父の先見
岩波文庫の赤帯を読む
青弓社 1997
本を読むには、ふつうは最初に本を選ぶことから始まると思われているが、ぼくのばあい、そういうことは少ない。食事や旅行と同じことで、まず何かを食べたい、どこかへ行きたいという気分が先行する。
だから、何を読むかという自分の気分の状態がある程度は鮮烈にかつ繊細に見えてくる必要がある。食べたいのだが、中華かイタ飯か鮭茶漬か油っこいものなのか。どこかにぶらっと出たいのだが、上海なのか温泉なのか、東北なのか、まだ行ったことがないところなのか。
食べ物ならだいたいの分類が誰もが見えている。ラーメンを食べたいという衝動があることが自分でわかる。変わったものを食べたい、いままで食べたことがないものを食べるということもある。旅のばあいは、行き先のことをたいていの人が調べる。不思議なことに、まだそこに行っていないのに、その行き先のことを事前に知っていく。
このような食衝動感覚や旅行事前感覚ともいうべきものが読書にもあるわけで、実は本を読む前に読書は始まっているというべきなのだ。
こうして、やっとどの本を読むかということになるのだが、これも大半は読む前か、読み始めの瞬間で決まる。
かなり慣れてくると、何冊もの候補本に目が近づくか、それらのうちの何冊かをちょっと手にとって読み始めたとたんに、この本がいま読むべきものかどうかがすぐわかる。おいしい店かどうかが店構えでわかってくるようなものと思ってもらえばよい。さらに熟練してくると、読む前に何に手を出せばいいか、つまり、どのあたりに行けばおいしい店にぶつかるかということがわかってくる。
これらのほかに、どんな時期に、どの時間に、どこでその本を読むかということも大きなフィルターになる。ぼくのばあいは、自分が読書をするときのコンディションがおそらく数十通りに分かれていて、たとえば一日を目覚めから就寝まで分けるとすると、きっと14、5回の分節に区分けできるのではないかとおもう。紅茶を飲むとき、庭の百日紅を見たあと、チャイコフスキーを聴くとき、そろそろ眠くなってきたときで、本の読み方などいくらでも変わりうるのである。
読書にはそうした複雑多岐な動機といくつものフィルターとふだんの習慣の積み重ねが生きているのだが、しかしまた、これらとはまったく別の目的でしゃにむに読書に突っ込んでいくということもある。たとえば研究者がその領域のことを知る必要があって何十冊もの研究書や原書にぶつかっていくばあいなど、そういう例である。
けれども、もっと純粋に、読書という世界に埋没したいために読書をするということもある。本書は、その「しゃにむに」という読書の大成功例だった。
著者がどういう人かは知らない。1940年群馬県生まれで、東京工業大学理工学部卒業としか著者紹介はない。
が、本書はずばり『岩波文庫の赤帯を読む』という、まさにそのためだけの読書計画に取り組み、これを首尾よく完遂した稀有な記録なのである。それだけで、この未知の読書家に心からの祝杯を捧げたい。
祝杯をあげる理由は、計画を完遂したというだけではなく、表題にふさわしい内容になっていて、赤帯一冊ずつの感想もさることながら、どのようにその赤帯を入手したか、その赤帯から別の赤帯にどのように連結していったか、そういう読書人にとっては欠かすことのできない「手続き情報」もちゃんと書いていることにもよっている。赤帯本はどこにでもあるものではないから、それらを探し出すという手間も必要で、そのことも書いてある。冒頭には、
記録開始 一九九六年十月
完 了 一九九七年四月
というデータも記されている。読み出したらつまらなかったので放棄したということも、そのまま記録されている。こういうところが祝杯に値する。
それにしても、この著者、短期間でよくも赤帯を渉猟しきったとおもう。
周知のごとく、岩波文庫の赤帯は中国文学をふくむ海外文学のことで、それだけで約1000冊になる。ちなみに岩波文庫は、青帯が日本思想・東洋思想・仏教・歴史・地理・哲学・教育・宗教・音楽・美術・自然科学、黄帯が日本文学古典、緑帯が日本文学近現代、白帯が法律・政治・経済・社会になっている。したがって赤帯以外の色分けは必ずしも厳密ではないし、うまい分類ともいえない。しかし、柔道ではないが、赤帯に挑むとか白帯に向かうというのは、日本人の何かの挑戦性をくすぐっているのかもしれず、ぼくはそういうことをしたことはないのだが、なんだかおもしろそうな挑戦なのであろう。
けれども読書は、乱取り100回とか、ベンチプレス300回というふうにはいかない。そこには「理解」というものが待っている。だから、どこまで読みこむかは別としても、約1000冊を1年ちょっとで通過するには(この著者は15カ月)、よほどの集中力が必要だと想像されるにちがいない。
たしかに次から次へと文庫本を読むなんて、そうとうの手際か暴走か必要だろうと思われるであろう。むろん覚悟はいる。しかし、こういうことは、えてして覚悟だけではムリなのだ。実は、覚悟や熟練以外の別の手があるものなのだ。それは「自分で分類と関係を発見したい」という好奇心というものだ。
著者は次のような理由と動機と楽しみをもって臨んだ。
①赤帯は国別のバランスも、小説に偏重しないジャンルのバランスもいい(その黄金比率のようなものを感じたい)。 ②現代作家がほとんど入っていないのがいい(現代作家が交じっていると、現実を呼びさまされるようで、うるさい)。 ③しかも読んでいなかったものが95パーセントもあり、読みたかった作家がほとんど入っている(体力トレーニングやピアノ・レッスンに似て、挑戦的な気分になれる)。 ④ほかの文庫本より訳がよさそうだし、保存状態のよい古本が手に入りやすい(部屋のインテリアも変化する)。 ⑤入手した赤帯を並べてみると美しく、いろいろ並べ替えているといつまでも遊べる(書物への愛情のようなものがつねに満足させられる)。 |
ふつうなら、この程度の動機や条件でこの前代未聞の計画に着手できるとはおもえないが、実は昆虫採集や鉱物採集のことを思い出してみれば、不可能ではないことが見当もつく。ただし、⑤がとくに重要で、読書というもの、つねにこうした「読書まわりの趣向」が付随するものなのである。
本書には書いてはいないが、この計画が完遂できたもうひとつの理由は、自分でさまざまなベスト10を選ぼうという決断をして臨んだことだろうとおもう。
あるいは最初は決断していなかったのが、途中に計画を続行させるためにベスト10を選ぶという動機付けを加えたのであったろう。まさに「分類と関係を自分で発見する」というものだ。
そのベスト10だが、これがなかなかふるっている。いくつか紹介すると、こうなっている。ただ羅列するのも失礼だろうから、ぼくもささやかなチェックをほんのすこし入れておいた。(!)はぼくの同感マーク、(?)はあれっそうかなマーク、(#)は参ったマーク。もっとも、こういう評定は数寄者どうしが気楽にしているものなので、あまり目くじらをたてることはない。
◆喜劇ベスト10+1 ◆悲劇ベスト20 ◆長編小説ベスト24 ◆ドイツ文学ベスト9A ◆ドイツ文学ベスト9B |
ドイツ文学を一般選抜Aと高級選抜Bに分けるあたり、この著者は読書というものの楽しみ方をよく心得ている。ぼくもこういう方法を『遊』9号・10号の「存在と精神の系譜」このかた、何度も遊んできたものだ。
正確を期してはいけない。読書はどこまで勝手を貫くか、その勝手がしだいに説得力をもってくるところに醍醐味がある。自分の勝手の量が足りなかったり、その勝手が貫けないのだったら、それはまだ読書のうちには入っていないと思ったほうがいい。ラーメンを10杯くらい食べたからといって、ラーメン通になれるわけではないのである。『情報の歴史』を編集構成したときも、ぼくがいかに勝手を貫き通すか、その貫きかたがどこにもないものにまで達するかということが、ただひとつのエネルギー源だったのである。
では、もうすこし紹介しておく。
この著者の徹底した遊びを紹介することが、今夜のぼくのように、 時ならず息たえだえのコンディションになっている者を鼓舞してくれるからである。
◆イギリス文学ベスト9 ①モーム『雨・赤毛』、②ハーディ『日陰者ヂュード』(!)、③ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』(!)、④シェイクスピア『リア王』、⑤シェリダン『悪口学校』(?)、⑥『オシァン ケルト民族の古歌』、⑦『バーンズ詩集』、⑧シング『アラン島』、⑨イエイツ編『隊を組んで歩く妖精達』。 ◆フランス文学ベスト9 ◆大長編小説ベスト22 ①ゴーティエ『キャピテン・フラカス』(#)、②メルヴィル『白鯨』(!)、③サンド『笛師のむれ』(?)、④スコット『アイヴァンホー』、⑤バルザック『農民』、⑥ゴーゴリ『死せる魂』(!)、⑦バルザック『従妹ベット』、⑧ドストエフスキー『白痴』、⑨スタンダール『パルムの僧院』、⑩スターン『トリストラム・シャンディ』、⑪ゴンチャロフ『オブローモフ』(!)、⑫スタンダール『赤と黒』、⑬ハーディ『日陰者ヂュード』、⑭ゾラ『ジェルミナール』、⑮スコット『ミドロジアンの心臓』、⑯ゾラ『大地』、⑰ケラー『緑のハンリッヒ』、⑱フローベール『感情教育』(#)、⑲フィールディング『トム・ジョウンズ』、⑳マリヴォー『マリヤンヌの生涯』。以下略。 ◆大々長編小説ベスト14 |
ところで、本書には「なかじきり」「中休み」「文庫本に関する本」「赤帯を読むとは」「年金生活者の理想的読書生活」「文庫中毒の井狩リストから」といった間奏曲が自由に入る。
これも、こうした長期計画を持続的に記録していくには必要なもので、こういう視点変化や余談を入れずに、ひとつの文体フォーマットやコンテンツ抽出主義にこだわると、たいていは挫折することになる。読書には、また読書ノートには、ありとあらゆる工夫が必要なのである。
さて、この著者はあろうことか、このあと休むひまもなく『岩波文庫の黄帯と緑帯を読む』を続刊した。日本文学系文庫本だ。これには参った。脱帽だ。
しかも、格別の工夫をおもいついた。「しおり」に涙ぐましい努力をしたようなのである。なんとアイドル写真のしおりを徹底して使ったのだ。
たとえば倉田百三には倉田まり子を、斎藤茂吉には斎藤由貴を、北原白秋には北原佐和子を、夏目漱石に夏目雅子というふうに同名しおりを入れ、つづいて内田百間(山口百恵)、徳田秋声(秋ひとみ)、蒲原有明(柏原芳恵)、広津柳浪(広末涼子)あたりは一字重なりアイドルに頼ったというのだ。
これで、いったいどれほど読書欲が増強されるのかは、ぼくにはわからないのだが、きっとこの著者にとってはこれこそが絶対のコラボレーションであったのだろう。しおり作戦である。ところが、芭蕉に倍賞姉妹をつかおうとおもったあたりで挫けそうになったらしい。そこで、なにくそとここで踏ん張って芭蕉は松尾だから松田聖子とし、それからは大胆にも、広瀬淡窓のところで「広」のアイドルがなくなったので「瀬」に切り替えて、山瀬まみを登場させ、佐藤春夫のときもたんに「サ」があるというだけで桜田淳子を起用するという、あくまでアクロバティックな手法で一貫性を切り抜けていったのである。
門谷建蔵さん、「千夜千冊」の片隅から岩波文庫総制覇が完了することと、いずれは他社の文庫本制覇に乗り出されるであろうことを見守っています。