父の先見
日本の耳
岩波新書 1977
日本の演奏家たちが「6/8のアレグロ」を苦手にするのはなぜなのか。たとえばベートーベンの第七の第1楽章のアレグロである。シューベルトの『冬の旅』の「郵便馬車」の6/8の伴奏部だ。
苦手なだけではなく、日本人の音楽作品の全体にアレグロが少ないのはなぜなのか。また、日本の歌曲がやたらに「延音」を好むのはどうしてか。さらにまた和音の低音部より上声部に敏感に反応するのはどうしてか。
著者はそういう疑問をずっともっていたらしい。
しかし、もともと日本嫌いの著者がヨーロッパ音楽の正統に入って、けっして日本音楽をふりかえろうとしなかったのは、日本の戦前の戦争主義や侵略主義が嫌いで嫌いでたまらなかったせいだったという。それがやっと日本音楽に耳を傾ける気になったのは、敗戦によってやっと日本の価値観が変貌し、そこから日本人の「よきもの」があらわれてくるという期待をもったからだった。
ただし、そこからが容易ではない。
だいたい著者は日本音楽がいつも「長ったらしく」「すきまだらけ」に聴こえていた。日本音楽の全体が長唄なんじゃないかとおもえるほどだった。そのなかから日本人に特有の音楽の特質を取り出すにはどうすれば、いいか。本書はその探索を随想ふうに巧みに綴って、飽きさせない。
話は、芭蕉が蛙が水にとびこむ音や岩にしみいる蝉の声に耳を傾けたこと、それが俳句となっていまなお鑑賞されつづけていることから始まる。
これは枕で、すぐに東西の鐘の音のちがい、尺八が「声の禅」とよばれてきたこと、ヨーロッパの音楽がことごとく知的構成と対応しているのに対して、日本では音が消えてからの「しじま」さえ聞こうとしているという話になる。それなら、日本の音楽は「間の音楽」であって、かつ「思いわびる音楽」なのである。けれどもどうして、そうなったのか。
著者は「間」を見るには、日本人の体にしみついたリズムを見る必要があるとして、手足の動きを観察する。たとえば、夏祭の神楽に出てくる「ひょっとこ踊り」の「抜き足・差し足・しのび足」、あれは何なのだろうか。「すたすた歩き」って何なのだろうか。これらには能や剣道が重視する「摺足」の延長があるようだ。
この摺足は、しかしよく考えてみるとわざとらしいもので、日常の足の動きとは思えない。あんな歩き方で町を歩く日本人は一人もいない。
では、摺足はあくまで芸能化され武道化されてきた足のハコビであって、日本人の体に染み付いたリズムから来たものではないのかと考えてみて、ハッと気が付いた。われわれは西洋の靴をはくようになって摺足をしなくなったのであって、ひょっとすると、底が地面にぴったりあっている草鞋や草履をはいているころは、むしろ摺るように歩かないと、かえって履物が脱げてしまうのではないか。また、そのため母趾を必要以上につかってしまう日本人の歩き方が靴をはいているいまなお目立っているのではないか。そう思うようになってきた。
かくてひるがえって考えてみると、ヨーロッパの音楽は多く三拍子系のリズムをもっている。
これは何かに似ている。そうなのだ、馬のギャロップに近いリズムであって、これこそは3/8や6/8のアレグロにぴったりあう。だからヨーロッパでは馬や馬車の生活のリズムが長く尾を引いたのだろう。それに対して日本には、著者が聞いたかぎりでは「南ー無・阿ー弥・陀ブ」と「南ン妙・法蓮ン・華経ー」くらいしか、三拍子はない。
日本だって馬をつかっていたし、馬子唄もあるのだから、これはちょっと説明がつかない。けれども、日本はむしろ牛や牛車のリズムを前提にしてリズムをつくって、それを馬子唄にもってきたのであろうと考えれば、辻褄があう。
しかも、こうした馬と牛のリズムの差は、馬や牛の足の動きからくるのではなく、きっと腰と股の動きからくるのであろう。実際にもヨーロッパのリズムはたいてい腰の使い方に依拠している。ならば日本人はどこでリズムをとっているのか。著者は、ハイヒールで歩く日本の女性たちの不格好な姿を見ながら、これはきっと母趾の使い方とリズムが関係していたのではないかと、そんなことをなんとなく考える。
音楽はリズムだけでは決まらない。そのリズムも体の動きだけでは決まらない。そこには舌と唇の動きが関与する。
たとえばトランペットと尺八の音のちがいはむろん楽器の素材や構造のちがいにももとづくけれど、それ以上に舌と唇の使い方のちがいが、トランペットと尺八を作ったと考えたほうがよい。
ヨーロッパではハーモニカを唯一の例外として、「フー」の息で吹奏される楽器は、ない。トランペットもフルートもオーボエも、だいたいは「tu」か「du」で、吹く。それがタンギングというものであって、ピアノにおけるタッチ、弦楽器におけるボーイングにあたるアタックになる。
ところが日本では、尺八も笛も篳篥(ひちりき)もフーで吹く。アタックもフーでする。そうすると、いきおい息の切れ目が音の切れ目になっていく。実際にも日本音楽の多くがそうなっている。ヨーロッパはこんなことはしていない。ヨーロッパでは音楽のために人間が服従する。だからタンギングを徹底的に練磨して、切れ目などをつくらないようになる。ダブル・タンギングはそのようにして発達した。
このことをホルンと法螺でくらべているうちに、著者は、日本の音が「唸り」を大事にしていることに気が付いていく。尺八も唸るし、民謡も唸るし、演歌も唸る。おそらくは、唸りをともなう抑揚が日本音楽の根幹にあるのだろうことに合点していく。
ということは、そもそもこれはヨーロッパの言語と日本語とのちがいにも関係があるのではないか。子音だけでも言葉が通じるといわれるヨーロッパの言葉と、母音を引っ張って子音につなげる日本語とのちがいが、ここで音楽的にも重要なはたらきをしていたにちがいない‥‥。
こんな調子で話は次々に進んでいく。
とくに説得力をもたせるような書き方もめんどうな概念もつかっていないのだが、音の味とでもいうべきが効いた文章に促されて読んでいるうち、ついつい納得させられる。
後半、「からたちの花」の冒頭部を素材にしてしだいに展開される「日本の耳」の議論は、しだいに7音階のヨーロッパ音楽と5音階の日本音階の水と油のような根本的なちがいに到達して、盛り上がる。
ただし、だからヨーロッパがいい、日本がいいという話にはならない。二つの融合はそうとうに難しいという話なのである。
ところで、本書は角田忠信の日本人の脳には虫の音を聞き取る機能が備わっているという例の「日本人の脳」になって、終わっている。これは本書がその後あまり読まれなくなった理由ではないかと危惧したくなるような“勇み足”であるのだが、ぼくとしてはその“勇み足”をふくめて、本書を多くの日本のミュージシャンや日本文化論者が読むことを薦めたい。
推薦の理由はいろいろあるが、日本語がだんだん早口になっていくとしたら(実際にもどんどんそうなっているのだが)、きっと今後の日本語は抑揚を強調したりアタックを強くする喋り方が流行することになるだろうという予想など、かつて誰もできなかったものだったという説明で、十分だろう。