父の先見
我と汝・対話
みすず書房 1978
Martin Buber
Ich Und Du 1923
[訳]田口義弘
ブーバーはこういうことを考えた。世界は人間の二重の態度において二重なのである。人間の態度が二重であるのは、そもそも根元語が二つの対偶語から始まっているためである。
その根元的な二つの対偶語とは、ドイツ語でいう“Ich-Du”(我-汝)と“Ich-Es”(我-それ)ではあるまいか。この二つの根元的対偶語があることによって、人間は「我」そのものが二重であることを知る。だから、我を語るには汝を語ればよく、「それ」が語られれば我は語られ、そこに汝を語ることが介在できるのなら、「それ」を語ることからも存在の開示はあるはずである。
だいたいこういう前提で、ブーバーは我と汝の対話を始めた。そこにあるのはひたすら「関係」(Beziehung)だ。ブーバーは、その関係の世界に投げ出されている我と汝を、我と汝が同時に知るにはどうすればよいかを考察しつづける。
ドイツ語で考えること。
何と多くの哲人たちがこのことに挑んだことだろう。古くはフッサールを考えた土田杏村からニーチェを相手どったジル・ドゥルーズまで。わざわざ母国語を捨ててまで、ドイツ語で哲学したがる者は跡を断たない。
アメリカでは、いっとき「ドイツ・コネクション」ということが取沙汰されて、アメリカの大学生がドイツ語によって形成された思想を学ぶことは危険ではないかという、とんでもない議論がまことしやかに横行したものだった(ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』 みすず書房)。カント、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、フロイト、フッサール、ハイデガーは自由の女神の国アメリカの民主主義教育にはふさわしくないという暴論だ。
それほどに、ドイツ語による思想には独創的なものがあるということなのだ。はたしてほんとうにそうかどうかということは、どこの母国語によっても哲学は自生しているのだから、ドイツ語思想だけを過大視したり、逆に目の敵にすることのおかしさを強調するだけなのであるにもかかわらず、たとえば、これに匹敵して1980年代に、フランス語によるポストモダン思想の“実験”が連打されたものの、これはひどく乏しい成果におわったことをおもいあわせたりすると、なるほど、どこかドイツ語思想には魔法が棲息しているとも思いたくなる。
なぜドイツ語にはドイツ語の思索が生まれるのか。一見、謎も何もないようなこの疑問を前にしたときこそ、マルティン・ブーバーを読むべきなのである。
ブーバーこそは、その根源にひそむ“Ich-Du”の関係を、すなわちドイツ語による「我-汝」の関係を考察しつづけて、その記録をのこした神学者だった。
ブーバーは「我」それ自体というものがありえないというところから出発した。「我」がないのなら、「我」という存在もありえないというのである。
では、何があるのかといえば、存在するのは根元語の「我-汝」という根本的な関係をあらわす言語概念性だけがある。これが交互性(Wecheselseitgkeit)あるいは相互性(Gegenseitigkeit)とよばれるものである。
しばらく、ぼく自身がブーバーとなって、本書がドイツ語的に進行させている内実を半ば日本語に置き換えて、諸君のブーバー体験を代行したいと思う。
われわれは何かを経験しつつあるとき、世界には関与していないと知るべきである。経験とはわれわれの内部におこることであって、われわれと世界の「あいだ」におきることとはなっていないからである。
では、どのようにすれば「あいだ」に入りこみ、世界と向きあうことができるのか。まずは、私という我の中に汝を見出すべきなのだ。そうすれば、私の我は汝のさまざまなモノやコトによって成立している光景に出会うにちがいない。そうだとすれば、経験とは実は「我からの遠ざかり」であって、それが了解できれば、次には私の我が「汝からの遠ざかり」であろうとしたときの「あいだ」に逢着できるはずなのである。
しかし、私が我と汝に出会うのは、探索などではおこらない。私が根元語を私の中の汝にぶつけることによって生じる恩寵をいかすしかない。この恩寵は「存立の岸辺」のようなところからやってくるものである。
これをようするに「汝を言う能力」(Dusagenkonnen)とも「関係の中へ歩みいる」(In-Beziehung-treten)ともいう。
こうして、当初に「関係」があるわけなのである。これは原始人のことを想定すればよい。かれらには主体も客体もなく、主語も対象もなく、そもそも「我-汝」すらおこっていなかった。しかしながら、それは逆にいえば、どんなことも「我-汝」の関係から始めるしかなかったということなのである。
ということは、原世界(Urwelt)とは関係の始原であるということだ。「現身(うつしみ)の母」ということなのである。われわれのすべての対話は、この「現身の母」との、原世界との対話なのである。そして、このことが了解できたとき、われわれは、われわれ自身の内に「生得の汝」がいることに気がついていく。それは擬人化ではなく、われわれ自身における「我-汝」の恩寵的交代なのである。
以上のことを、世界は人間にとって人間の二重に応じて二重なのであると、いう。
個の歴史と類の歴史は、どのようにその外見が異なろうとも、そこには関係がある。我(自己)と組(組織)との相違性にも関係がある。
けれどもわれわれは、自身を「我」と呼びながら、歴史や組織を「それ」とよぶ。それらの両方を「共に在る」とよぶ力をもってはいない。なぜなら、個にとって類の歴史は外部であり、我にとって組織はいつでも外部化できるからである。が、この錯覚を除去しようとしたとき、初めてわれわれはこの両者のあいだの「感情」をもつことができるのだ。
この感情がつくるもの、それは「汝の境界線」を生ける中心として、そこに向かう者たちのズレを頼みに「あいだ」をつくり、その「あいだ」にそれぞれが生ける相互関係を立たせていくということである。これが感情が生み出す「真の共同体」(Gemeinde)というものではなかろうか。そうでない共同体が理想だというのなら、その例を持ち出してもらいたい。
ここにおいて、われわれはやっと「逆戻り」(Dahinter-ziuruck)と「乗越え」(Daruber-hinaus)をいずれも破棄しないですむようになる。われわれは他人を懲らしめるときも、自分を懲らしめるときも、いつも「逆戻り」か「乗越え」しかやってこなかったものであるが、そしてそのことに痛く反省しすぎてきたものであるが、しかし、「我-汝」の関係にこの二つの方法を委譲できるなら、ずっと気分よく「あいだ」を互いに照応しあえるはずなのである。
われわれはハイマルメーネ(宿命)に出会ってこそ、ハイマルメーネにさえ「我-汝」を見出せるものである。そこに「業の力」を「星の力」にする支点が見出せるものである。
宿命とは、畢竟、生成なのである。定められていることは、定めることなのだ。そこにはひたすら「我-汝」の振動があればいいことなのだ。この振動こそ、東洋において無為とよばれたものである。選ばれたことを選ぶことに変える振動である。
宿命を専一性にも締め出しにしてもならない。すべてはいつだって二者対応(Zweiheit)なのだ。
こうして、われわれは「我-汝」の関係がひたすらに言語(ドイツ語)との縁を結んでいくのを知ることになるだろう。第1には、言語の敷居が生まれる言葉において、第2には、関係の言語が生まれる言葉において、第3には、無言を破る言語を生み出す言葉において。もし、世界がコスモスかエロスかロゴスかだとするのなら、この世界の三性は、いずれも委譲の言葉の生成によって生じたものであるはずなのである。
以上、すべては「超敷居」(Uberschwell)とは何かという思索だった。おわかりいただけただろうか。