父の先見
エロスとタナトス
竹内書店 1970
Norman O. Brown
Life Against Death 1959
[訳]秋山さと子
生のエロスと死のタナトス。
この二つは何としても切り離せない。
二つの発現を少しずつ瞬間のほうに縮めていけば、
エロスとタナトスは表裏一体になる。
それをフロイトは「無意識」にとじこめた。
この二つは、その本来の姿のまま取り出してはまずいのか。
どうすれば「文化」になっていけるのか。
名著として鳴るノーマン・ブラウンの本書は、
ここに博覧強記をもってその可能性を開示した
ぼくが身近で知るかぎり、「エロスとタナトス」という言葉が大好きで、このツーピースをやたらに連発するのはアラーキーこと荒木経惟である。「ぼくの写真はエロスとタナトスを撮ってるからね」「ほらこの花がさ、エロスとタナトスの裏返しなんだよ」「やっぱりエロスを追求するとタナトスになるんだよな」というふうに。
アラーキーの写真が「エロスとタナトス」の写像的二重性によって成り立っているのは、まさに本人が言う通りで、これほど一貫した主題が撮りつづけられているのは他の写真家には見られないほどである。それについては1105夜にあれこれ書いたことなので、ここではこれ以上の応援演説をしないけれど、では、アラーキーが言うような「エロスはタナトスで、タナトスはエロスだ」というような見方はいったいどのように知られるようになってきたのかというと、やっぱりフロイト(895夜)にまでさかのぼる。
フロイトが『快感原則の彼岸』において、エロス(生)とタナトス(死)を対比させ、生の欲動と死の欲動を二重化する対置性をもって解釈しようとしたのが、そもそもの「エロスとタナトス」というツーピースの流行の淵源だった。ただ、そのようなフロイトの指摘はその後、一般化されすぎたり、歪んだり、誤解されたり、忘れられたりもした。それを人間文化史上の基軸におきなおして復活させたのがノーマン・ブラウンの本書『エロスとタナトス』である。
もう少し先のことまでいえば、ブラウンの「エロスとタナトス」論の復活はさらに延展されて、その後はたとえばヘルベルト・マルクーゼ(302夜)の『エロス的文明』へと発展していった。大江健三郎に多大な影響をあたえたらしいマルクーゼのこの本は、文明は「エロス≒タナトス」の抑圧からしか生まれてこなかったのだから、それが嫌なら文明のほうを変革するべきだとまで言っていた。
というわけで、本書ほど有名な書名をもつ本はないと思うけれど、実は『エロスとタナトス』はもともとの原題ではない。“Life Against Death”が原題で、「歴史の精神分析的意味」が副題になっている。それなら誰がこれを『エロスとタナトス』にしたかというと、フランス語訳のときにそうなった。念のため、エロスはエロース(Eros)で例の性愛の神のこと、タナトス(Thanatos)はギリシア神話の夜の女神ニュクスが一柱で産んだ子で、「死」そのものの神格だ。ともかくもフランス語版以来、本書はむしろ『エロスとタナトス』として、とくに日本の知識人のあいだを流浪した。
翻訳は秋山さと子さん。1970年の刊行で、ぼくが「遊」の準備にとりかかろうとしていたころだ。ドイツから帰ったばかりの筋金入りユング(830夜)派の秋山さんが骨太のフロイト論を翻訳したのは勇気のある行為だと、当時、話題になった。ぼくはその秋山さんからフロイトについてもユングについてもいろいろ教わったけれど、残念ながら亡くなるのがやや早すぎた。
ノーマン・ブラウンが本書で言いたかったことは、フロイト主義には多くの危険な言説がまじっているが、そういう勇み足を注意深く取り払っていきさえすれば、フロイトの仮説にはいくつかのたいそう重要な指摘があって、人間の宿命、社会の本質、文明の特色などの隠れた真相を暴く力をもっているということである。
なかでも、われわれの真の欲求には無意識的なところがあって、そこには「生」(エロス)の本能とともに「死」(タナトス)の本能が付着しているはずなのだから、このことについては、もっと知られるべきであろうという主旨だ。
心理学というものは、人間の心のしくみやはたらきを解明しようとする学問だが、フロイトの精神分析学はその他の心理学とかなりちがっている。どこがちがっているかというと、その根底に「無意識」をおいた。
われわれは、自分は自分だと思っているが、それは自分らしきものを構成しているもののごくごく一部にすぎない。フロイトによれば、そういう自分や自己の正体は、「それ」(Es エス)と呼ぶしかないどろっとした海のようなものの中に「自我」(Ich イッヒ)という島のようなものが浮かびながら混在している状態にある。582夜(グロデック『エスとの対話』)でも案内したように、「エス」はゲオルク・グロデックの用語を借りたもので、英語圏ではラテン語の「イド」(Id)になる。このエスやイドが「無意識」に押し込められ、埋められたままになっている。
無意識にはエロスとタナトスの本能が互いに表裏一体のような関係で織りこまれていて、人間の宿命、社会の本質、文明の特色とは切っても切れないものとなっている。そうだとしたら、人間はここに「第3の審級」としての「超自我」のようなものを現出しようとするだろう。文明とは、この無意識・自我・超自我の互いに絡んだ歴史だったのではあるまいか。
ごくおおざっぱにいうなら、これがフロイト精神分析学の仮説の概要だ。この見方にブラウンは注目した。
全部に注目したのではない。問題は、エロスとタナトスが「無意識」の奥に埋めこまれているのかどうかにあった。奥にはもっとさまざまな様態をとっていたり、出入りしたりしているものがあるのではないかと思われるけれど、少なくともフロイトの仮説では、そこには無意識のみが関与する。そこでブラウンは本書において、エロスとタナトスが心の奥の無意識によってしか説明できないものかを問うた。その問い方がすぐれていた。
ブラウンは、フロイト論ばかりを弁護したのではなかった。もっと興味深い、哲学的で、かつ経済社会論上の指摘もしていた。編集的世界観の素材のヒントもふんだんに詰まっていた。そこがいまふりかえってもなかなかなのであるが、そのことについてはのちにのべることにして、まずはブラウンが選り分けたフロイト論の骨子を、もう少しだけ紹介する。
フロイトの思想を解く鍵は「抑圧」にある。フロイトの生涯にわたる研究はほとんど「抑圧の研究」だったといっていいほどだ。
抑圧を解明するにあたって、フロイトが対象にした抑圧的心理現象は、よく知られているだろうが、主として3つあった。①精神錯乱者の狂気ないしは狂気に近い心理現象、②夢もしくはそれに類する心理現象、③日常生活でしばしばあらわれる錯誤や失敗や「言いまちがい」や「でまかせ」のたぐいの心理現象、フロイトによるとこの3つだ。
これらはすべて抑圧的無意識が絡んでおこったこととみなされる。そこでフロイトは、人間のなかにはふだんの意識的な生活とともに無意識的な日々が同時にはたらいているとみて、これらの抑圧された心理は「無意識的思考」になっているのではないかと考えた。ただ、この心理現象は、その心理をもつ本人の意識的な自己否認や自己抵抗があるために、フツーの方法では意識化できない。取り出せない。そのため人間は目的に向かおうとすればするほど、非意図的な目的に自分が律せられているというふうに思う。人間はそういう逆説(パラドックス)を本来的にかかえこんでいるとみなしたのだ。
これがフロイトふう無意識的思考というものなのだが、この逆説がいささかクセモノだった。実際にも、人間には無意識があるという仮説は、その後の多くの心理学派をかなり迷わせた。
フロイトのいう「無意識」はわれわれの心の奥にある花園でも神秘でもなく、抑圧そのものの捩れたアーカイブになっているということなのである。フロイトの研究の真意は無意識の解明ではなく、抑圧の説明にあったということだ。ここまでがフロイト論の骨格の前提になる。
ひるがえってフロイトは、人間の精神活動のほぼすべてが快感原則に従っているとみなしていた。快感原則とは人間は苦痛を回避して、少しでも快楽を求めようとする傾向のことをいう。
快感原則は日常的に保証されるとはかぎらない。社会的な制約のなかで歪んでいく。おいしいものを食べたいという欲望やきれいなものを着たいという欲望は、ある程度の収入がなければ満足させられないし、リビドー(性欲)のようなものはよほどの状態が準備されないかぎり、ふだんは制約されざるをえない。そこで知らず知らずのうちに意識の快感原則と社会の現実原則のあいだに矛盾や亀裂が生じ、それが抑圧となってわれわれの意識の奥にその矛盾や亀裂のしこりのような残像を残していく。
こうして日々抑圧されて無意識の捩れたアーカイブとなったものは、容易には取り出せないものとなる。ストレートに取り出せば窃盗や覗きやストーカーなどのセクハラや、ときには殺傷にもなりかねない。そのため多くの者たちはこれを回避するあまり、さまざまな不可解な行動をとる。夢想もする。それは自己防衛でもあるのだが、また複雑なエスと自我との絡みのあらわれでもあった。
たとえば「反動形成」だ。ある欲望を抑圧したことが、その反動として正反対に近い表現や行動になる。嫌いな相手なのについつい丁寧になってしまうような例である。ただし、このアンビバレンツな「くいちがい行為」をほったらかしにはできないので、これは社会習慣のなかではマナーやエチケットになっていった。
たとえば「投影」もおこる。これは自分がもっている感情や欲望を、自分がそれをもっているのだと思わずに相手がもっているものだと思いこんでしまうことをいう。その逆に「同一視」も生じてしまう。他人の態度や行動を自分にとりいれているうちに、そのことを自分のオリジナルだと思いこむ。たとえばまたムキになって「否認」することも、しばしばおこる。みんなに周知の事実さえ認めない。相手が美しいとか強いと思ってしまうと自分がダメになると思って否認する。
またたとえば「分離」をおこす。AとBの因果関係が自分に起因していることがうすうすわかっていても、それを分離して他人事のように自分がそれを語れるようにしてしまうわけである。
こういう例をフロイト学派はゴマンとあげて縷々説明しているのだが、これでは人間は何をしたってビョーキなのである。そこでブラウンはこれらの症例的行為には目を向けず、フロイトやフロイト学派が最後にあげた「昇華」に注目した。
昇華とは、社会的な現実原則からするとなかなか受け入れられないような抑圧的欲望を、著作や小説や芸術や歌や修行やスポーツなどにして、いわば社会的なコミュニケーションの可能性にしだいに転換していくことをいう。本書は第1部「問題」、第2部「エロス」、第3部「タナトス」ときて、第4部に「昇華」をおいているのだが、ブラウンはこの昇華を「転移」とも呼び替えつつ、取り出せなくなっている抑圧の絡みも、これを少しずつ世界観をもったコミュニケーション能力の表出に向けていけば、無意識的思考ではなくなる可能性があると言いたかったのである。
念のため言っておくけれど、フロイトを「無意識の発見者」とか「心の正体の解明者」とよぶのは当たらない。フロイト自身、「私が発見したのは無意識が研究されうる方法である」と言っている。
ノーマン・ブラウンが本書の記述において採ったのも、「方法としてのフロイト」に注目することだった。しかし、方法に注目することは(ぼくもつねにそうしているのだが)、ひとりフロイトの方法に注目することにはならない。その方法の可能性に類似する多くの方法をそこへ組み合わせながら呼びこんでくることになる。本書がかつてぼくに影響を与えたのは、そこである。
フロイトは幼児期に性欲が抑圧されていることをもって、エロスはすでに幼児の成長の遅延として発芽しているにもかかわらず、それが大人社会の制約で思いもかけない禁止を受けるため、そのエロスは当初からタナトスの香りをもってきたとみなした。「禁じられた遊び」とはそのことだ。ブラウンは、仮に幼児にそうした傾向があったとしても、それは抑圧的なエロスとタナトスの関係のまま停止していくものになるとはかぎらないというふうに見た。
こうしてブラウンは、アッシジの聖フランチェスコ、ヤコブ・ベーメ、ウィリアム・ブレイク(742夜)、ライナー・マリア・リルケ(46夜)らを持ち出して、エロスとタナトスはそれを同時に感じられているときは、「永遠の生成の遊び」を秘めているのだろうと考えた。またシャルル・フーリエ(838夜)やジョン・メイナード・ケインズ(1372夜)を持ち出して、実は初期の経済活動やその組織化の試みには、生産と分有に関するエロスとタナトスの遊びが反映しているのではないかとも見た。とくにフロイトと袂を分かったシャーンドル・フェレンツィのトラウマ論やセラピー論に耳を傾けた。
こういう思索者はあまりいなかった。一言でいうのなら、エロスの本質が自己以外の他者との融合にあるのなら、そのエロスは心理的葛藤だけではなく、さまざまな社会活動や経済活動にあらわれているはずだというのが、ブラウンの見方なのである。
むろんフロイトも、エロスとタナトスが個人の無意識に閉じ込められたままになるとは言ってはいない。とくに宗教や信仰には、快感原則と社会原則の桎梏をこえるエロス≒タナトスの地平があらわれていると見た。
しかし、それは精神分析にとっては「代償」なのである。「贖い」なのだ。『モーセと一神教』(ちくま学芸文庫)において、ヨーロッパ的宗教の成立そのものに「原父の殺害」という隠された動機を読みとったフロイトにとって、宗教そのものが精神の解放の全プログラムをもちうるとは、どうしても考えられなかったからである。
ブラウンは必ずしも宗教にはこだわらない。宗教以前のフェティシズム、エロスと結びついたディオニュソス主義、宗教にならないように隠れたグノーシス思想などを重視した。それゆえスピノザ(842夜)が神との愛の相克をめぐる哲学をしたことも、ノヴァーリス(132夜)らのドイツ・ロマン派が「夜の側」をもって地下に眠る鉱物的意識を蘇生しようとしたことも、エロスとタナトスの昇華の試みだったろうと見た。
さらには、ショーペンハウアー(1164夜)とニーチェ(1023夜)こそは、エロスとタナトスを世界観や世界意志に近づけた最も大きな思索の成果をもたらしたのであろうと指摘する。このこと(ニーチェとフロイトの近似性)はいくら強調しても強調し足りないとは思うけれど、今夜はここはスキップしておこう。ぼくが今夜ぜひとも紹介しておきたいのは、第5部「肛門性の研究」の第15章「汚れた金銭」にのべられていることである。
この章にいたるまでに、ブラウンはフロイトの「排出のコンプレックス」論をスウィフト(324夜)やサド(1136夜)の政治的な「エロス≒タナトス」論に仕立て上げ、それをルターやカルヴァンのプロテスタンティズムが攻撃をしすぎたこと、そのため「富の神マモン」に走る者たちが卑しめられたこと、したがって資本主義的な経済活動のもともとの本質が歪んでしまったことなどを指摘したうえで、第15章「汚れた金銭」に突入するのである。
ここでブラウンが最初に持ち出すのはアルフレッド・ホワイトヘッド(995夜)だ。そして経済活動の本来は有機体のなかでとらえられなければならなかったと強調する。これは20世紀の経済が金銭と数量にシフトしすぎていることを告発し、「価値」は有機的な関係性のなかからしか掴み出せないということを示唆するためだった。
そのうえでマルクス(789夜)の労働論、デュルケムやジンメルやケインズの貨幣論を縫いあわせつつ、ブラウンが案内するのはなんとジョン・ラスキン(1045夜)の経済哲学とカール・ポランニー(151夜)の経済人類学なのである。ラスキンが「すべて本質的な生産物は口のためであり、最後もまた口によって評価されてきた」「一般に金銭とよばれてきたものはすべて負債の承認である」というくだりの解読など、かなり興味深かった。
とくにポランニーの「経済は計算には支配されていない本質をもつ」「人間の経済は社会の環境の中に埋められている」「経済は非経済的動機によって動いている」を、フロイトの方法と重ねて読み明かし、そこからマルセル・モース(1507夜)の贈与論やレヴィ゠ストロース(317夜)の構造主義に注釈をつけていくブラウンの手際はみごとであった。
贈与に母性的なるものがひそみ、獲収にはそれを打ち破って平板化しようとする父性原理があるという指摘もある。これまた示唆深いことである。
もしも世の中に異常と正常があるというのなら、世の常識は異常のうちの一部の価値観を多数決をもって平板化して、それを正常と名付けたにすぎなかった。精神分析学は異常のほうに神経症などの精神疾患をあて、正常のほうに健康と思われる精神状態をあてたけれど、正常(健康)とは異常(症状)のうちのごくごく流布された社会的な症状だったのである。
何が異常で何が正常であるかは決めがたい。「生・死」においてはなおさらだ。「生・死」のもどきである「性」においても同断だ。異常と正常を分別しないことがエロスの本懐であって、タナトスの面目なのである。けれども、だんだんそうならなくなった。「性」が差別され、エロスが不均等に扱われ、タナトスが病理に追いやられていった。
そう言っていいのなら、エロスもタナトスも消費の対象になってしまったのだ。飼いならされたのだ。かくして「生・死」と「性」はさまざまに分解され、平準的な消費財として市場に並ぶようになっていった。
人間の情動や欲望はそんなもので収まらない。フロイトはどんな欲望と消費の活動にも必ずや抑圧された無意識が残余していることを指摘した。この指摘、おそらく70パーセントくらいは当たっているだろうが、しかしこの抑圧をどうすればいいのか。それはビョーキなのだから治癒してあげましょう、それをみんなでガマンする社会にしましょうねでは困るのである。
一方、ノーマン・ブラウンは、抑圧された無意識を昇華するにはむしろ世界観が必要で、その世界観を表現する方法が採出され、それぞれが照らし合わされなければならないと見た。すでにフロイトにもひそんでいた方法ではあったけれど、ブラウンはその狭い入口に大きな出口をくっつけた。これがぼくからすれば、まさに編集的世界観の作り方に似ていたわけである。
ところで、本書の最終章は「肉体の復活」になっているのだが、プログラムのままにとどまっていた。そこでブラウンは1966年にこれをふくらませて『ラヴズ・ボディ』(みすず書房)を書き下した。ジョン・ケージやスーザン・ソンタグ(695夜)がおもしろがった。ブラウンのディオニュソス主義がいっそう貫かれて、エロス論と70年代フェミニズムを予告的につなぐものになっている。併せて読まれるといい。