父の先見
若山牧水歌集
岩波文庫 1936
日常への帰属を拒否する。こんなことは誰しもが小学中学のころは試みたことであったはずなのに、いつしかすっかり忘れてしまうことになった。
牧水は延岡の中学時代の、「厳格を極めてゐた寄宿舎内の自分の机の抽斗の奥には、歌集『みだれ髪』がかいひそみ、縁の下の乾いた土の中には他人の知らぬ『一葉全集』が埋められてある」というような日々を、そのまま生涯にもちこんだ。旅と女と酒を借りてのうえのことだと批評家はひょいひょい説明するが、そんな程度では日常の拒否は貫けない。ねえ、そうだよね、武田好史兄。
酒だって、容易ではないだろう。牧水もこんな歌を詠んでいる、「かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ」。できるだけ、ゆっくりと飲みたい。そんなことでも今宵は決然としたいというような、そんな気分である。また、こうも詠んだ、「ただ二日我慢してゐしこの酒のこのうまさはと胸暗うなる」。酒などにこんなに加担している自分の胸がふと暗くなる。その胸にぐびりぐびりと酒が染みこんでいく。
そういう胸の持ち主である自分‥‥。いやいや、このほうが武田兄には似合うかな、「とろとろと琥珀の清水津の国の銘酒白鶴瓶あふれ出づ」とか「酒嗅げば一縷の青きかなしみへわがたましひのひた走りゆく」とか。
酒のことは杳としてぼくにはわからぬとして、旅でもそうだ。牧水の旅は旅をするというただそれだけで、何かを拒絶することであり、そのことによって辛くも成立していたものだった。
まさに「けふもまたこころの鉦をうち鳴らしうち鳴らしつあくがれて行く」なのだ。この“心の鉦”がなければ、次のような歌はない。
山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく |
牧水がどんな男であったかは、歌のすべてに滲(にじ)んでいる。ここで生涯の履歴や旅の行き先など、あれこれ述べたくはない。
もしひとつだけ挙げるとすれば、牧水が早稲田大学に入って、まず「新声」の尾上柴舟を訪ねて私淑し、生涯の友となる北原白秋と昵懇になり、柴舟・前田夕暮らとは「金箭会」(車前草社)を、土岐善麿・佐藤緑葉らとは「北斗会」を結成し、ついでは日高ひで・園田小枝子と恋に落ちて早稲田を去っていくまでの、ちょうど日露戦争が始まった20歳から、鉄幹の「明星」が百号終刊する24歳までの、この早稲田の季節である。
この早稲田時代は牧水のすべてを語る数年間であったとともに、ぼくが最も偏愛する早稲田でもあった。牧水は早稲田を卒業したと同時に、「白鳥はかなしからずや」も「幾山河越えさり行かば」も入っている処女歌集『海の声』を出版したのだが、それだけではなく、この時期、なんと700首に達する歌を次々に詠んだ。猛然たる哀感、とでもいう歌ばかりだ。ほとんどは柴舟に送った歌である。
その柴舟と、そして白秋。牧水の魂を喚起させた二人である。牧水はこの男だとおもえば、そこにすべてを投入して吝(やぶさ)かではなかった男だった。
また、この女とおもえばそこにもすべてを投入した。日高ひでに寄せた激しい恋情がその最初の破魔矢である。けれども、ひでは22歳であっけなく死んだ。傷心の牧水は、傷を癒しきるというよりも、そのひでの縁で出会った園田小枝子にまた破魔矢を打っている。「わが小枝子思ひいづればふくみたる酒のにほひの寂しくあるかな」。が、この恋情も“苦恋”というもので終わっていく。
牧水はすぐに喉が乾くのだ。しかも乾いたままではいられない。好きな男も好きな女も、いつもいてほしいのである。「山に栖めば煤はつかねどわがこころつちくれのごと乾きくづるる」。
と、まあ、こういう牧水を右に左に語ることは誰もがしてきたことなので、ぼくはここでは慰みに、おそらく誰もが試みなかったやりかたで、そのほかの牧水の歌を紹介したいとおもう。
それはずっと気になっていたことではあった。牧水には「国」という言葉があまりにも溢れていたということだ。最初に引いた「山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく」「この国に雪も降らねばわがこころ乾きにかわき春に入るなり」が、いずれも春を詠んで国に及んでいる。最も有名な「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」が「寂しさのはてなむ国」とあることは、ことに象徴的である。
なぜ牧水は「国」なのか。これらの「国」は「日本」ということもあるけれど、ほとんどは信濃の国とか豊後の国というときの、その国である。その国の山河であり、山川草木である。また人国記というときの人の国である。
しかし、それにしても牧水は「国」という言葉を好み、「国」を詠んだ。以下、ほぼ歌集の順に牧水がどのように「国」を思慕したか、いい機会なのでやや選んで列挙することにする。説明は要らないだろう。
最後の歌は漢字と句点を補えば、「ときめきし、古(いにしえ)偲ぶ、この国の、古き器の、くさぐさを見つ」となる。
ときめき、いにしえ、古い器たち、それらを作り育んできたこの国の風情。これらがよく渾然と牧水の前に光を集めて投げ出され、牧水がそれを芒洋として見つめている姿がよく浮かぶ。しかし、牧水はそれを誇りたいわけでもなく、見捨てたいわけでもない。それはただひたすらの「なつかしき国」であり、「落日の国」であり、また「寂しさのはてなむ国」なのである。
おそらく牧水には行く先々が「国」だったのであろうと思う。いわば「そのつどの国」が牧水の国なのだ。「泥草鞋、踏み入れて其処に酒をわかす、この国の囲炉裏なつかしきかな」という歌もある。
こういう「国」の詠み方は、かつての歌枕の時代や諸国諸藩の時代はともかくとして、また、釈超空などの民俗意思のある者の歌は別として、日露戦争以降の帝国日本ではちょっと珍しい。
それだけに牧水の山河としての「国」がぼくには気になるのである。