父の先見
近代日本少年少女感情史考
未来社 1999
与謝野晶子に『私の生ひ立ち』というすばらしいエッセイがあります。そこに少女のころに感じた寂しさについて書いている。「竹中はん」という一文はこういうものです。
竹中はんは同い歳の女の子で、そのはんが晶子の家に遊びにくるという約束をしてくれたので嬉しくてたまらない。晶子はその日になると学校に行くのも嫌になって、そわそわ、そわそわして、お盆にお菓子をいっぱい入れて朝から待っているのです。でもなかなか来ない。欄干から何度も下を見たりしているうちに、学校を休んだせいもあるのか、なんだか悔恨や失望のようなものがこみあげてくる。そこを晶子は、こう、書きます。
「色の白い竹中はんが女中と並んで東の方から歩いてくるのを見ました時、私の胸はどんなに高い動悸が打ったでしょう。私のいる二階の下まで来ました時、竹中はんは上をちょっと見上げたままでずっと通っていってしまいました。竹中はんは決して遊びに来てくれはしないと感じました通り、その人とそれきり遊んだおぼえはありません」。
幼いながらもたいへんせつない気持ちを書いたものですが、この小さな晶子が感じた感情は大人がもつ失望や悔恨や嫉妬などと同じものなのか。それとも少女や子供だけが感じるものなのか。
もし後者だとすれば、いったい子供はなぜこんなに高度な「やるせなさ」や「はかなさ」がわかるのでしょうか。
少年少女がかかえている感情なら、かつて少年少女だったわれわれもわかるはずなのに、見当がつかなくなっている。それを童心というなら、われわれのなかにはその童心があるのか、なくなったのか。あるのなら、それはどこへ行ったのでしょうか。こういう問題は容易に説明の言葉が見つからないほど、難しい。しかしとても重要な問題です。そもそも子供に童心がいつもはたらいているのかどうかさえ、あやしいのです。むしろ子供が子供でなくなっているということさえありえます。
今夜はそういう問題を考えるために、本書をとりあげた。『近代日本少年少女感情史考』と銘打たれているだけあって、日本の近代が対象になっていて、それが明治から昭和まで及んでいます。著者はかなりきわどい問題まで踏みこんでいる。
いったい子供とはどういう存在なのか。子供心とか幼な心とか童心というものはどういうものなのでしょうか。
名著の呼び声が高いフィリップ・アリエスの『子供の誕生』によると、ヨーロッパ中世には「子供時代」という観念はなかったといいます。社会はそのように子供を層として見ていなかったし、子供も自分が子供だとは思っていなかった。それが18世紀以降、近代家族社会の形成とともに自分のなかの「子供時代」がはっきりしてきたと、アリエスは言います。日本でも三橋修の心性史の研究では、18世紀の江戸社会後半になってからだいたい15歳以下を子供というふうに見るようになったとされている。
このような見方が当たっているのかどうかべつとして、それでは実際の18世紀ころの江戸社会の子供たちはどんな状況にいたのか。子供はどのように扱われていたのか。もしまだ子供は子供でないというのなら、ではいつから子供たちは幼い晶子のような感情をもつようになったのか。著者はそのあたりから、近代の少年少女たちにひそむ感情を照射していこうとします。
結論から先にいえば、日本は近世中期までの長らくのあいだ、「多産多死の社会」だったのです。たくさん子供が生まれて、たくさん死んでいた。死んでいったのは医療や食糧のせいでもあって、子供を生むことを押さえつけていたわけではありません。
それが江戸中期から小農の自立化が進んで、家の構成員の数がへってくると、少子少産のこぢんまりした家族形態が定着し、単婚小家族型になってきます。これではたくさんの子供が育てられない。そこで子供をふやさないようにするための間引きをせざるをえなくなるのです。間引きとはつまり、子殺しです。むろん堕胎を含みます。柳田国男の『故郷十年』に間引きの絵馬に慄いたという体験が語られているように、その実態はなかなか恐ろしいものでした。ただし全国がすべてそうだったわけではなく、たとえば北関東では間引きが多く、越後地方では少なかった。けれども越後ではそのかわり、子供を売った。宿屋の飯盛りに出されるというのは売られたということです。
こうしたことは由々しいことなので、土佐藩では宝暦9年に8回にわたって間引き禁止令が出ます。それでもなかなか止(や)まないので、共同体の相互監視としての「友吟味」ということも試みる。それでも間引きや身売りが絶えないと、ここに見方を変える人が出てきます。
ひょっとしたら死んでいった子供たちはわれわれの社会のために何かを担ってくれて死んでいってくれているのではないか。そういう見方が出てくる。これは「死児のお返し」という見方で、子供は「常ならぬ存在」だと見るのです。それならば、共同体に対して間引きを厳しく戒めるのではなくて、むしろ残された大事な子供たちを存分に遊ばせる遊児蔽といったものがあってもいいのではないか。そういう提案をする経世済民家も出てきました。
たとえば佐藤信淵とか大原幽学です。信淵は子供預かり所のようなものを、幽学は農業協同体のようなものを村々につくったらどうかと言った。しかし幕府は、こういう意見は農民を扇動しているのではないかと勘ぐって、さかんに詰問し、幽学は結局自殺に追いこまれてしまいます。
ざっとこんなふうな事情の変化を背景に、いったい共同体のなかでどのように子供を育てるかということが、さまざまな工夫をもってあらわれてきます。たとえば子守歌や童謡です。
子守歌は幕末から明治にかけての社会変化のなかで、成立していったものが多い。商品経済が発展して高利貸し的資本が農村に入ってくると、一方では富を蓄えて肥え太る階層がふえ、他方では小作に転落する層がふえ、しかも維新後には堕胎禁止令が徹底されるので人口はふえていくということが同時におこっていきます。そういうなか、子守にたいする需要もふえる。そこに子守歌も発生していったのです。封建社会が崩れて資本制社会に移っていくときの矛盾が子守歌をつくらせたともいえる。
赤坂憲雄がそういう研究をしたのですが、子守歌の多くの歌詞を見ていくと、そういう歌はどうも「群れの自浄文芸」ではないかと思えてきます。歌詞のなかにそれなりに悪意や憎悪をもった言葉を入れておくことで、子守の役目を負った者たちは「五木の子守歌」のような歌を唄うことによって、それまでに溜まった感情を吐き出せるようになっていたのではないかというのです。
「竹中はん」に対する晶子がそうだったように、子供にだってそれなりの自浄作用が必要なのです。それを群れがうけとめる。いや、大人たちもそういうことを理解していく必要がある。でも、大人はそこをどう理解したらいいか。
著者は、そもそも近代日本の子供の感情世界には、(1)受動的で許容的だった、(2)直観的で観察的だった、(3)献身的で自己投棄的だったという特徴がある、と見ています。これらは少年少女の感情世界というものが多様で多面的であることを示しているのですが、それを一言でいえば「けなげ」というしかないのではないか。著者はそういうふうに見ようとしています。本書のサブタイトルも「けなげさの系譜」というふうになっている。
ただ、この「けなげ」という正体はなかなか掴みにくい。いったいどこから「けなげ」が出てくるかよくわからない。掴みにくいのですが、けれども、その「けなげ」がどのように形成されたのかというところを、せめて社会変化のところから見ておかないと、近代日本の独特の少年少女の感情は見えてこない。子供の心性は必ずや時代状況や社会状況とどこかで深い関係をもっているのではないかと、著者はいうのです。子守歌はそれらの入口にある問題のひとつです。
ほかにも近代社会の確立期には、子供の感情を形成させるに足ることがいくつも見えてきます。たとえば江戸社会では親への孝行や友人への忠義が重視されますが、明治近代では「立身出世」がクローズアップされる。こういう大人が考えた価値観が子供の感情に何かをもたらしていることは否めません。
では、近代日本ではそれらはどう動いたか。
カール・ムンチンガーの『ドイツ宣教師が見た明治社会』という本があります。そこに日本人は具体的な思考はできるけれど抽象的な思考は弱い。また独創性に欠けるけれども、加工はうまい。また論理性は乏しいけれど、直観力がある。そういう指摘をして、ただし子供たちはとても親や目上を尊敬しているので感心するというようなことを書いています。
それはモーセの「汝、父と母を敬うべし」の教えに重なっているともいう。ただし日本の子供の「孝」は「愛」というものではないとも見ています。
バジル・チェンバレンが明治23年に書いた『日本事物誌』にも、やはり日本の大人も目上を敬い、天皇を民の父母と見ているようなところがあって、これは好ましい「無邪気な服従」ではないかという見解がのべられています。
外国人がなぜこういうところに関心をもつのかというと、これはコンラッド・ローレンツが『攻撃』という本のなかで書いているのですが、動物は種を保存するために攻撃本能を適度に抑制するメカニズムをもっているのだが、人間はそれがうまくはたらいていないというのです。ヨーロッパ型のユダヤ・キリスト教社会では、人間が全知全能の神に近付こうとする努力を評価します。ということは人間に根本的な欠陥があっては困るのです。ところが成熟社会では国家単位で正義や利益が決まってくるので、フルバージョンの力をいつも発揮できるようにしておかなくてはならず、ついつい全力でぶつかるということをしてしまいます。
ローレンツも言っていることですが、このようなフルバージョンをすぐ使わないようにするには、そこには「遊び」というものが必要になる。それは大人になってからでは遅いので、十分に子供のころに練習しておかなくてはならない。その点、日本の子供はいろいろ練習しているのではないか、ムンチンガーやチェンバレンはそのへんのことを観察したのです。
しかし、そういう面はどこかにあったにせよ、明治社会はすでに子供の練習装置や練習期間をもてなくさせつつあったのです。
司馬遼太郎も亡くなる前にしきりに指摘していたことですが、日本の共同体には子供組・娘組・若者組のような青少年の組織がありました。若衆宿というのもあった。こうした組や宿は大人社会のシミュレーションを「遊び」をとりいれてできるようになっていた。祭りや共同作業を通してシミュレーションできるようになっていたのです。
ところが明治5年の「学制」によって小学校が全国津々浦々にできあがっていくと、子供の集団はいきおい学年別になっていく。学年でスライスされていく。そこへもってきて、大家族から小家族へどんどん移行していたので、おおまかで擬似的なファミリー・グループが共同体のなかに形成しにくくなってきて、「仮親」のような意識が大人のほうにも欠けてきてしまいます。たとえば「名付け親」というのは大事な擬似家族性のひとつのあらわれなのですが、そういうものが少なくなった。
また、国民皆兵のための徴兵制が施行されるようになると、早くから共同体を離れて異なる生活と規律を余儀なくされる。さらに立身出世が謳歌されると、早くから社会システムに関心をもちコミットしなくてはいけなくなって、子供は子供でいられなくなってくる。こういうことが明治社会は子供に強要しているとも見られるわけです。
ただし、このような事情によって近代の少年少女の感情が疎外されたり、硬直したり、西洋化しすぎたりしたかというと、そうでもないのです。
いまのべた徴兵制や立身出世は、おおむね男性社会のシステムが強調されていったということをあらわしています。いわば父性原理が社会的に大きくなっているということです。父性原理の本質は「切断」です。
しかし日本の家庭や共同体には、いろいろな意味で、けっこう母性原理がはたらいている。河合隼雄はそれを「母性社会日本」というふうに捉えています。母性原理の本質は「包容」です。第951夜に案内したように、古澤平作はそこから父的なエディプス・コンプレックスではない母的な阿闍世コンプレックスを導こうとした。
こうした特徴があるのだとしたら、日本の子供はどのように母なるものとかかわるかということが、その感情形成にとっては大きいものになります。仮に社会が父性的なもので統括されていっても、母性的なものがうまくはたらけばバランスがとれる。そうも考えられるわけです。
ところが実際には、明治社会は父性的に確立し、まさに父権的に拡張していきました。天皇を頂点にしていただいた大日本帝国というシステムとは、そういうものです。子供たちも「少国民」といふうに位置づけられる。明治21年には「少年圏」という、明治22年には「小国民」という雑誌が創刊されて、子供も立身出世のシステムの一員となることが鼓舞されるのです。
本書はこうした父性的な明治社会がどのように天皇のイメージを拡張し、教科書を作り替え、小学校唱歌を構成していったかを、詳しく説明しています。まさに富国強兵のシステムは子供の心にまで染みこむようにつくられていったのです。では、「母なるもの」はどうなってしまったのか。
明治社会の拡張と突進は日清日露をへて、明治天皇の死まで隙間なく進みます。しかし、大正に入ってくると、その行きすぎもそれに対する反省も、両方おこってきます。それでも第一次世界大戦による景気拡張ムードまでは引っ張られてしまう。
けれどもここでやっと、新たな運動がおこってきます。鈴木三重吉が「赤い鳥」を創刊して、子供に向けられた唱歌や童話や昔話に反旗をひるがえす。そこに北原白秋や西条八十や三木露風によるまったく新しい少年少女のための童謡童話運動がおこってきたのです。詳しいことは省くとして、そこには「母なるもの」の復活が頻繁にとりあげられたのです。「この道はいつか来た道 ああそうだよ お母さまと馬車で行ったよ」(北原白秋)は、さんざしの花とお母さまが結びつき、「母さんお肩をたたきましょ 母さん白髪がありますね」(西条八十)は、肩たたきが父よりも母に向けられる。さらに野口雨情の「十五夜お月さん」にはとても多様な意味がこめられていて、食べていけない社会の人べらしのことと「母なるもの」が結びついています。
十五夜お月さん 御機嫌さん
婆やは お暇 とりました
十五夜お月さん 妹は
田舎へ 貰れて ゆきました
十五夜お月さん 母さんに
も一度 わたしは 逢いたいな
大正10年尚文堂初版復刻
本書はさらに、こうした童謡童話運動が少年少女たちの自由な言葉に耳を傾けたことを評価する。三重吉の「少年自作童謡運動」や白秋の「児童自由詩運動」です。たとえば小学校2年生と4年生の詩。実に自由な言葉づかいになっています。
花が咲きました。
あかいはなです。
三つさきました。
まめの花です。
わたくしがまいたのです。
それでうれしいのです。
私は不思議でたまらない。
りんごが日向にころげてた。
ここには「けなげ」がある。何の衒いもない。しかも言葉が生きています。白秋は「今度ばかりは、ぼくの童謡に匙を投げざるをえなかった」と感嘆したといいます。同じ時期、山本鼎は「自由画運動」をおこして、白秋が言葉でおこした運動を自由画でおこし、やはり子供にひそむ自由度は大人によって抑圧されていることに気づきます。
このように子供が遊びや表現を自在に発揮していることに耳を傾けることは、大人社会にとっても必要なことであるはずです。柳田国男は、子供の遊びを「目の前に保存せられたる人類のなつかしき過去である」と言い、長谷川如是閑は子供の遊びは「権力の外にある世界」と言いました。だから子供に教えられることも多いのです。
けれども子供はつねに大人社会を反映しつづけるものでもあって、東北地方の「こかお」という遊び歌は「花いちもんめ」に似て、どの子がほしい、あの子がほしいという歌詞になっている。「こかお」は実は子を買おうなのです。こういうものは防いでも防いでも子供心に入ってくる。むしろ、子供の自由な発想と大人社会の反映は、その葛藤と矛盾こそが「けなげ」が発生してくる隙間になっているのかもしれないのです。
本書は後半のそのまた後半には、日本が軍靴の音を高まらせて戦争に突入していった時代にまで入りこんで、そこで親をなくし、町を焼かれた子供の感情がどういうものになっていったか、学童疎開がもっていた意味、また、いまだ成人にもならない少年が満蒙開拓青少年義勇軍に駆り立てられていったときの心性、さらには神風特攻隊やひめゆり部隊で死を覚悟した若い男女の言葉などを抜き出して、そういう国と討ち死にするような「けなげ」というものもあったことに、読者を促しています。
われわれの内なる少年少女の感情というもの、まことに扱いにくいものです。しかし、少年少女こそ、そういう大人の困惑を見せられるのは扱いにくく、困っているのです。いや、そういうことがはっきりおこっているわけでもないのに、少年少女は突如として、「はかなさ」や「わびしさ」に気がつくことも多い。
与謝野晶子の『私の生ひ立ち』には「西瓜燈籠」という小さな話ものっています。10歳のころ、お父さんが西瓜燈籠をこしらえてやろうというので、どういう図柄がいいか聞く。晶子は「朝顔の花の青白く光っているのがいい」というようなことをいうと、それをつくってくれた。次の日は弟に馬の絵の灯籠を、その次の日は妹にカエデと短冊をあしらったものをつくった。
晶子のものは最初につくったので、女中が水桶の中に入れて萎びないようします。そして夜になると軒端に吊るしてくれる。けれどもよく見ると、晶子の灯籠はもう錆色になり、形も小さくなり細長くもなっている。ほかの二つはまだ生き生きとしている。たったそれだけのことですが、晶子はこう書いています。私は生まれて初めて夜の涼み台のところで考えました。早く生まれたものは早く死ぬということが、どんなに悲しいか、どんなに遣瀬(やるせ)ないことか、私は西瓜灯籠をじっと見つめていました、というふうに。
こういうこと、はたして近代史のなかだけで解けるかどうかです。ただ、はっきりしているのは明治大正の作家やアーティストたちは、なんとか少年少女感情に立ち戻って、時代や社会や日本を見ていこうとしていた、ということです。