才事記

素顔のイサム・ノグチ

田中一光 [構成]

四国新聞社 2002

 四国新聞に連載された50人のエッセイに4人が加わって、この1冊になった。エディトリアルデザインとブックデザインにかかわった田中一光さんは編集構成にも目を配り、そして亡くなった。本書が一光さんの“遺作”なのである。
 日米54人がイサム・ノグチにオマージュと思い出と感想を捧げた。一光さんを失ったままに、この54人の証言による1冊を黙って見ていると、このページネーションのすべてが、イサム・ノグチに「うん、そこにもちょっと切れ目を入れようか」と言われながら、みんなで作った“紙の彫刻”のようにも感じられてきた。実はぼくもその54人の一人に加わった。
 でも、その切り口はみんながみんなちょっとずつ違っていた。そして、そのようにこの一冊が仕上がっていることが、まさしくイサム・ノグチの法外な多様性を象徴したのである。

 当然のことだが、建築家の言葉が多い。丹下健三は「イサムさんは、古代の弥生的な世界から侘びの境地までを自分のものにしていました」と書いた。丹下はイサム・ノグチが「自然の理法」と「彫刻家としての意志」を格闘させていたことを見ていた証人の一人であった。弥生であって縄文を捨てているところが、丹下が見たイサム・ノグチなのである。
 ヒュー・ハーディはオペラハウスの設計をしようとしているときに四国を訪れて、「それなら本当の歌舞伎劇場を見にいくべきだ」と言われ、ノグチ自身が半日をかけて、おそらくは金丸座を案内した思い出を書いている。ハーディはそういうイサム・ノグチに「不可分」という言葉を贈っている。
 バックミンスター・フラーとイサム・ノグチの両方のパートナーをしたショージ・サダオは、幸運にもパリのユネスコ庭園のために日本の庭を追跡していたノグチに出会えている。重森三玲が『作庭記』片手にアドバイスをしていた。ショージはその後もノグチの仕事にかかわるが、そこにあったのは「実物と効果のあいだの矛盾の研究」だったと言っている。
 そうなのだろう、とおもう。イサム・ノグチは「矛盾」に立ち向かったのだ。そのパリのユネスコ庭園で作庭の実際の指揮にあたった佐野藤右衛門は、これはぼくも本人から聞いたことがある言葉なのだが、「ひともんちゃくばっかりですわ」と言った。それは「悶着を恐れない人」という意味である。

 なぜ、矛盾や悶着に向かうのだろうか。最高裁判所にイサム・ノグチと共存する空間をつくりだしたかった岡田新一は、イサムさんは「守らなければならない根幹をおさえている」と言っている。そして、その根幹は「身をもって芸術を生活した人」としての根幹だったのではなかったかと指摘する。
 磯崎新はたいてい海外でイサム・ノグチと会っていたし、実にいろいろの話を交わしてきたようだが、あるとき牟礼で聞いた「自然石と向き合っていると、石が話をはじめるのですよ。その声が聞こえたら、ちょっとだけ手助けしてあげるんです」という一言が、思い返せばイサム・ノグチのすべてだったと述懐した。
 マルセル・デュシャンもイサム・ノグチも、いっときブランクーシの秘書だった。それを思ってノグチの秘書となったのがボニー・リッチラックである。イサム76歳だ。そのボニーは、イサム・ノグチが若い女性が芸術家然とすることにかなり懐疑的だったという証言をする。女性たちが本気で犠牲を払っていないというのだ。それにつながるようなことを安藤忠雄も言われたらしい。「建築家は幸せになるから、ダメなんだ」。安藤は、そこから「つねにつきまとう人生の不安こそが作品に緊張を与えるのだ」という声を聞く。
 ちなみにノグチがブランクーシに学んだもの、それは反モダニズムだったのではないかと、中原佑介は本書に寄せている。

 イサム・ノグチにはたくさんのエピソードが残された。本書はそのごくごく一部が紹介されたにすぎないが、それでもいちいち考えさせるものが息づいている。
 写真家でイサム・ノグチの弟にあたる野口ミチオは、兄貴が「一番扱いにくい素材は空気なんだ」といつもこぼしていたという話を紹介し、ずうっとイサム・ノグチの石のパートナーを担ってきた和泉正敏は、「ぼくは周りが荒れたところにきれいなものを作るのが好きなんだ」という言葉を紹介した。
 意外で唐突なエピソードもいくつもある。ボストン在住でハーバード大学で教鞭もとっていたアーティストの片山利弘は、1979年のアスペン・デザイン会議で長すぎたルドフスキーの講演のあとに演壇に立ったノグチが、「さあ、みなさん、窓をあけましょう」と言っただけで講演を終えたという有名な話のあとに、イサム・ノグチには偉大な自信と自由への挑戦を果たさなければならない責任感のようなものがあったと述べた。片山はまた、そこにはつねに「侘び寂びと科学性の世界が両立する」とも書いた。
 1951年、イサム・ノグチは慶応大学の谷口吉郎設計の校舎に父・米次郎を記念する部屋(新万来舎)と庭園を依頼される。広井力をアシスタントにして『無』を制作したのだが、部屋の中で制作したその作品は入口からも窓からも運び出せず、窓枠を壊して搬出したという。もっと唐突なことを美術商の笠原隆之助は体験したようだ。会ってまもなく「画商などは大嫌いだ」と言われたのである。
 デュシャンは「創造的誤植」という言葉をつくったが、イサム・ノグチも誤解も失敗も汚点も恐れなかったのだろう。そんなことは世の中がわからんちんのままに判定しているだけのことで、いつか見方を変えれば別の価値に代わるものばかりだったからである。勅使河原宏がそこにつながるエピソードを書いている。牟礼の仕事場に訪れたときのことである。土をかぶった石の前でイサム・ノグチはこんなふうに呟いていたというのだ、「自然が許してくれる過ちよ!」。

 イサム・ノグチを一言で説明するのも、十個の作品で説明するのも、百時間のフォーラムで説明するのも不可能である。
 そもそもイサム・ノグチが「常識をくつがえすために空想に遊んだのは、新しい世界観をつくるためだった」(酒井忠康)。けれどもその新しい世界観は、ほれ、これがそれですというようなものではなかった。仮にそういうものができたとしても、イサム・ノグチは翌日にはまた新しい世界観の発見に向かっていったのだ。
 よく知られているように、イサム・ノグチの原点には「プレイ・マウンテン」(遊び山)がある。それはうんと小さくすれば滑り台「スライド・マントラ」になるし、うんと大きくすれば札幌のモエレ沼公園にもなる。「遊び」こそはイサム・ノグチの世界観の源泉なのである。しかしそうだとしても、イサム・ノグチはそこで遊び続けられる人ではなかったのだ。
 上下2巻におよぶ分厚い『イサム・ノグチ』を書き切ったばかりのドウス昌代は、そういうイサム・ノグチに「宿命の越境者」という言葉を捧げた。むろんこの言葉には、日本人とアメリカ人の両方の血をもった宿命的存在者としてのイサム・ノグチの来し方行く末が含まれている。
 三宅一生はその宿命的な去来の感覚をたった一言で、「橋」とよぶ。広島に生まれ育った三宅は、焼野原がまだいっぱい残っている街に出現したイサム・ノグチの「橋」に、言い知れぬ衝撃をおぼえたのだ。それは『生きる・死ぬ』と名付けられていた(のちに『つくる・ゆく』に改変された)。三宅はパリで修業しているあいだずっと、この「橋」を魂に刻み込みつづけたという。
 東西を越え、生死をも跨ぐ「遊び」こそがイサム・ノグチの存在を告知する「橋」だとしたら、われわれはこれからも次々にまだ誰も見たことがない「橋」を、みんなで創り続けなければならないということなのだろう。

 ところで、本書の構成デザインを終えて亡くなった田中一光は、本書には二つのイサム・ノグチに関する印象をしるした。
 ひとつは、1956年の大手町サンケイホールでおこなわれたマーサ・グラハム舞踊団のときの舞台をつくったイサム・ノグチ。そこには装置でもなく衣装でもなく彫刻でもない「前衛」が出現していたという。もうひとつは、一光さんが奈良から出てきて東横ホールの緞帳に出会った衝撃のことである。これはイサム・ノグチが川島織物の協力を得てデザインしたもので、和紙を切り貼りしてモデルをつくり、それを川島織物が織り綴った。一光さんはこの緞帳に魅せられて、それが見たさに何度も東横ホールに通ったほどだった。そこにはプロセニアム・アーチいっぱいに錆朱と紺と黄土色の矩形があしらわれているのだが、その余白がまことに絶妙で「最上質の日本」を感じたという。
 本書では川島順吉がそのときのことについて感想をのべていて、これがなんともおもしろい。イサムさんはあの緞帳で「能の老松の鏡板に代わるものを狙っていたのだ」というのである。
 広島の橋が橋掛かり、渋谷の緞帳は松羽目なのか。もし、そうだとしたら、なるほどこのようにしてイサム・ノグチは、何百キロも離れた能舞台をも作っていたということになる。

参考¶ぼくは本書にどう書いたかというと、これまでも何度かイサム・ノグチを書いていたので、ちょっと別の視点を入れた。前半、イサム・ノグチの作品は「重力の軛」を脱しているのではないかというような話のあと、こんなふうに結んでみたのである。「このように見えるイサム・ノグチの作品と人生の前では、私はいつも茫然としたままにある。こんなことを言うのはちょっと羞ずかしいが、その行為の抱握があまりにも有難くて、しばしば涙が出るくらいなのである。せめて何かのことを果たしたいとは思うものの、それも埒があかず、近頃は日本の子供たちにイサム・ノグチのお話を伝えることにしている。しかし、なかなか伝えにくいこともある。たとえばイサムさんが初めて良寛の書を見たときの感想、それを子供たちにどう伝えたらいいのだろうか。イサムさんはこう言ったのだ、“うん、まるでマルセル・デュシャンのようだねえ”」。