父の先見
聖杯と剣
法政大学出版局 1991
Riane Eisler
The Chalice and The Blade 1987
[訳]野島秀勝
長らく「男と女の世の中」だった。シャンソンやファドや歌謡曲はそう唄ってきた。けれども、そんなふうにお茶を濁しているわけにはいかない。その「男と女」とは遺伝子のことか性器のことか、意識のことかなりふりのことか、それともIDカードのことか、セックスのことかジェンダーのことかと問わねばならなくなった。
男と女のあいだにはグラデーションやスペクトラムがあり、そのグラデーションを男と女に小分類して説明することなど、不可能だ。ゲイも「やおい」もトランスジェンダーもそんな分類的な説明では収まらない。414夜の『性の起源』において性別のルーツにスピロヘータがかかわっているだろうことを紹介しておいたけれど、X染色体とY染色体の確立さえ入れ子的なのだ。一人に一つのジェンダーをあてはめること自体にモンダイがある。ぼくにしたところで幼年期からこの日まで、定型の男女意識を保持しつづけたとはまったく言えそうもない。
おとといの土曜日、イシス編集学校の関西支部の連中が大阪は谷町のホテルの三階ホールに集まって、「奇内花伝組」を旗揚げした。この日はぼくも大きな書を寄せ(それを「ジャムループ教室」出身の石田加奈がバティックに表具した)、「きららひびき教室」の日高裕子の明るいけれども芯のある名進行に合わせて、大川雅生や木村久美子とともにリアル稽古をつけたり、千夜千冊解読をしたりするお役目を引き受けた。
その旗揚げ初会講の第2部で、校長(ぼくはここでは校長とよばれている)に尋ねる質問がいくつか出て、いくつか答えた。そのなかに「校長は精神的な愛を重視していて、肉体的な愛情はあんまり求めていないようですが、そうなんですか」というものがあった。いえ、ぼくは肉体的な快楽も大好きです、と答えた。が、この答えには少し解説がいる。今夜、なぜ本書をとりあげたかはそのなかで説明する。
ぼくにとってまず精神と肉体を分けて、快楽をこのどちらかに分別してしまうというのが耐えがたい。いつからそのように思ってきたかというと、おそらく少年期からそうだった。とはいえそんなふうに感じるのはぼくのどこかがおかしいのであって、この感覚は何だろうと困っていた。
ユング派のジューン・シンガー(1820夜)が書いた『男女両性具有』(人文書院)という本がある。性意識にはそもそもアニマとアニムスが混じっていて、容易には分断できないという主旨だ。当然だ。身体の特徴のどこかに両性具有の兆候があるわけではない(まったくないかどうかも、わからない。たとえばぼくのペニスは短小仮性包茎だが、いったいこれは何かと言われるとよくわからない)。
おそらく意識の本体がそもそも両性具有的なのだろう。ただし、これをもって「男っぽい」と「女っぽい」の両方が共存していたなどと単純に考えてもらっては困る。そうではなくて、両極には男性性と女性性はあるのだろうが、そのあいだが何通りものグラデーションになっているという、そういう両性具有だ。そのグラデーションの目盛りはどのようにでも針が動く。
ここに動いているのは超越的男女感覚だ。それがPとVとAに片寄っていくのではなく、PにはVもAもあり、VにPを感じることもある。それどころか、男や女がどんな恰好をしていて、その襟元や袖口がどのように動き、今日はこんなアクセサリーが揺れているというただそれだけで、この目盛りは右にも左にも動く。
だからセックスが好きかと言われれば好きだと答えるが、そのセックスはこよなく多様なものであり、セックスが嫌いかと言われればそういうときもかなりあり、それはそのセックスが多様なはかなさを失っているからだった。
いまでもよく憶えているが、少年の頃、従姉妹の細長い指こそがこの世で一番美しいものだと感じていた。マニキュアも何もない少女の素の指である。けれども長じて、誰かのマニキュアの指の動きだけを見て、ときどきぐらぐらっとした。その指が世界になってしまうのだった。
男らしさや女らしさは一定のものではない。男も女も紅い指先や白足袋の足元から変じて生成されている。それをふだん、われわれは特定のジェンダーや職能性で抑えつけてきた。そこで、しばしばぼくが主宰する会にはみんながうんと好きな恰好をしてもらいたいと期待する。好きな髪形で、好きなアクセサリーをつけ、好きな品格で来てほしいと期待する。
むろん男性諸君に対しても同じ気持ちがあるので、牧浦徳昭には何かにつけては着物を着てもらう。いや着物とはかぎらない。かつてよく会っていた「ロック・マガジン」の阿木譲(1010夜)には黒い革パンがよく似合っていて、それを穿いてこないときはなぜ革パンを穿いてこなかったのかと失望したものだった。
こうしたことは何を暗示しているのだろうか。ロラン・バルト(714夜)が少女の恰好をしてスカートを穿いて写っている一枚の写真を見たとき、太田香保が「これってひょっとすると松岡さんの謎を解く写真ですね」と言ったのが当たっている。ぼくは少年の頃に少女の恰好はしなかったし、少女の恰好をしたいとも思わなかったけれど、自分の中に少年とともに少女が遊んでいるのをずっと感じていた。それとともに小さな剣士や中くらいのタカラヅカやでっかい恐竜や空飛ぶトンボにもなっていた。そういう憧れとともに、われわれの身体意識はめまぐるしく男女感覚を交差させていたはずなのである。
そこで本書の話になるのだが、この本についてはかつて『ネオテニー』の著者のアシュレイ・モンターギュ(1072夜)が「これは『種の起源』以来最も重要な著作だ」と称え、ダニエル・エルズバーグが「おそらくわれわれが生き残るために最も大事な鍵となる本」と絶賛した一冊だった。
著者のリーアン・アイスラーはウィーン生まれだが、6歳のときにナチスの迫害を逃れて両親とともにキューバに渡り、14歳までをハバナで過ごし、そのあとアメリカに移住するとカリフォルニア大学で社会学と人類学に打ちこんだという経歴の持ち主だ。一貫して、男と女が別々の歴史観や社会観にあることから脱出する方向を探究した。聖杯と剣の対立と葛藤からの脱出である。
本書のアイスラーは古代から今日におよぶ歴史を総点検し、文明が家父長的に流れてきた理由をつきとめ、父系的なるものと母系的なるものの融合を模索する。
いろいろ書いてあるけれど、主としては、歴史のなかでマトリズム(母性性=聖杯)とパトリズム(父性性=剣)がどのように分断されたのかということと、それにもかかわらず、その後の神名やイコンや器物表現には、分断以前のシンボリズムがどのように活発に再生されていたかを議論している。そのあたりに主旨がある力作だ。われわれは何に支配されるのかという問題を扱った本なのだ。
類としての人間の社会と文化はマトリックにもパトリックにも支配を受けてきた。族長的にも家父長的にも専制的にも封建的にも、その支配は長かった。しかしそれ以上に問題なのは、性差についての固定観念がわれわれの日々の個人史にもあらわれてきたことだ。とりわけ重視した問題はその支配された相手に応じて、自分の性意識が形成されてしまっているということである。性意識に過剰な男性不信や女性蔑視や、その逆の「やらずぶったくり」があらわれたことだった。
本書が話題になったのは、内なるマトリズムとパトリズムの分断からの脱出と変更を高らかに提言したからだった。これは自己組織化の奨めでもあった。
ふつうならば、こういう提言は往々にして自分の家族的な桎梏からの個人的な脱出のススメになるのだが、父親をナチスに連行された少女時代をもつアイスラーは、個別の母親性や父親性だけに限定しなくともいいのではないかと考えた。それどころかもっと大きなものからの脱出を試みるべきだと訴えた。
アイスラーの提案は大きかった。まずもって父母性をひとつかみにしなさいと言う。父親と母親を分けて認識しないほうがいいと言うのだ。つまりはわれわれが支配されたのは、少年少女期からもっと多様に分散されていたもので、それがたまたまマトリズムやパトリズムが集約されて限定されたジェンダーに象徴されてしまったのだから、そこから脱出しなさいと言うのだ。反撃もそこから開始する。
反撃にあたっては、家父長制を支えてきた「男性支配制」(androcracy)に抗して、新たな結びつきを模索する「女男結合制」(gylany)に向かうべきだと主張した。gyは女をあらわすギリシア語のgyne、anは男をあらわすギリシア語のandros、この二つをつなぐ“l”はlinkingになっている。いささかわかりにくい造語ではあるが、アイスラーのたっての思いが伝わってくる。
あらためて問いなおしてみると、われわれは文明の歴史のなかでかなり危うい性意識をもちつづけてきた。家父長制やそのあとに続いた近代国家システムは、その危うさをガチガチの鋳型の上にかためて、そこからさまざまな歪んだセクシャリティを取り出して、人間の自由な活動性を抑圧し、興味本位な陳列棚をつくりすぎてきた。
けれども、最初からそんなふうにするつもりではなかったはずである。母系のコミュニティ、遊牧的な日々、アンドロジニックな幻想、瞑想エクスタシーなどは当初に芽生え、その後も折りにふれ出入りしてきたはずだった。
しかし、いつしかそれを語る力や準える力を失っていったのである。それでも、それらの感覚や造形や歌謡は芸術や芸能には多様に残響していたのだから、何もかもを忘れたわけではない。アイスラーはそれを歴史的に回復したいと考えて「女男の結合する社会」を構想し、ぼくはぼくで、少年少女が思春期に感じる超越的男女感覚を維持したほうがいいと考えてきたわけである。
アイスラーには『聖なる快楽』(法政大学出版局)という著書もある。「性、神話、身体の政治」のサブタイトルがつく。フェミニズムの思潮を踏まえながら「性」と「聖」の新たな協調を謳ったもので、おおらかな著作ではあるが、試みとしては本書同様に壮大な意図にもとづいていた。けれどもそういう試みは、ボーヴォワールの『第二の性』なら視野に入れていただろうものの、なかなか試みられてはこなかったのだ。本書も同断だ。モンターギュが「『種の起源』以来最も重要な著作だ」と持ち上げた気持もわからなくはない。
ところで本書には、性の歴史の誤謬があるとすれば、それはたいてい「理性の過誤」がもたらしたものだろうという主張が通っている。その理性は歴史でいえば近代の理性ということになるが、それはたいていアニミズムやシャーマニズムを肯定しなかった。アイスラーはそこからやりなおしたかったのである。
ぼくもずっとそう思ってきた。ただアイスラーと少しちがうのは、アニミズムやシャーマニズムを原始古代にばかり求めなくてもいいだろうというところで、“gylany”をおこしたいのなら、アスリートやポップアーティストやファッション感覚が持ち出すアニマやシャーマンでもいっこうにいいはずなのである。