才事記

ノスタルジアの社会学

フレッド・デーヴィス

世界思想社 1990

Fred Davis
Yearning for Yesterday, A Sociology of Nostalgia 1979
[訳]間場寿一・荻野美穂・細辻恵 子

 タルコフスキーの『ノスタルジア』の映像が忘れられない。なぜ忘れられないのだろうか。
 ノスタルジアは必ずしも過去への郷愁を意味しない。過去ではないとはいいきれないが、たとえば「元いた故郷」にたいする郷愁は、実際にはその「元いた故郷」がどこかわからなくともノスタルジアが生ずることがある。こういうばあいは故郷といわないで、しばしば原郷という言葉が用いられる。
 もっというなら、最初から特定の場所にかかわりない場所に向かってそこを無性に肯定したくなり、しかもその「ありえないところ」としての原郷がなんとなくあるような気がして、胸かきむしられる思いになることもある。タルコフスキーは、その「ありえないところ」でありながら、「ああ、そうかもしれない」と思っても不満にならないところを映像で綴った。
 では、ノスタルジアが必ずしも過去に関与するとはかぎらないのなら、ノスタルジアは未来にも感じられるものなのか。ここでタルコフスキーに較べるかのように引き合いに出すのは気の毒だが、たとえばハリウッド映画の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を見て、われわれはノスタルジアをおぼえるだろうか。
 本書の著者によると、何代か前のシカゴ市長のリチャード・デイリーは「私はノスタルジアの感じられる未来をつくる」とつねづね言っていたらしい。そこで著者はこの矛盾した言葉に関する感想を市民にインタビューしてみたそうだが、大半の回答者は「その意味はよくわかる」と答えたという。よく考えてみればわかることだろうが、どうもノスタルジアというものは過去に所属するでも未来に所属するでもなく、きっと何かの都合で想定できる時空との対話的な「あいだ」にひっかかっているようなものなのである。
 どこにひっかかっているのか。本書はその疑問に答えようとした。が、あとでぼくがのべる理由によって、ついに正体を突き止めえなかった。そのことを指摘する前に、著者が提供してくれた点検材料を紹介しておく。

 ノスタルジアという言葉は、ギリシア語の"nostos"(家へ帰る)と"algia"(苦しい状態)をくっつけた言葉である。
 この合成を考え出したのはスイスの医師のヨハネス・ホーファーで、ヨーロッパのどこかの戦場に行っているスイス人の傭兵たちが勇ましくなれずに極度に故国に帰りたがっている状態を見かねて、この用語をつくった。つまりはホームシックという意味だった。
 やがて一七三一年あたりに、やはりスイス人の医師ショイヒツァーが「これは病気なのだ」と言い出した。原因は兵士たちが未体験の気圧のなかを進んだことにあって、その過度の負荷が心臓から脳に血液を送りやすくなって、感情の苦しみが生じると説明した。興味深いことにこのことは、スイス人が体質的にとくにこの病気にかかりやすいというふうに、ナポレオン戦争のころまで信じられていた。
 しかし、この分析は笑えない。いまだってホームシック症状の正体もはっきりしないからである。精神医学はせいぜいホームシックは軽度の神経症に転位された「未来についての心配や拒否」だと説明するにすぎない。つまり、現在の状況に順応できない者がおこす神経症だというのである。
 これではたんなる逃避とかわらない。だからホームシックはそのままそれがノスタルジアの正体とはいえない。
 ノスタルジアの感情にはときには逃避行も含まれるであろうけれど、おそらくは誰もがタルコフスキーのあの場所に逃避したいとは思わない。一度でいいからそこに行ってみたいと思うだけなのだ。ノスタルジアは「行方」をもっているようでいて、その行方とのかかわりを夢想できるという何かの根拠にもとづいているものであるはずなのだ。

 ノスタルジアがホームシックや逃避感覚とはかぎらないことを示すには、ノスタルジアの反対語にあたる「ノストフォビア」を想定してみるとよい。
 ノストフォビアは故郷や家郷に対する恐怖や嫌悪が生じることをいう。これは「行方」というよりも「来し方」のほうに対する拒絶であるし、たいていはそこに帰りたくない理由がはっきりしている。したがって、ホームシックもノストフォビアの反対の感覚も、どうもノスタルジアとは関係が薄いと考えざるをえない。

 われわれが感じるノスタルジックな気分をよく観察してみると、そこにはいくつかの傾向のちがいが交じっている。
 著者はそれを、あのころはよかったと懐古できる「素朴なノスタルジア」、あのころは懐かしいがほんとうにあのころに戻れたらいいことずくめなのだろうかという懐疑をともなう「内省のノスタルジア」、自分の知識や感覚がかかわった時代や文化に抱く「解釈のノスタルジア」というふうに、ひどく雑な分類をした。
 なぜこんな無粋な分類をしたかというと、著者によると、ノスタルジアは「揺れるアイデンティティ」に関係があって、なんとかして他者の連続の中に自分の現在を置きたくないために、こっそり別の過去の一時点の自分を持ち出したくなって生じる、保守的だが勝手な感情ではないかというアテをつけているためだった。
 いわば、過去の自分の風変わりな一面を高く称揚したいのだが、それに関連する現場がいまはないために、ついつい別の時間に所属する体験的な場所に関係していた自分を持ち出しているのではないかというのだ。

 このように分析してしまうと、ノスタルジアは過去の自分の一場面を郷愁的に切り取ることから生ずるということになる。実際にも著者はノスタルジアの特徴を次の三つにまとめた。
 Aは、以前の自己に対する鑑賞的な構えを育成する、Bに不快なことや恥ずべきことを記憶からふるい落とせる、Cにかつての自己の少数派で外れ者でエキセントリックであったことを再発見できるとともに、その正常化を通してその復権をはかる。
 これではたんなる錠剤ノスタルジアの効能書きだ。アイデンティティの屈折した復権のためにノスタルジアが活用されているだけである。著者は臆面もなく「ある過去の自己を逆投射することで、暗黙のうちに現在の自己が優位にあることをそれとなく示すノスタルジアの才能」というふうにさえ書いている。
 もっとも、このような説明をすれば、たとえば三島由紀夫やフェリーニの才能を解説するには役立つかもしれない。
 しかし、ベルイマンやタルコフスキーや宮崎駿には、またローデンバッハや水上勉には、あるいは北原白秋の『思ひ出』や『ベルリン天使の詩』のヴィム・ヴェンダースにはあてはまるまい。
 それにここではまったく解説しないことにするが、仏教というものを感じているわれわれにとっては、仏教的な考え方は著者のいうノスタルジアの三つの特徴をすっかりそなえているばかりか、それによって自己を優位にするのではなく、そこから離れることすら可能にしてきたわけなのだから、この考え方には同意しがたいということになる。
 著者はきっと『俺たちに明日はない』や『スティング』や『アメリカン・グラフィティ』を頭に浮かべすぎたのだ。ただし、著者がメディアが偽物のノスタルジアで儲けすぎていると言っていることには、ぼくも同意する。

 実は、ノスタルジアは指定できないものへの憧れにもとづきながらも、その指定できないものからすらはぐれた時点で世界を眺めている視線なのである。
 もっとはっきりいうのなら、ノスタルジアの正体は視線が辿るべき正体がないことから生じたものなのだ。したがってノスタルジアは過ぎ去ったものへの追憶ではなく、追憶することが過ぎ去ることであり、失った故郷を取り戻したい感情なのではなくて、取り戻したい故郷が失われたことをめぐる感情なのである。
 かつてぼくは「遊星的郷愁」という言葉をつくったことがある。プラネタリー・ノスタルジアとでもいうもので、地球に生まれてしまったことを言ってみたかった。「香ばしい失望」、それがぼくのノスタルジアの正体である。では、今夜もグッドバイ。