父の先見
金色の老人と喪服の時計
大和書房 1977
Jacques Prevert
Choses et Autres 1972
[訳]小笠原豊樹
ゴムの匂いがしている。金色のシンバルが鳴っている。カフェ・デ・スポールではボーイが走り回って、子供たちの柘榴シロップに金色のストローを2本ずつ挿した。流しの楽団がぶんじゃか通りすぎて、老人がゼンマイ仕掛けの玩具をテーブルの上で歩かせている。
1906年、パリの西のヌイイ・シュル・セーヌ。6歳だった少年ジャック・プレヴェールは、突然に出現したモロッコのお祭りに目をまんまるにして息を吞んでいた。音楽喫茶プランタニアでは歌い手が「ぼくは神経衰弱だ」と唄い、父が「これはハヤリなんだ」と言って大笑いした。だぶだぶでピカピカの服を着た道化師たちは、いつもはらはらすることばかりしてくれた。射的場のとなりは見世物小屋で、三つ耳や一本足の怪物が出たり入ったりしていた。
ブーローニュの森はいつもお祭り騒ぎだ。馬術大会では馬が歯をむいて笑い、滝をかたどった照明が光り、池ではボートレースが開かれていた。小さな汽車にトコトコ乗って馴化園(動植物園)に行けば、そこは一日中がサーカスなのだ。
もっと遠くの練兵場に連れていってもらったときは、そこいらじゅうがすっかり活動写真だらけの西部劇の町になっていた。体の全身を青く塗りたくった男がいて、見物客から小銭を投げてもらっていた。あの青い男は寂しそうだったけれど、いまどうしているんだろう。
ジャット島にもよく行った。そこは密漁者たちが住んでいる島で、父は浚い屋に一目おいていた。むろんジャック少年も敬礼をした。お兄ちゃんとゴーフルを食べ、甘草水を飲んでいると、まるで海賊の王様の気分になっていた。これで帰りがけにジプシーの大型馬車に会えれば、もう死んだっていい。そんな少年を、お母さんは綺麗な目でいつも笑って包んでくれた。お母さんはすぐに顔を赭らめる人だったけれど、その薔薇のような顔は絵の中の女王様のようだった。どんな映画女優よりはるかにカッコよかった。それでも母はいつも家族と猫のルベの世話を完璧にしてくれていた。そういう母がシャンソンを唄うと、誰の心もきっと澄んできた。
君よ疑いめさるなよ とわに変わらぬわが心
一日かぎりの恋などは まことの恋とはいえませぬ
だけどやっぱりパリがすごいのだ。デュファイエルの店ではピカピカの安物がいくらだって月賦で買えたし、「野牛フィルム」や「三角フィルム」のポスターで有名な映画はいつだって見られた。
ジャック・プレヴェールはこうして少年時代を夜露やビー玉の光のようにひとつひとつ思い出している。本書に収録されている『幼い頃』の場面集である。
プレヴェールは小学校しか出ていないけれど(15歳には商店や百貨店で働いていた)、子供が夢中になるパリとそのまわりのとびきりスペクタクルのことなら、どんなことでもくまなく知っていた。プレヴェールの先生とは、そうした見世物や安物たちや澄んだ目をもつ人間たちだった。
プレヴェールが良き父・佳き母に育てられたであろうことは、本書の随所から石鹼の香りのように伝わってくる。猫のルベがいなくなったときは、父親が黙ってオペラ座の裏通りで拾った猫を連れてきて、ジークフリートと命名してくれた。「オペラ座だからな」と言う父親を、ちょっと照れくさそうに描写するプレヴェールの文章は馨しくも、いかにも誇らしげだ。
父親はオペラコミック座の近くにあった「プロヴィダンス」という大きな保険会社に勤めていた。ほとんど一年中をダブルの背広で通し、冬は山高帽を夏はカンカン帽を、それ以外は格子縞のおしゃれな鳥打帽をかぶっていた。これだけでも充分に森茉莉の『父の帽子』(筑摩書房→講談社文芸文庫)に匹敵する父親像が描けているのだが、ほんとうは役者になりたかったらしいのになれなかったので、いつも『モンテ・クリスト伯』(岩波文庫)の最後のセリフ、「待つことだ、希望をもつことだ!」を口にしていたというあたりは、なんともいじらしい。
けれどもその父親が機嫌がよくないときは、エミール・ゾラの『パリの胃袋』(藤原書店)の幕切れの、「この紳士と称する奴ら、なんたる悪党だろう!」を乱発していたというのは、もうそれだけで極上の少年文学なのである。
プレヴェールのように「幼な心」に熱心な人たちはどんな国にも、どんな時代にも、どんな職業にもいる。童話作家やマンガ家たちも、その才能をもっている。けれどもプレヴェールのように、子供のころの畏敬の相手をその後も片時も離さずに作品の抽斗に入れつづけた作家は、そんなにはいない。
ぼくはその代表作をマルセル・カルネの《天井桟敷の人々》のなかに見る。あの映画のシナリオを書いたのがプレヴェールだった。あの作品を「やさしい目」だとか、「ありのままの表現」などと見てはならない。天井桟敷にいるような貧しくも明るい連中にも一丁前の喧嘩や矛盾や見栄が突き出していて、そこをどう描写するかということが苦心の真骨頂なのだ。かれらは“おかまいなしの連中”なのだ。そういう連中がつかう言葉に対して、ここが勝負どころだが、プレヴェールは子供時代に感じた「変な連中に対する畏敬」を捨てずに、それでもなお変な感じを滲み出させたのだ。
なぜプレヴェールは“変な感じ”がうまいのか。少年時代に目をまるくした光景を、そのまま77歳で肺癌で死ぬまで後生大事にしていたからだ。それらの光景をいつまでも曲芸のように愉しいものにして、その記憶のアーカイブを大人たちにもゴムの匂いと金色のシンバルをくっつけて遊ばせたからだ。
交流も存分だった。だいたい徴兵先のリュネヴィルで出会ったのがイヴ・タンギーだ。駐留先のコンスタンティノープルは戦時中とはいえ異国情緒の軍事サーカスのようで、不安と浪漫が一緒くただった。そこでマルセル・デュアメルと出会った。マルセルはのちの編集者である。
プレヴェールにはとても仲のいい弟がいた。弟もゼンマイ仕掛けな奴だった。1922年にパリに戻ってからは、その弟ピエールが映写技師をすることになった映画館にマルセルと3人で入りびたり、2年後にはモンパルナスでみんなで同棲を始めた。こんな愉しそうなアジトを友人たちも放ってはいない。アンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポー、ロベール・デスノス、ミシェル・レリス、レイモン・クノーらが入れ替り立ち替りやってきた。けれどもその連中がしたり顔で「シュルレアリスム」を標榜しようものなら、プレヴェールはこっそり抜け出して、タンギーやデュアメルらと映画づくりに遊んだのである。
シャンソンだって作るつもりではなかった。撮影所仲間のジョゼフ・コズマがプレヴェールの書きちらしを好きに作曲した。それが50曲にもなって、イヴ・モンタン、エディット・ピアフ、ジュリエット・グレコ、マルセル・ムールジが唄ったのだ。どれもこれも「きらきらした憂鬱」ばっかりだ。
本書にはプレヴェールの変な感じをよくあらわした作品がいくつか入っている。シリーズ名がいい「よくない子のためのお話」という連作のなかの『キリンのオペラ』を紹介しておきたい。
キリンは口がきけないので、歌はアタマのなかに閉じこめられている。だからその歌の調子が狂っていないかどうかは、キリンの目を注意深く見つめる必要がある。ところが最近になってキリンの数が減ってきた。人間がキリンを殺すからである。なぜ殺すかというと、その毛皮を着るためだ。
その日もキリンの毛皮を着た老人が勇ましく道を歩いていた。向こうからもう一人の老人が歩いてきて、二人は昔の知り合いだったことに気がついた。「いやあ、奇遇ですな」「いまは何を仕事にされているんですか」「キリンですよ」「なるほど、なるほど、キリンはいいや」。このとき2頭のキリンが広場を黙って横切った。
そこへキリン老人の息子がやってきた。銃をもっている。息子はキリンを発見してたちまち興奮したようだ。「出てこい、キリン」と叫ぶやいなや引き金を引いた。キリンは倒れ、息子はそこに足をかけ写真を撮った。突然に息子の顔が蒼白になっていった。息子はそのまま倒れて数年間、眠ったままになった。眠っている息子は死んでいるようで、死んでいるキリンは眠っているようだった……。
こういう寓話は、ちょっとやそっとでは書けない。童話ではないし、ブラックユーモアでもないし、批評でもないし、応援でもない。それなのに、ここに憂鬱きらきらのジャック・プレヴェールがちゃんといる。
なんとも妙味な「よくない子のためのお話」には、そのほか『駝鳥』『羚羊の生活より』『島の馬』『檻のなかの若いライオン』などがある。これらも、イヨネスコでも別役実でもないことがすぐわかる。どちらかといえば宮沢賢治や牧野信一だろうけれど、やはりそこはフランスの民衆芸能的なグロテスクとエスプリがある。なにしろプレヴェールは、あのシャンソン《枯葉》と《バルバラ》の作詞者だった。