父の先見
史的システムとしての資本主義
岩波現代選書 1985
Immanuel Wallerstein
Historical Capitalism 1983
[訳]川北稔
装幀:中野達彦
史的世界システムとしての資本主義しか認めない。
しかし、その半分はカール・マルクスが、残り半分は
フェルナン・ブローデルが述べたことだったのではないか。
それでもなおウォーラーステインの独創があるとすれば、
システム理論の構築にあるはずなのだが、
これは反システム運動論になって、
たとえばルーマンの社会理論に及ばなかった。
たいへん頑固な資本主義論だ。史的世界システムとしての資本主義しか認めない。しかしその半分はカール・マルクス(789夜)が、残り半分はフェルナン・ブローデル(1363夜)が述べたことだったように見える。ウォーラーステインの独創があるとすれば、システム理論の構築にあるはずなのだが、これは反システム運動論になって、たとえばルーマンの社会理論に及ばなかった。それでもいまなおウォーラーステインを味方にしたいと思う経済史観が後を絶たないのはどうしてなのか。
資本主義は歴史的なシステムである。かつて歴史的にシステムといえるものは、唯1、15世紀に発して今日につながる資本主義しかなく、それは「世界システム」となった資本主義だけである――。
これがウォーラーステインの言い分だ。あっけないほど明快で、すこぶる頑固だ。だからこれ以上、何も付け加えることがないと言いたくなるが、まあ、それではそっけないだろうからあえて説明すれば、「世界システム」というのは、資本制的な分業がゆきわたっている地域・領域・空間にほぼあてはまるもので、その内部には複数の文化体が包含されている。
この世界システムは歴史的な流れでみると、本来ならば、ローマ帝国やハプスブルク帝国やオスマン帝国のような政治的に統合された「世界帝国」になるか、もしくは政治的統合を欠く「世界経済」になっていくはずのものである。世界帝国は「貢納」のかたちをとりながら辺境の経済的余剰を中核部に移送して、そのシステムの完成をめざしていく。他方、世界経済のほうは「交換」によって経済を拡張していくのだが、そこには世界帝国のような大きな官僚機構を支える必要がないぶん、しだいに余剰がシステムの成長にまわっていくようになる。
したがって近代以前の世界システムはその成長プロセスで、たまたま世界経済めくことはあったとしても、まもなく政治的に統合されて、たいていは世界帝国に移行してしまう。たとえば産業革命をおこして巨大化したかに見えた大英帝国時代のイギリス経済も、資本主義の条件をいくつも発揚していたとはいえ「植民地をもった国民経済」であるにすぎず、資本主義が体現された世界システムとしての「世界帝国=世界経済」ではなかった。
これに対して15世紀末から確立していったヨーロッパの世界経済は今日にいたるまで世界帝国化することなく、史的システムとしての世界経済をほしいままにした。ウォーラーステインは、これが、これだけがヨーロッパ全域を背景として確立された世界システムで、それこそがイギリスを呑みこみ、オスマン帝国やロシアを呑みこみ、その他の地域の経済活動を一切合財吸収して、しだいに史的システムとしての資本主義、すなわちヒストリカル・キャピタリズムを完成させていったと言うのである。
以上がウォーラーステインの主張の概略だ。世界システムとしての資本主義は国民経済の中の資本主義が発展してだんだん世界化したのではなくて、資本主義は当初から(15世紀以降から)世界経済のかたちをとって史的世界システムとして確立されたと言うのだ。
ウォーラーステインはこれを「万物の商品化」とも呼んだ。たいへんわかりやすい言い方だ。自信にも満ちている。こんなふうに書いている。「史的システムとしての資本主義は、それまで市場を経由せずに展開されていた各プロセスの広範な商品化を意味していたのである。資本主義はそもそも自己中心的なものだから、いかなる社会的取引も商品化という傾向を免れることはできなかった。資本主義の発達には万物の商品化に向かう抗しがたい圧力が内包されていた」。
なるほど、説得力がある。たしかに多くの歴史は「万物の商品化」だった。その通りである。しかし、たったこれだけのことを強調したウォーラーステインが、どうしてまたあんなに経済思想界で流行したのかといえば、マルクスとブローデルを下敷きにしたからだったろう。それ以外には考えられない。
また、世界システムがたった1回きりのシステムの起爆と波及によるもので、それが今日の世界資本主義のすべての法則の母型となったというのは、あまりに経済ビッグバン仮説に凝りかたまりすぎていた。仮にそうだとしたら、ウォーラーステインは経済ビッグバン以前の「対称性の破れ」を実証しなければならなかったはずなのである。
前夜(ブローデル)にも書いたように、ぼくはウォーラーステインをブローデルの『物質文明・経済・資本主義』(みすず書房)の途中に、しかも『地中海』(藤原書店)をちらちら脇見しながら読み、かつ川勝平太(225夜)のウォーラーステイン批判を含んだ経済システム論を横目にしながら解釈しようとした。
これはむろん邪道な読み方で、腰を落ち着かせて読んだわけでも、まして学問成果として検討するように読んだわけでもなかったのだが、それはそれで付き合い方としてはよかったかなと思っている。いくつか納得するところはあるにはあるけれど、あまりに図示的であり、また自信に勝ちすぎていた。
もともと本というもの、人との出会いと同じようなところがあって、最初にどんな出会い方をして、そのときどんな印象で付き合いが始まったかということが、いろいろアトに引く。むろん何かのきっかけでそのスタイルやテイストが一気に変化することもあるけれど、ぼくの経験ではリテラル・ライフ(読み書き人生)での本との付き合いは、人以上にその付き合い方が微妙に決まっていく。それでいいと思っている。
ウォーラーステインもそういう一人だ。というのも、ぼくは自由主義や民主主義の定義が20世紀初頭まではともかく、その後はあまり役に立っていないように思えてきたし、資本主義についてもその発案的定義ならマルクスやゾンバルト(503夜)で十分だと見ていたのだ。実際にもその後、資本主義をどのように見るかということは、いまだに決定的な解釈が確立していない。ケインズ、シュンペーターからハイエク(1337夜)、フリードマン(1338夜)まで、多くの見解が表明されてきたものの、どれも帯に短く襷に長かった。むしろプルードンやシルビオ・ゲゼルがおもしろい。
そういう流れのなかで、「ヒストリカル・キャピタリズム」(史的システムとしての資本主義)という見方でしか資本主義を語るべきではない、なぜならそれ以外は資本主義ではないからだと、そこまで踏み込んで強調したのはウォーラーステインが初めてだったので、驚いたとともに、ちょっとやりすぎだと思ったのだ。
一言でいえば歴史主義だし、よく言ってもブローデルの歴史観を反映させ、それをブローデルのように経済や生活にあてはめるのではなく、資本主義システムだけにあてはめたということが、こんな限定的な見方をもたらしたのだろう。
ウォーラーステインの資本主義の定義は、資本がそこに投下され、投資が投資を自己増殖させていくということに求められすぎた。
これは資本の論理であって、このことはふつうは資本主義の一部の特徴でしかないのだが、ウォーラーステインは資本の増殖と循環をおこすシステムだけが世界システムの名に値するものだとみなしたのだった。このような見方は、ウォーラーステインがどう弁解しようとも、どう見ても合理的判断者の見本のような「ホモ・エコノミクス」を想定した資本主義論であり、しかも市場の中のホモ・エコノミクスではなく、「資本というホモ・エコノミクス」ともいうべきものによって資本主義を説明しきろうというものだった。
これには与せない。アジアや日本の資本主義について言及していないのも気にいらない。ウォーラーステイン派はせめてジャネット・アブー゠ルゴドの『ヨーロッパ覇権以前』(岩波書店)(1402夜)やアンドレ・フランクの『リオリエント』(藤原書店)(1394夜)は視野に入れてほしかった(→千夜千冊エディション『大アジア』参照)。というところで、今夜は打ち切りだ。ごめんなさい。ああ、歯が痛すぎる。ぼくは欧米中心歴史観を読むと、歯が痛くなるのです。なお、ウォーラーステインを理解をしつつその限界を突破しようという試みは、山下範久が挑んでいる。『世界システム論で読む日本』(講談社選書メチエ)が意欲的だった。
【おまけ】
イマニュエル・ウォーラーステインは1930年、ニューヨーク生まれのユダヤ人で、コロンビア大学に学んで、1976年以降はニューヨーク州立大学の社会学主任教授として、またフェルナン・ブローデルセンター所長として健筆をふるい、経済史学に、またアフリカ研究に大きな影響力をもった。フランツ・ファノンを欧米に紹介したのはウォーラーステインだった。修士論文はマッカーシズム論で、「赤狩り」が共産主義を理解していなかったことを指摘した。
著書は多い。とくに、『資本主義世界経済』1・2(名古屋大学出版会)、本書、『近代世界システム』Ⅰ・Ⅱ(岩波書店)がよく読まれた。ほかに『アフター・リベラリズム』『脱゠社会科学』『ワールド・エコノミー』『世界を読み解く』『長期波動』『ポスト・アメリカ』『ユートピスティクス』『脱商品化の時代』『新しい学』『入門・世界システム分析』『知の不確実性』(いずれも藤原書店)、『大学闘争の戦略と戦術』(日本評論社)、『世界経済の政治学』(同文舘出版)、『ヨーロッパ的普遍主義』(明石書店)、『反システム運動』(大村書店・共著)などがある。
経済史を読むというのは、専門家以外にはあまり好まれないようだが、宇宙史や生物史、科学史や文化史と同様に、大いに読書のスサビとなるべきだ。ぼくは二人のカールによって、すなわちカール・マルクスとカール・ポランニー(1363夜)によって始めたけれど、もっと早めに多くのものを読むべきだったと悔やんでいる。
【参考情報】
(1)イマニュエル・ウォーラーステインは1930年、ニューヨーク生まれのユダヤ人。コロンビア大学出身。1976年以降はニューヨーク州立大学の社会学主任教授として、またフェルナン・ブローデルセンター所長として健筆をふるい、経済史学に、またアフリカ研究に大きな影響力をもった。
ウォーラーステインの著書は多い。とくに、『資本主義世界経済』1・2(名古屋大学出版会)、本書、『近代世界システム』Ⅰ・Ⅱ(岩波書店)がよく読まれた。ほかに『アフター・リベラリズム』『脱=社会科学』『ワールド・エコノミー』『世界を読み解く』『長期波動』『ポスト・アメリカ』『ユートピスティクス』『脱商品化の時代』(いずれも藤原書店)、『大学闘争の戦略と戦術』(日本評論社)、『世界経済の政治学』(同文舘出版)、『ヨーロッパ的普遍主義』(明石書店)、『反システム運動』(大村書店)など。
(2)経済史を読むというのは、専門家以外にはあまり好まれないようだが、宇宙史や生物史、科学史や文化史と同様に、大いに読書のスサビとなるべきだ。ぼくは二人のカールによって、すなわちカール・マルクス(789夜)とカール・ポランニー(151夜)によって始めたけれど、もっと早めに多くのものを読むべきだったと悔やんでいる。たとえばシュンペーター、ジョン・ヒックス、アナール派の面々、山田盛太郎、大塚久雄、宇野弘蔵、速水融、角山栄、川勝平太、長岡新吉など。ちなみに先だって「中央公論」の対談で佐藤優と対談し、そのあと雑談したのだが、大塚久雄にも宇野弘蔵にも通暁しているのに感心した。ぼくは早稲田時代に黒田寛一とともに宇野経済学を読んだにすぎない。