父の先見
冬の紳士
新潮社 1951
大佛次郎なら『帰郷』か『パリ燃ゆ』か未完の大作『天皇の世紀』か、そうでなければ『鞍馬天狗』や『赤穂浪士』だ。そう思っていたのだが、大佛が思いを込めた大衆小説というのか中間小説というのか、そんな曖昧然とした領域になぜあれほど真摯な情熱を費やしたのかということについて、ふと『冬の紳士』という長篇を読んでいるうちにピンときたものがあったので、そのことを書いておこうと思う。
大佛は多作な作家で、ノンフィクションに強い書き手でもあるが、駄作が少ないことでも知られる。大当たりした『照る日くもる日』や『宗方姉妹』などを読んだり、映画化されたものを見たりしていると、ただの通俗物語としてうっちゃっておいてもよさそうなのに、ズシンとするものがある。そこには何かを譲らない大佛の信念といったものが感じられる。
もうすこしずばりといえば、大佛を語らずして、「昭和の忘れもの」は掴めまいということだ。いやさらにニュアンスを伝えるために他の作家を並べれば、大佛や山本周五郎(28夜)や井伏鱒二(238夜)や山田風太郎や、あるいはまた石川達三や吉行淳之介(551夜)や有吉佐和子(301夜)や五木寛之(801夜)を語らずして、昭和の正体なんて掴めようがないということだ。なかで大佛は最も広くて深い時世観をもっていた。それが短い作品にさえあらわれているということに、あらためて気づかされたわけなのだ。
この小説は身近かな者たちから「冬の紳士」とよばれている尾形祐司という男をスケッチした。この紳士は大佛が紙背に置いていった燠火なのである。
敗戦後の東京、それも新橋や銀座の夜の街と、丸の内や田園調布や霊南坂などの焼け残った東京のあちこちでいささか理解しがたい行動をとる「冬の紳士」と、戦争の傷痕をもったままかつての現場に舞い戻っていった男たちと、どんな現場にも実感をもてなくなった女たちが、なんともいえない日常の哀歓をくりひろげる。話はそれだけなのだが、「冬の紳士」がそこに置いていった燠火が、いい。
これは、昭和23年に毎日新聞に連載された『帰郷』の元海軍軍人の守屋恭吾が、他人の罪をきて異郷をさまよい、戦後に帰国するものの、そこには守屋が求めていた日本の伝統がすっかり荒廃していて、説明がつかないほどの空しい帰郷感を実感していくという、あの感覚とも共通するもので、大佛が中間小説につねにしつらえた怒りやニヒルや諦観が滲んでいる。ただし大佛はそのことをあからさまに強調しようとはしない。「冬の紳士」の気の毒になるようなダンディズムを通して綴っていく。
だから銀座から新橋に向かったあたりのバー「エンジェル」にいつもふらりと現れる「冬の紳士」の名前も最初はわからないし、紳士が行きずりの女の面倒をみる意図の説明もなければ、最後に生きたままで葬儀を出す理由も、結局はわからないままなのである。けれども、そこには燠火が呟いていた。
もっとも僅かではあるが、「冬の紳士」こと尾形の信条は言葉の端々に出ている。「ひどい曲折のあった世の中だから、誰だって生きるというだけですべてを実感しているはずなのだ」とか、「新憲法になったからといって急に生き方を変えられるわけはない」とか、「北京に行くと食うや食わずの苦力が雲雀を籠に入れ、天気がいい日は籠から放してぼんやり楽しんでいる。夕方になって雲雀が戻ってくるとまた籠に入れて大切に持って帰っていく。私もそうやって自分の雲雀を持ちたい」とか。
とくにぼくがやられたのは、「人間は荷物をこしらえてはいけないのです」だった。かつてヴィリエ・ド・リラダン(953夜)が「生活なんて召し使いに任せておけばいい」と書いたのを読んで、これはこれはと肝を冷やしたことがあったものだが、いま思えば「人間は荷物をこしらえてはいけないのです」のほうが、響きに遠くて近いものが去来する。これが大佛次郎なのだ。しかしもう一度言っておくが、大佛はこういうセリフをやたらには撒かない。夕顔のようにポツンと呟かせるだけである。
大佛が『冬の紳士』を書いたのは53歳のときだ。『帰郷』と『風船』のあいだに入る。当時の大佛はしきりに「孤立した年長者」に照準を絞っていた。かつて鶴見俊輔(524夜)がさすがにそのことを見抜いて、『新樹』の坂西老人、『帰郷』の守屋、『冬の紳士』の尾形、『風船』の村上春樹、『旅路』の瀬木義高はみんな同じ年長者だと指摘していた。
これはつまりは鞍馬天狗なのである。杉作少年にとっての鞍馬天狗だけでなく、幕末の若き浪士たちにとっての、どこからかやってきて、どこかへ去っていく年長の「鞍馬天狗のおじさん」なのである。
考えてみれば、いま、多くの少年少女は「おじさん」を喪失してしまっている。少年少女だけではなく、会社員や学校教員や公務員にも「おじさん」がいない。かつてはそういう得体の知れない「おじさん」がどこにでもいて、つまりは「冬の紳士」がいて、何か天啓のようなものをはらりと落としてくれたものだった。ぼくのばあいは、全盲の叔父であり、日本画家の東福寺のおじさんであり、モーツァルトを聞かせてくれた足利のタモツさんだった。
それがいまはない。日本のどこにも鞍馬天狗としての「冬の紳士」がいなくなって、やたらにスター仕立てのキャラが無謀に待望されるだけなのである。きっと大佛はそのことをはやくも敗戦日本の人間像に見抜いたのであったろう。そしてひとつの年長者の歳寂びた人物像をつくりあげたのだ。その特徴は、ただひとつ、どんなことでも大事にするが、侮辱には耐えがたいということだ。
大佛次郎――。ぼくが大好きだった星の先生である野尻抱影(348夜)の実弟である。横浜の英町、白金小学校、府立一中、一高、東大政治学科をへて、鎌倉女学校、外務省条約局に勤めた。
有島武郎(650夜)にホイットマンの訳読を聞き、ラッセルとクロポトキンとポオ(972夜)を読んだことが大佛をつくった。変わったペンネームは鎌倉大仏の裏に住んだのがきっかけになっている。ぼくはこれから読もうと思っているのだが、はやくに源実朝・日蓮・水戸黄門・由井正雪を時代小説にしていた。
大佛の時代ものは、映画になって子供を沸かした『鞍馬天狗』もさることながら、テレビの大河ドラマのはしりとなった『赤穂浪士』が見逃せない。ここに描かれていたのは落日間近い武士道イデオロギーと新興の町人エネルギーの対比であって、かつ中央の政局とはまったく関係できもしない四十七士における人間と政治の激突だった。とくに千坂兵部のスパイ組織に属して大石内蔵助らの動静をさぐる堀田隼人のニヒリズムの扱いには、机龍之助などとは異なる知の闘争が秘められていた。隼人は元禄社会における「冬の紳士」だったのである。
諸君も、いっときもはやく「冬の紳士」に出会いなさい。惚れなさい。燠火を覗きに行きなさい。けれども、「冬の紳士」は自分で葬儀を出しかねない。その前に「冬の紳士」に助けてもらいなさい。そんなときは、少しは「昭和」を覗きなさい。