父の先見
絵のない絵本
新潮文庫 1958
Hans Christian Andersen
Billedbog uden Billender
[訳]矢崎源九郎
靴屋には何か不思議なものがある。「いわく」というものがひそんでいるように見える。
ぼくは以前から、次の3人が靴屋に生まれたことにはなにがしかの因縁があるのだろうとおもってきた。ヤコブ・ベーメとハンス・クリスチャン・アンデルセンとソ連の帝王スターリンである。
おそらく3人に共通するものなんてないのだろう。けれども、少なくともアンデルセンが靴屋に生まれたことは、童話が生まれるにあたっての大きなベッドか書き割りになっているにちがいない。白雪姫をはじめ、靴が出てくる童話はアンデルセンにも少なくない。代表作は『赤い靴』である。
アンデルセン全集のうちのどの一冊を推薦するかはおおいに迷う。できれば岩波文庫版の7冊はすべて読むことを勧めたい。
が、それでもここに一冊を選ぶとなると迷う。そこで誰もが手に入りやすいだろう『絵のない絵本』にした。全集ならぱ第4巻の一部にあたる。
この童話集は、一人の貧しい青年に窓辺の月が語りかけるところから始まる。月は青年に、これから自分が話す物語を絵にしてみなさいと勧める。そこで青年が小さな話を書きつけた。
そういうしくみで次々に童話が紹介されるというふうになっている。第一夜から第三三夜までつづく。月が見てきた物語だから、話は世界中をとびとびに舞台にしている。パリ、ウプサラ、ドイツ、インド、中国、リューネブルク、フランクフルト、アフリカ、デンマーク、いろいろである。
月が覗いた話なので、たとえば小さな路地の家の少女の出来事などは、月がまわってくる1カ月にいっぺん、それもわずか1分間ほどの出来事の推移しか見えないことになっている。
が、そこがアンデルセンの美しい狙いになっていて、読者を無限の想像力の彼方にはこんでしまう。童話というよりも童話詩である。アンデルセンは本来は童話詩人なのである。
アンデルセンには自伝が3つある。
最も有名なものは『わが生涯の童話』であり、「私の生涯は一篇の美しい童話である」というキザで名高い言葉で始まっている。これは50歳のときに出た全集のために書いた自伝だった。
もう少し前にもドイツ語版の全集のためにも自伝を書いた。ここまではよくあることだ。ところがアンデルセンは、作家としてデビューをはたしたばかりの27歳のときに、すでに自伝を書いていた。恩人コリンの娘ルイーゼにあてたかっこうで書いたもので、「目に見えない愛の手が私を導いていることを、身にしみて感じる」という出だしになっている。この早すぎる自伝が一番アンデルセンらしい。
よほど童話世界の確立と自分の生き方をかさねたかったのであろう。
アンデルセンは1805年にデンマークのフェーン島に生まれている。父親は貧しい小作人で、生計のために靴なおしをしていた。
父親は貧しさにはあまり頓着しなかったようで、息子ハンスには昔語りをよく聞かせ、さらに手先の器用をいかしていろいろ人形などをつくって遊ばせた。そこが靴屋アンデルセンの誕生だった。
この1805年という年には、のちにアンデルセンが童話作家になるにあたっての重要なことがおこっている。デンマークが誇りとし、「北欧の詩王」とよばれたエーレンシュレーガーが『アラジン』という詩劇を発表しているのである。
アラジンとは「アラジンの魔法のランプ」のアラジンで、アンデルセンもこの作品には子供のころから熱中して、暗誦できるほどになっていた。それだけではなく、「アラジンの魔法のランプ」というコンセプトそのものが、少年アンデルセンのみならぬ当時の北欧世界のシンボルになっていた。
あとは誰が「アラジンの魔法のランプ」を現代にもたらすかということだった。
ここから先、少年ハンスがどのように作家アンデルセンになっていったかという経緯(いきさつ)は、今日の登校拒否児童をかかえる親たちこそ知るべき話なのかもしれない。
ここに詳しい話を書くわけにはいかないが、ハンスはろくろく学校に行かない落ちこぼれだったのである。最初の貧民学校もやめてしまったし、次の学校も、さらに次の慈善学校も長続きせず、途中でやめている。引きこもり症状もあったらしい。ようするにヒッキー君だったのだ。父親がつくった人形に着せ替えをしていたのは近所の女の子たちではなく、ハンスだった。
その父親もハンスが11歳のときに死んだ。残された母は文字すら読めなかった。
どうもハンスは多感で神経質な少年だったようで、最近の研究ではハンスがなんらかの精神疾患をもっていたのではないかという推理さえされている。ここのところは、ぼくもよくわからない。
が、ハンスにはひとつだけ救いがあったようだ。どんな小さなことでも、たとえばリンゴをもらったとか、流れ星を見たとかということがあると、それだけで幸福になれるようなところがあったらしい。このあたりは両親が育んだ感覚だったにちがいない。
その後、ハンスは芝居に夢中になっていく。一人芝居で遊んできたせいだろう。
当時のヨーロッパの少年がすべてうけることになっていた堅信式を受験して通過したハンスは、ついに首都コペンハーゲンに出て役者や歌手になろうと決意する。
けれども、これはかんたんに挫折した。そこで、シェイクスピアもそうであったけれど、ハンスは王立劇場の芝居まわりの仕事を志願する。劇詩人としてのスタートを切ろうとしたのだ。
ぼくは、このころのハンスが才能を認められなかったにもかかわらず、まるで夢を追うように芝居や劇作の道をめざせたのか、最初はその心情の案配がよくつかめなかった。おそらく石川啄木ならとっくに挫折していたはずなのだ。
その後、いろいろアンデルセンの作品や自伝を読むうちに、あることに気がついた。当時の少年や青年は国王の心に直結していたということである。
ハンスがコペンハーゲンに来たのは1819年の9月6日である。
そのころのコペンハーゲンはヨーロッパでも有数の10万都市ではあったものの、15年ほど前にイギリス艦隊に砲撃され占拠された後遺症をまだ回復していなかったころで、城郭の中の町並も完全には蘇っていなかった。それでも田舎の貧乏青年には目をみはる“花の都"なのである。
とくにコペンハーゲンの城郭に近づいて、市の門を入るときに名前を書きつける“儀式”には、青年たちはことさらに緊張をした。この帳面は、毎夕、門が閉ざされると王様の前にもっていかれ、王様がこれをじきじき閲覧するようになっていた。
それほどのんびりしていた時代だった。が、そのことが物語を生む羂索になった。ハンスも「ハンス・クリスチャン・アンデルセン」と黒々と署名して、これが王様の目にとどくのかとおもうと体に熱い鉄線がはしったような気持ちになったらしい。
この時代の童話に、しばしば王様やお姫さまや熱心な家来が登場して、物語を飾るのもこうした背景にもとづいていた。それは昔の話ではなかったのである。
アンデルセンは劇作家としては失敗つづきにおわっている。失恋もつづいた。
そこで旅に出る。都合29回にわたる旅である。『絵のない絵本』の月は、アンデルセン自身でもあった。そして2回目の旅でイタリアを訪れたときの印象が『即興詩人』として結実していった。
ところが、ここでアンデルセンは童話作家に転身してしまう。これが評判が悪かった。『即興詩人』のようなものが書けるのに、なぜにまた子供だましのお話を書くのかという悪評である。おそらくここで挫折していたら、のちのアンデルセンはなかったであろう。
が、ここでアンデルセンに貧しい少年時代が蘇る。ひきこもり少年やしくしく少女に贈る物語を書くことに生涯の選択をするべきだと決断するのである。
それほどの決断ができたのは、当時刊行されつつあったティーレの『デンマーク民間伝説集』の力であったかもしれない。
アンデルセンが童話で示している能力のなかで、ぼくが注目したいのは図抜けた編集能力である。この編集能力は水晶や雲母でできている。
とくに複雑な編集ではない。
しかし、肝腎なところで主客をいれかえる手法とか、ちょっとした痛みを挿入するところのぐあいには、実に適確な編集をかけてくる。
たとえば『皇帝の新しい衣装』というバロックふうの昔話では、王様が裸であることを告発するのは王様の馬丁の黒人になっているのだが、アンデルセンはこれを子供の一声にしてしまった。原作では主従関係がうたわれるにすぎないものが、子供の一声によって王様と子供の主客がいれかわる。こういうところがうまかった。
『雪の女王』では少年の目の中にガラスが刺さる痛みがうまい。この痛みがあるために全編がぐっと生きてくる。『赤い靴』もそうで、あの靴がとれなくなるところが靴の赤さにつながっていく。
どうもキリがなくなってきた。
まあ、アンデルセンについてはいずれたっぷりと書いておきたいことがいろいろあるので、ここではこのくらいにしておこう。実は小川未明との比較などもしたいのである。
が、まずは童話そのものを読むことを勧めたい。大人になって読むアンデルセンはとくに格別だ。ぼくの友人の田中優子はアンデルセンだけで育った少女だったというくらいのアンデルセン少女だったらしい。そのときに何十回も泣いたのが、彼女の感性の多くの原型になっているとも聞いた。
きっと大人たちが「それぞれのアンデルセン」をいつか語る日をもつときが、われわれの何かの脱出にあたるのであろうとおもう。