父の先見
ジョン・ランプリエールの辞書
東京創元社 2000
Lawrence Norfolk
Lempriere's Dictionary 1991
[訳]青木純子
この数日、ぼくの視野の一部に欠けているところがある。
目の中に空隙があるといったほうがわかりやすいだろうか。出雲で未詳倶楽部の会員から出雲大社の神紋の印刷物を見せられ、これはどういう意味ですかと訊かれて、そのマークをよく見ようとしたら、視像の一部にぽっかり見えないところがあった。
他のところへ目を移しても、風景に目を移しても、やはり見えない部分がついてくる。左側の端からちょっと中央にかけてのところだ。視野の幅を30センチとすると、そのうちの左の7~8センチのあたりが空虚なのである。空白なのだ。それとともに全体の視野もぼけている。それはそのあと数時間つづいたが、飛行機で東京に着いたころには戻っていた。
翌日、「千夜千冊」を打っていたら、また見えなくなった。画面が零れる。本の中の活字も目を移していくと、次々に欠損する。これでは仕事にならないので諦めて、数時間してまた戻ったころを見計らって、一気に打った。
どうも今日も同じことがおこりそうなので、いま急いでいる。そのくせ、あえて大冊のミステリーをとりあげた。とくに本の中を覗きこまなくても書けそうでもあるからだ。それに視野の一部が欠けているなんて、まさにミステリーにふさわしい。
「エーコ+ピンチョン+ディケンズ+007」というふうに帯の謳い文句にある。とんでもないキャッチフレーズだ。しかし、そんなふうに評判されるような物語を平気で書ける奴が、次々に世の中には登場してくるものなのである。日本語版で600ページ2段組。しかも28歳で書きあげた。
ジョン・ランプリエールというのは1788年に『古典籍固有名詞辞典』を一人で編集著作した孤独なレキシコグラファーのことで、古代ギリシア・ローマ時代の神話や古典にあらわれる人名をことごとく調べあげた。ジョン・キーツはこの人名辞書をほとんど暗誦できるほど読み耽った。本書の著者のノーフォークも少年期にこの人名辞書と出会ったらしく、たとえばアイスキュロスのところに「空飛ぶ鷲がくわえていた亀が頭上に落ちてきて頓死した」などと書いてあると、狂喜してそのアイスキュロスの数奇な生涯を想像して、午後いっぱいをすごした。
そのジョン・ランプリエールを主人公に仕立て、折からのユグノー弾圧史を絡ませ、そこにスクリプトそのものが一大幻想図書館の再生にあたるような複雑な迷宮をつくりあげたのが、この作品の構想である。
いたるところにディアーナをはじめとする神話中の人物が見立てられ、物語が進むたびにアルファベティカルな説明が入る。クロワゾンネ仕上げの造本書籍なども黒光りする。オウィディウスの『変身譚』をはじめ、引用も随所にちりばめられている。
よくもこんな構想をたてたものだ。「カバラ」や「豚肉倶楽部」という奇妙な結社も出てくる。帆船が物語の中を動きまわり、それが地下にまで及ぶ。変な双六ゲームが暗示になってもいる。
舞台はカエサレア、ロンドン、パリ、ラ・ロシュル。実在のジョン・ランプリエールはカエサレア(ジャージー島)に生まれた。かつては古代ローマの属領だった。物語でもその事実がそのままいかされている。ラ・ロシュルはユグノー弾圧の最後の包囲戦がおこなわれた土地で、フランス西海岸にある。17世紀には宰相リシュリューがここを攻撃して、市民もろとも消滅させてしまったという悲惨な歴史をもつ。
28歳のノーフォークはこうした実際の歴史の舞台を下敷きにしてはいるのだが、その叙述にあたってはエントロピー理論やカタストロフィ理論やカオス理論を歴史記述に紛れこませるという、そこがトマス・ピンチョンに比肩されるのだろうが、そういう熱力学的な手法を平気でつかった。
だいたい人名辞書の執筆の順に事件がおこるというのが奇想天外な展開であるところへ、そんな熱力学な進行をちよいちょい差し挟むものだから、いったい殺人事件が問題なのか知の事件が問題なのかが、見境いがつかないようになっていく。物語のミステリー仕立てを追うよりも、ついついそうした細部に惑わされるようにもなっている。
そこへもってきて、訳者の青木純子さんによると、この物語にはざっと350あまりの固有名詞が出入りするという。
それがことごとくギリシア・ローマ神話を帯びているので、物語はもともとそうした古典神話にのっとって進行しているかのようにも見える。ぼくとしては大好きなディアーナ(ダイアナ)がシンボリックに扱われているのが(『ルナティックス』はディアーナの物語にもなっている)、いささか擽られた気分であった。
しかし、それらすべてが作者ノーフォークのカードマジックのようなトリックなのである。事件は意外な展開を見せはするものの、特段に知に絡んでいるわけではない。ナジムという怪しげなインド人の影とともに、それこそ『月長石』のように事件がおこっていくだけなのだ。
そうであるのに、やはりトリックにひっかかって神話の原型や人名辞書の謎にはまって読んでしまうのは、巧みに配した舞台装置の異常性が次々に投入されるからでもあった。詳しいことはふれないでおくが、たとえばテムズ川沿いの地下30キロにわたって抉られた迷宮の正体が実は巨大恐竜の化石の内側だったというのも、虚をついている。
この作家、かなりの腕っぷしなのである。 ともかくもランプリエールの辞書を事件にしただけでも立派なものだ。次作はもっと長い『教皇の犀』というものらしい。
ただし、一言付け加えておくと、この作家は、帯の謳い文句でいうほどには、まだまだピンチョンやエーコには届いていない。サマセット・モーム賞をとったから、モームのようかというと、そうでもない。むしろモーリス・ルブランやアレクサンドル・デュマに近づいている。が、この作家にはかえってそのほうがいいのではないか。ぼくは21世紀の重厚なルパンや暗号的な三銃士を待っているのだから。