父の先見
ネコはどうしてわがままか
法研 2001
日高敏隆さんが日本のエソロジー(動物行動学)の母胎づくりに与えた影響は途方もなく大きい。すぐれた啓蒙家でもあったし、またエソロジーの成果を日本のリベラルアーツの底辺に打ちこんだ恩人でもある。翻訳力が群を抜いていたのでコンラート・ローレンツからリチャード・ドーキンスまで、厖大な海外のエソロジーの名著を紹介してくれた。しかもその大半が生物界をめぐる科学者たちの「思索」や「意図」に関係するもので、たんにエソロジーの業績を誇るものではなかった。
そのうえでいうのだが、日高さんはかなり変な人なのである。東大理学部の動物学科を出て、東京農工大から京大に移り、さらに最近は滋賀県立大の学長を勤めあげた人を変な人というのは申し訳ないが、そうとうに変な人なのだ。
だいたい大学教授として最初にパンタロンを穿いて大学に行った。これは村上龍がアルマーニを着つづけていることくらい、変である。次に、噂によれば最初にジーンズで教壇に立った教授でもあるらしい。ぼくはジーンズよりもパンタロンを最初に穿いたことがエソロジストらしい大胆な選択だったと思うけれど、これが突然変異か環境適応かニッチの発見かはわからないが、二度も奇を衒うというのは、エソロジストが孔雀をめざしてしまったようにも思われた。
次に、あれほど数々の名著の翻訳書を世に送ったのに、その連中の思想の肩をもたない。応援団長にならない。つまり誰の贔屓もしないところがすばらしい。むろん研究者たちに非難がましいわけでもない。文句たらたらだったら翻訳もしなかったろう。世界のエライ先生は先生であって、自分は自分でいいんだというところがある。
これはローレンツからドーキンスにいたる訳書の「あとがき」にもあらわれていて、日高さんはろくな解説をしないのだ。ふつうは得々として原著のよさを必要以上に強調し、原著者といかに親しくオックスフォードの研究室でコーヒーを飲み、そのときの片言隻句にも原著者のオリジナルな思想が躍っていたというような、ハーバードのファカルティ・クラブで声をかけられて「君の見解にはキラリと光るものがあるね」と言われたというようなことを書くのに、そういうことをしない。
当初、ぼくは、この人には「あとがき」解説能力がないのかと思ったほどだ。いつも「あとがき」がとても短いのだ。ここを読みなさいとか、著者の思想はここにあるとかも書いていない。ただ語学の能力に長けているだけかと思いたくなる。が、そうではなかったのだ。自分の言葉で生物を語ることに徹しているだけなのである。すばらしい料理人が他人のレシピには口を挟まないといったような、そんな印象なのだ。
ぼくは日高さんが京都に越してから親しくなった。親しくなったのはエソロジーのせいではなくて、ネコのせいである。日高家にはネコが多かった。多すぎた。しかもそのネコの世話をするのは先生ではなくて奥さんである。そこでぼくが日高夫妻と北山通りの喫茶店でお茶でも飲もうものなら、奥さんは先生がいかにネコを理解していないか、それはそれは国際会議で宿敵を破るような雄弁をふるう場面に居合わせることになる。ところが、先生はこれにまったく反論ができない。
これは変である。先生は動物行動学者で、ローレンツの『動物行動学』や『ソロモンの指環』を訳した人なのである。しかもネコどころか、『チョウはなぜ飛ぶか』(岩波書店)といったもっと説明しにくいことを説明できる人なのだ(この本は最高に出来がいい)。それが自宅のネコのことくらいで奥さんとの国際会議の議論に負けるはずがない。それが完敗なのだ。からっきしなのである。
むろんネコの問題に入る前に、人間のオスとメスの関係のむずかしさを人前などでは議論しないという先生のダンディズムが禍いしているのだろうと、その場に居合わせたすべての友人知人は忖度するのであるが、それにしてもなぜネコには弱いのか、周囲一同はまったく理解できなかったものでもあった。
本書はそのような日高先生が『ネコはどうしてわがままか』というタイトルで復讐をとげようとした本である。これはどうでも紹介しなければなるまい。
そこで勇躍、本書を読んでみたのだが、なかなかネコが出てこない。最初のほうでは、ぼくは子供のころから春が好きで、梅にウグイスとはいうけれどあの鳴き声は美しいだけではなく縄張り争いをしているのだとか、ゼンマイが芽吹くのを見ているとほんとうに心が躍るとかなんとか書いて、そのゼンマイにはゼンマイハバチがいてゼンマイを操作しているのだとか、ギフチョウが四月に羽化するのは温度のせいだから、冬眠中のサナギを適当な冷蔵庫に入れるときれいなギフチョウが出てきますというような、まるで春を欺くような話ばかりが書いてある。
まあ、これは前段だからいいやと読み進むと、春にはドジョウも出てきますね、とある。そしてドジョウが何を食べているかとか、オタマジャクシの群には変わった性質があって、一匹のオタマジャクシが敵によって傷つくと、その一匹から恐怖物質が出て、他のオタマジャクシが一斉に逃げられるようになっているという話になっていく。
つまり先生はネコに自信がないのである。できるだけ本題を先送りにしているのだ。それだから、「カエルの合唱はのどかといえるか」とか、「ヘビの走る速度は獲物の速さに追いつかないのはなぜか」とか「カタツムリは雌雄同体なのになぜ交尾する必要があるんだろうか」というような、もちろんそんなことを聞かれたら「はてな?」とは考えこむけれど、だからといってその答えを知ったから日々の生活が充実するわけでもないようなことばかりを、次々に連射するのだ。
ちょっと役にたちそうなことも書いてある。それは話がいよいよテントウムシの段になって(どこがいよいよかはわからないが)、なぜテントウムシはあんなに屈託なく動きまわっているのかという大問題にさしかかったときなのだが、テントウムシを潰して食べるとあんなにまずいものはないというのだ。
どうやら先生はテントウムシを一度だけは食べたのだ。これでは誰もテントウムシを口に入れなくなるだろう。だからこれは役にたつ。しかしネコとは関係がない。関係がないどころかネコはテントウムシを口に入れるようなヘマはしない。
役にたたないことも書いてある。日本では「雀のお宿」といってスズメがたくさん集まってチュンチュンしているところをそう名づけるが、先生はこの「雀のお宿」がどうしてできるのか不思議だなと訝ってきた。とくに烏丸三条の第一勧銀あたりにはスズメがいつも集まっている。その理由に当たりそうなことをイギリスの生態学者が「あれはスズメの人口調整で、スズメはああやって集まっていると、これはいくらなんでも多すぎると気がついて、それで数をへらす気になるのだ」と発表して、先生はすばらしい考え方があるものだと感心した。
ところが、このようなことはその後の調査で否定されてしまったのである。科学者の仮説だからといって役にたたないことも少なくはないという教訓です、と先生は平然と結ぶ。われわれならスズメがそんなことはしっこないとすぐに合点できることを、わざわざ世界中で調査するあたり、学問というものは変なものだと知るという意味では、これは役にたつ話だった。
こうしてさんざん焦らしておいて、220ページの本のやっと158ページになって、イヌは飼い主に忠実なところがあるのに、ネコはわがままなのはどうしてでしょうかね、とまるで主題をほったらかしにしていたことを懺悔するふうもなく、先生はやおら結論に入るのである。
そして、ネコというもの、父ネコと子ネコにはまったく情愛も親交感覚もない。母ネコと子ネコの関係も母から子への一方向の関係付けしかおこっていない。これは疑似親子関係ともいうべきもので、きっと人間の飼い主とネコとの関係もこの疑似親子関係のようなものではないでしょうかと、澄ましたものなのだ。
これはネコがわがままだという説明とは何の関係もない。ネコの自立した性質の解説にはなっていない。自分がネコと親子のような愛情を交わせなかったという事実を隠しただけなのだ。それが証拠に奥さんはネコに溢れるような愛情を注いでいて、日高家とぼくの共通の友人であるティムによると、ネコからも完全に信頼されている。けれども先生はその事実に目をつぶった。
期待してはいけなかった。先生は自分の言葉で自分に有利なことだけを話すのだ。ネコがわがままなのは先生が世話をしていないだけでなく、世話したところで自分に有利にならないことを知っていたからなのである。やはり先生はよくよく「利己的遺伝子」ということを研究しつくしている。