才事記

機械と神

リン・ホワイト

みすず書房 1972

Lynn White, Jr.
Machina ex Deo 1968
[訳]青木靖三

 この本の原著が発表された1968年は多くの現代史家がターニングポイントとよんでいる年である。このことは本書を語るうえで欠かせない。
 1968年はニクソンがベトナム北爆を停止した一方、ソンミでは大虐殺が進行し、マーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺された。こうしたドラスティックな動きのもと、主要都市の多くの大学でバリケード蜂起がおこり、パリのカルチェラタンが解放区になったほか、反体制運動が頂点に達していった。日本の全共闘運動もこの年に爆発する。
 三島由紀夫が市ケ谷で割腹したのは1970年であるが、その直接の引き金になったのは、この1968年に頂点を迎えた反体制的な、そして三島にとっては頽廃的な状況だった。ぼくは24歳、世代的には全共闘世代の兄貴分であるが、これらの運動の飛沫の大半を浴びていた。
 文化的にもターニングポイントを暗示することが象徴的におこっている。スタンリー・キューブリックが『2001年宇宙の旅』を発表、スチュアート・ブランドが『ホールアース・カタログ』をつくり、フィリップ・K・ディックは『電気羊はアンドロイドの夢を見られるか』(映画『ブレードランナー』の原作)を発表して、時代の転換を予告したものだった。ボードリヤールの『物の体系』、羽仁五郎の『都市の論理』もこの年であるし、アラン・ケイがパソコンの発想を得たのもこの年だった。
 リン・ホワイト・ジュニアがこういう年に『機械と神』を発表したのは、本書にもこうしたターニングポイントを感じさせる内容が横溢しているからだ。

 ホワイトはこの本で地球の危機を予告し、環境破壊によって生態系に回復しがたい不順があらわれているのは、なにも20世紀の後半になって顕著になったことではなく、キリスト教的ヨーロッパ社会がとっくの昔におこした犯罪だということを告発しているのであるが、その解決策の暗示のひとつとして聖フランチェスコの精神に戻るべきだと提案する。
 この「アッシジの聖フランチェスコに戻れ」は、実は当時のカリフォルニア型のヒッピー・ムーブメントのなかで高らかに合唱されていた合言葉でもあった。リン・ホワイト・ジュニアその人もカリフォルニア大学で歴史学の教鞭をとっていた。
 この符牒は偶然ではない。そのためルネ・デュボスは『目覚める理性』のなかで、ホワイトが安易に聖フランチェスコの精神によって生態系の危機の克服を訴え、ヒッピー・ムーブメントを助長しているのは危険ではないかと批判した。
 デュボスのファンであるぼくとしては、この批判にも加担したいところだが、ヒッピーの守護神となったホワイトの見方にも耳を傾ける必要がある。

 ホワイトの考え方は第2章で準備され、第3章と第4章でよく主張されている。
 ホワイトはおおむね次のようなことを言っている。
 欧米の思想文化はギリシア的な思考類型が土台になっている。この土台を成立させたのは「ユダヤ教の異端化あるいは通俗化の系譜としてのキリスト教」だった。キリスト教会は欧米の思想文化の母体ではないにしても、子宮の役割をはたしてきた。ところが、この300年でキリスト教は危機に陥った(これがホワイトの強い指摘になっている)。外的な攻撃にさらされたわけではない。内部の危機に見舞われ、しかもその危機に気がつかなかったのである。
 キリスト教の特徴は歴史と神話を同時に解決しょうとしているところにある。なにしろマリアの処女懐胎を捏造し、天使に階級をつけてしまった宗教なのだ。
 それが問題なのではない。そういうものが宗教なのだから。しかし、その後のキリスト教はこのような確信を現代史という歴史のなかで普及する力を失った。しかも、もっと由々しいことには、その現代史のなかでキリスト教はいまなお社会的に君臨し、あまつさえ科学技術社会と資本主義競争を許容し、その恩給を受けつづけているということである。

 ホワイトは、そこで視点を一転し、現代史が生態学的危機に陥っていることを告発し、それが「キリスト教」「西洋」「科学技術社会」「資本主義」の分かちがたい大合唱になっていることにメスをふるいはじめる。
 ホワイトがこれを書いたときはまだはっきりしなかったものの、この大合唱が地球環境の危機を生態学的にもたらしていることは言うまでもない。かれらは反省すべきなのである。
 そこまではいい。ところがホワイトはここで第1には「東洋」を持ち出し、第2には「聖フランチェスコ」を持ち出して、そこへの回帰を促すのである。そして西洋には意志が勝ちすぎていて、それを東洋の知性(?)によって補うべきだという、当時のニューエイジ・サイエンスないしはフラワーチルドレンまがいの着想に入っていってしまう。また、小鳥たちに語りかけたらしい聖フランチェスコの環境主義に加担してしまう。
 こうなると、まずは東洋思想というものがもっている「知性」のほんとうの意味と東洋思想が生態学的危機に有効かどうかということを、本格的に議論しなければならなくなってくる。ついでキリスト教が現代史に突き刺さっていないにもかかわらず、何人かの聖人の思想には生態学的人間像がひそんでいたのだということを浮き彫りにしなければならなくなってくる。
 が、ホワイトは『機械と神』ではその議論をしなかった。避けたとは見えないが、別のお話に終始した。そこがルネ・デュボスには気にいらなかったのである。とくに一点だけとりあげておくが、ホワイトの主張では、それがかつての自然神学とどこがちがうのか、まったくはっきりしてこないのだ。

 しかし、本書は現代思想やニューエイジ・サイエンスやフェミニズムの流れを見るうえでも、一読すべき本である。
 とくに最終章になって「魔女の必要性」が掲げられていることなど、なかなかドキッとさせる。ホワイトは現代人にひそむ神経症的残虐性に気がついていて、それならナヴァホ・インディアンに効力をもっている魔女にも目を注ぐべきだと言っているのだが、これは当時の日本で桐島洋子らが魔女の必要を説いたことと近いもの、あるいはフェミニズムの一端ともつながるものを感じさせて、いま読むと考えさせられる。