父の先見
三絃の誘惑
人文書院 1996
二葉亭四迷の『平凡』に、下宿をしている主人公の「私」が階下の三味線と歌声に耳をすます場面がある。「力を入れると、凜と響く。脱くと、スウと細く、果は蓮の糸のようになつて、此世を離れて暗い無限へ消えて行きさうになる時の儚さ便りなさは、聴いてゐる身も一緒に消えて行きさうで、早くなんとかして貰ひたいやうな、もうもう耐らぬ心持になる……」。
音の主はお糸さんという奉公人で、「私」はまさに平凡な青年である。それなのに、そこには「たまらない心持」が疼いていく。さらに四迷はこのように書く。
俗曲は分からない。が、分からなくても、私は大好きだ。新内でも、清元でも、上手の歌ふのを聴いてゐると、何だか斯う国民の精粋とでもいふやうな物が、髣髴として意気な声や微妙な節廻しの上に顕はれて、吾心の底に潜む何かに触れて、何かが想ひ出されて、何とも言へぬ懐かしい心持になる。
私は之を日本国民の二千年来此生を味うて得た所のものが、間接の思想の形式に由らず、直に人の肉声に乗つて、無形の儘で人心に来り逼るのだとか言つて、分明な事を不分明にして其処に深い意味を認めてゐたから、今お糸さんの歌ふのを聴いても、何だか其様なやうに思はれて、人生の粋な味や意気な味がお糸さんの声に乗つて、私の耳から心に染込んで、生命の髄に触れて、全存在を撼がされるやうな気がする。
四迷には『邦楽論』もある。常磐津と新内にぞっこんだったようだ。その理由を内田魯庵が『思い出す人々』(岩波文庫)のなかに、こう書いている。「何といっても隅田河原の霞をこめた春の夕暮というような、日本民族独特の淡い哀愁を誘って日本の民衆の腸に染込ませるものは、常磐津か新内のほかにはない」というふうに。
これが九鬼周造なら「ふるさとの新むらさきの節恋し かの歌沢の師匠も恋し」で歌沢になり、林芙美子なら「小唄を聴いていると、なんにもどうでもかまわないという気になってしまう」で小唄なのだろうが、どういう好みがはたらこうとも、これは三味線が奏でる情緒がとんでもないものだったということなのである。
ぼくは長らく、三味線がもたらしたこのような「絆されるもの」「蕩けさせるもの」に注目してきた。
開扉直後の一頁目を読み始めたとたん、これはいけると唾をのみこむような風味の評論がたまにある。また読みすすみながら、静かな知的興奮に嬉しくなって落ち着かなくなる本というものもある。それとはまたべつに、読みおわって、この本のことをしばらくは人に伏せておきたくなる本がある。
この3つの条件がそろった評論となると、残念ながらまことに少ない。本書『三絃の誘惑』はそういう本だった。話は三味線に纏わって近代日本の精神史の淵の内側に自在に入りこみ、その音色を文章に啄ばんで問うてみたというものだ。前著の『「の」の音幻論』(五柳書院)に続く快著だった。
序がついている。祖母の一周忌に魚藍坂近くに墓参した折り、近くの荻生徂徠の墓に寄ろうとして道を上がっていくと、そこに三味線寺があった。たくさんの墓を見ながら、自分がどうして三味線の音に惹かれてきたのかを考えたくなったという発端だ。
ついで三浦周行の『大阪と堺』(岩波文庫)を読むうちに、三味線が堺に入ってきた経緯など思い浮かべていると、たとえば折口信夫の三味線芸能史や堺に育った詩人の安西冬衛のことを思い出す。けれども、三味線に陶酔した詩人なら木下杢太郎なのである。「日本の憂鬱な十月の夜の彼岸に 寂しい三味線がちんちんと鳴り出すまで、なほも善主麿、おおらつしよの祈をつづけながら……」というふうに続く、あの『南蛮寺門前』(春陽堂)の詩人だ。杢太郎は常磐津をTOCHIUAZと綴ったものだ。そしてこの序は、杢太郎の『食後の唄』(アララギ発行所→日本図書センター)の序の引用で切れる。
……誰でもあのいかにも下町の老人らしい歌澤龍美太夫の口から出るいなせな「一こゑ」の中の「女ごころはさうぢやない」の「ぢや」の発音の蔵する神秘不可思議にして百年の痴情をにじましたる蘊蓄を……。
このくだりを引いて、本文に引導をわたすのである。これはぼくならずとも、ちょっと他人に伏せておきたくなる冒頭の脈絡だ。なんといったって「ぢや」の案配だ。けれども、この「ぢや」は序だけではなく、このあとほとんどその綴れ織りぐあいを変えずに連綿草のように続いていく。まったくこういう文芸評論ができる者がいたとは、有り難い。
三島由紀夫ならずとも「近松のいない昭和元禄」や、平岡正明ならずとも「新内を忘れた平成日本語ブーム」など、真っ平御免である。そんなものが罷り通るなら、ぼくだって三宅坂の文楽に通って放心し、一息ついたあとは楽屋に坐りこみ、さらにぼうっとしたのちは浅草の古着屋界隈にしけこむ日々を送りたい。ケータイなんてどこかに置いてきて。
ところが明治の連中は、自身の存在と仕事の総体にぎりぎりの荷重をかけておいて、その荷重に劣らぬ音曲感覚をもって義太夫や常磐津に聴き惚れていた。それがけっこう壮絶なのだ。
そのことについては、ぼくもすでに中江兆民『一年有半』や二葉亭四迷『浮雲』の千夜千冊のところでちょっとは触れておいたのだが、またそのことを『日本流』(ちくま学芸文庫)にも埋めこんでおいたのだが、こういう音曲感覚をその連中の意識の襞々の間合いそのままに書き移すことなんて、それをあえて日本思想の訳知りふうの解読にしないように綴るだなんて、そんな芸当はできてはいない。樋口覚はそれができる人だ。
それは、兆民を綴るにあたっては子規を、その子規の痛快を語るには漱石を引き合いに出し、そこに岡井隆が子規の兆民批判についての口吻を交えて、さらには幸徳秋水の兆民観察を加えて、そのうえで兆民の義太夫感覚におもむろに入っていくというような芸当なのである。
それだけではない。いざ兆民に入っては、かつて桑原武夫が中江兆民を解説して音曲になんら言及できなかったような、また『三酔人経綸問答』(岩波文庫)に出てくる豪傑君をうっかり北一輝のことだと指摘して、そこに宮崎滔天を忘れるような愚の骨頂を犯していることに、ちゃんと文句をつけながら、兆民が都々逸を「卑猥」と言ったのは、あえて義太夫や清元に比してのことであって、洋楽にくらべて卑猥だなどと言ったわけではないといったことを、凜と主張もしなければならない芸当であったのだ。
この主張は「あとがき」で、小林秀雄が道頓堀でモーツァルトのト短調シンフォニーが鳴り出したのに「感動で慄へた」と書いたのは、それはそれでもいいとして、ではなぜ小林には当時の道頓堀にまだ溢れきっていた義太夫が聞こえなかったのか、そこをさりげなく問うている姿勢にも通じて、この著者の並々ならぬ批評精神を感じさせるのである。
近代文学の生き方をめぐる批評を、これほど音曲に特化させつつ自在に綴ったものはなかったようにおもう。しかし、ぼくが本書をこっそり伏せておきたい一冊とおもうほど吟味できたのは、著者の文章の複線支線の具合にも参ったからである。
読んでいるといろいろ誘われる。林達夫の歌舞伎批判は歌舞伎の本質を衝いてたいしたものだと思っているうちに、遠くから三絃の一の糸など交えた文章になってきて、ああ、これは地歌の《雪》の調べになってきたなという風情が漂い、これはなかなか気持ちいい展開だなと感じていると、そのうち文章は行間に一面の雪を散らせての荷風・谷崎論なのだ。それでうっかり荷風・谷崎論の広がりに入ってくるのかなど予想していると、話はいつのまにかふたたび杢太郎になっていて、例の「満州通信」のことになっている。この逸れ具合がいいのだ。
かつてぼくは杉山二郎本人から『木下杢太郎』(平凡社選書→中公文庫)を贈られ、杢太郎をめぐっては何度か情実のある会話をしてきたので、そうか、そうだろうな、きっと樋口覚もまた杉山の杢太郎を追っているうちに歌沢に誘惑されたのだろうと読み進んでいると、おや、いつのまにか杢太郎が奉天の一室で日本の雪を思い出す話になっている。こんなぐあいに、本書ではいったん響いた地歌や歌沢はなかなか鳴りやまない。こういう書き方があったものかと感服させられた。
谷崎の『蓼喰ふ虫』について、一方では小出楢重の「温気」を軸に関西文化の洗練につなげ、他方では土門拳が撮った文楽がひどく孤独な炯眼で射ぬかれていることに引きこんで、そのうち両者ひっくるめて「温気」にも浄瑠璃の音色にもしてしまっている後半のはこびなど、もはや絶品といってよい。
だからこんな絶品のそこかしこを、これ以上に引き写して書いたところで、本書のどこにも何も届かないだろうから、案内はこのへんでやめておく。ぼくはぼくなりに「三絃の誘惑」ならぬ「三絃への誘惑」を、三味線音楽に疎い幼きイエズスたちのために仕組んでいきたいと思っている。九鬼周造が林芙美子と成瀬無極に小唄のレコードを聴かせて、3人でおいおい泣いたように。ねえ、そのほうがいいぢやない?
参考¶ここで、いまさら著者の“業績”を紹介するのは野暮であろうけれど、実は本書以外にも著者の面目はいつもぼくを裏切ってはこなかったので、そのほかの話題の主要書を紹介しておく。『富永太郎』(砂子屋書房)、『アルベルト・ジャコメッテイ』(五柳書院)、『「の」の音幻論』(五柳書院)、『誤解の王国』(人文書院)などである。いつか詳しく案内したい。