他人事ではなかったのである。読んでみて、康吉があきんど職人一筋のような主人公であったのが意外だったが、父はきっと康吉のような番頭がほしかったのだろうということがすぐにわかった。呉服商松岡には生真面目な商人は多かったのだが、康吉のような開発型のあきんど職人はついぞいなかった。
康吉は、色見本通りの色を出すだけでは満足しない。既成の「玉川」「浅黄」に納得できず、「玉川浅黄」のような合色を試みたり、「柳納戸」といった色を考えた。とりわけ「若納戸」が大当たりをし、震災前の東京で話題をまいた。
しかし、すべては震災でおじゃんとなった。梅村市五郎も伊助や康吉を連れて水戸へ逃げ、そこで商売を構えなおすのだが、うまくいかない。ついに身上をたたみそうになってきたので、康吉は自立することにした。
そこからの物語がこの小説の狙ったところで、さんざん苦労をしながらも悉皆屋としての、男としての本望を遂げていく。小さなヴィルヘルム・マイスターなのである。着流しのゲーテ(970夜)なのである。のちに佐々木基一はこの作品は『細雪』に匹敵するといい、平野謙は「日本文学者全体が誇りとすべき作品」と褒めた。旧「文學界」の同人仲間だったとはいえ、亀井勝一郎は「自分はあえて昭和文学史上の代表作といって憚らない」とまで絶賛した。
正直いって、そこまで褒めたくなるような作品ではないのだが、たしかに読んでいると、昭和の戦火が広がろうとしているなか、康吉が一途に「技」に徹しようとしていることに共感する。それを文芸批評家が挙って言うように「芸術的良心」が書けているかといえば、多少はそうではあろうが、そうなるとヘルマン・ヘッセ(479夜)やトーマス・マン(316夜)と比べたくなって、よろしくない。むしろ和服の社会にひたむきである男の姿が淡々と伝わってくるのが、この作品の結構なのだ。この結構は、骨董屋を書いた舟橋の『あしのうら』(集英社『舟橋聖一自選集』に所収)などにもめらめらしていた。
もっとも最近は、『悉皆屋康吉』の刊行が日本の敗戦の3ヵ月前であったことが注目されて、舟橋が昭和の戦争に抵抗しつづけていたことを評価する向きがおこってきた。石川肇の『舟橋聖一の大東亜文学共栄圏』(晃洋書房)などが舟橋の戦前ノートなどを調査して、そのあたりの事情を浮上させたりしている。『悉皆屋』は昭和の「抵抗文学」を象徴することになってきたのだ。
でも、どうだろうか。ぼくにとっては、この作品はいまなお父を追憶するよすがなのである。加えて、ぼくは昭和19年生まれだから、やはりのことに「昭和」というよすがを何本もの色糸を縒って、手元の糸巻に巻きつけておかないと、いざというときの昭和の上っ張り一枚が着られない。こうしてときに、ぼくは山本周五郎(28夜)や舟橋聖一や織田作之助(403夜)を夜陰に読み耽る。