父の先見
音と言葉
新潮文庫 1981
Wilhelm Furtwangler
Ton und Wort 1954
[訳]芳賀檀
ぼくが知るかぎり、指揮者がオーケストラの楽員に最初に与えるテンポは、たいていは上拍から始まる。フルトヴェングラーはこれを下拍から始めた。
こんなことはそれまで誰もしていなかったことだった。それなのに、この愛想のない指揮者はそこから“神格”とか“神韻渺々”ともいうべき指揮像をつくりあげた。
楽員の知識を信用していなかったのではない。知識よりも情緒が音楽を響かせていることを、全体よりも細部が音楽をつくるという“哲学”で伝えたかったからだった。だから、トスカニーニなら、ぴったり揃ったユニゾンをつくってオーケストレーションの基盤にしたところを、フルトヴェングラーはまるで楽員の心の不安をうけとめるかのように下拍を鳴らさせたのである。
ウィーン・フィルのオットー・シュトラッサーがベートーヴェンの『英雄』を回顧するに、「驚いたことに、最初のたった二つの和音を演奏するだけで、これまで聞いたこともない音楽が始まるのです」と言ったのは、そのことだ。
こういう指揮者はいなかった。狷介で非妥協的なアルトゥーロ・トスカニーニはフルトヴェングラーの20歳の年長者だが、その指揮には高度な公理というべきものがあった。それゆえ楽員たちは、そこに数理的には近づけず、憑依するしかなかった。
フルトヴェングラーには公理はない。楽譜のひとつずつを深く読むことが課題であって、しかもその日のその場における音楽をつくろうとした。楽員はその指揮に従えば、奇跡を体験できた。憑依はとっくにフルトヴェングラー自身が終えていた。
カトリック的で、フルトヴェングラーの10歳年上のブルーノ・ワルターのばあいは、その指揮が倫理をさえ生み出した。それがマーラーをあのように偉大に響かせた。しかしフルトヴェングラーはといえば、倫理や道徳をまるで必要としなかった。これは有名な話なのだが、むしろぎくしゃくした指揮によってこそ、楽員たちが相互に連帯を創発するように促した。
フルトヴェングラーがベルリン・フィルに移ったとき、楽員たちは混乱の頂点に達していたという話がある。困りはてた楽団は、第1コントラバスの奏者が聴衆に聴こえないような深い音を出して、なんとかみんなで辻褄を合わせようとした。けれどもこれをフルトヴェングラーは好まず、コンサートマスターがいっさいの合図を引き受け、そこで一瞬、ヴァイオリンをぐっと下に引き下げることをアインザッツ(アタック)にすることを勧めた。
そうした現場の事情をチェリストのグレゴール・ピアティゴルスキーがふりかえって、「フルトヴェングラーの指揮の特殊な動きはいつも議論の的になっていました。そこには正確な動きはなかったのです。それなのにオーケストラは、いつのまにかいつもみごとなアンサンブルに達しました。けれども、その方法を説明することは誰にとってもまったく不可能でした」と言っている。
カール・ベームは10歳の年下である。慎ましい生活ぶり、誇張しない指揮、解釈の一貫性がベームの名声を高くした。モーツァルトの交響曲を2度にわたって全曲録音をはたしたのは、いまなおベームしかいない。
それはいいかえれば、ベームのテンポと解釈がゆるぎなかったからである。
ところが、フルトヴェングラーの解釈はいつだって変化して、新たな創造をめざした。だからこそ、ラヴェルの『ボレロ』やバルトークの『チェレスタのための音楽』のドイツ初演ができたともいえる。ベームにはこういう芸当はできなかった。そのかわり、われわれはモーツァルトをいつも同様同質に聴くことができる。はたして、あの悪魔的なモーツァルトがそういうことを望んでいたかは、別として。
やっぱり、帝王カラヤンとも較べておいたほうがいいだろうか。カラヤンはこれまであげた指揮者が19世紀の生まれだったのに対して、1908年の生まれだから、フルトヴェングラーより20歳若い。そして、この時代にオーケストラに取り組んだことがカラヤンをつくってしまった。このクラッシックの帝王はレコーディングにおける指揮世界をすべて作り変えたのだ。カラヤンはつねにレコーディングの技術の水準とともにあり、カラヤンによってレコードが、CDが、新たな音楽になっていった。
こんなカラヤンを、まだステレオも出来ていなかった1954年に去っていったフルトヴェングラーと比較しても、しょうがない。
このようなフルトヴェングラーが、ここに一冊の濃密な語りを残してくれたことは、一種の恩寵である。
しかしながら、この一冊からはフルトヴェングラーの指揮棒そのものも、バトン・テクニックも見えてはこない。あるいはまた、フルトヴェングラーの生涯をたえず取り巻いていたいっさいの賞賛も毀誉褒貶も批評も、聞こえてはこない。
ここにはニキシュもトスカニーニもいないし、ベームもカラヤンもいない。ただ一人フルトヴェングラーが古典音楽を思索し、古典音楽の本質をしんしんと見極めているだけなのである。ここには聴衆すら、いない。
それゆえ、この一冊を読んで、フルトヴェングラーの透徹した見解に反意をもつことは、ほとんど不可能である。もし、そういうことができるとしたら、その読者はよほどバッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、ブルックナーを聞きこんで、かつ楽譜を詳細に見つめてきたか、もしくは、たとえばルーベルト・シェトレの『指揮台の神々』(音楽之社)などの暴露めいたものを読んで、指揮者たちにまつわる噂に詳しくなった読者であろう。
フルトヴェングラーがこの一冊で何を語ろうとしたかという感想を言う前に、二つのことを確認しておきたい。
ひとつは、フルトヴェングラーの文章はシンフォニックな語りのように美しく、丹念で、どんな一行にもよけいな修飾やむだな挿入がないということである。もっとも、ぼくがこの本を読んでから20年ほどがたっているので、ひょっとして読み違いもあるかと思ったが、さきほどざっと通読して、やはり言いたいことをつねに絞り染めをするような、そういうすばらしい語りに徹していたことを確認した。芳賀檀の翻訳がよかったせいもある。
もうひとつは、フルトヴェングラーがこれを書いたのは、死ぬ前の10年ほどにあたる最晩年だったということだ。
このことは、指揮台では自由で創発的であったフルトヴェングラーが、日常生活ではシャイきわまりなかったこと、それゆえふだんは多くのことを語らなかったこと、加えて、最晩年に入った1950年代の世の中の演奏があまりに個性的なものに走っていたため、このことだけには文句をつけて死のうとしていたことを物語る。
この一冊は、フルトヴェングラーが音楽の鎮魂のために書いたものではなく、その後の音楽社会がきっとひどいものとなっていくだろうという極度の心配を秘めて書かれた、異様に静かな爆弾だったのである。
フルトヴェングラーが言いたかったこと、それはカギリを尽くすということだったろうと思う。
1950年代、音楽はすでに「技術」と「大衆」の時代に突入していた。さきほど書いたように、カラヤンがその恩恵を早くも受けていた。しかしフルトヴェングラーは、楽曲こそは有機体であって、どんな外からの技術もこれを細部にいたるまで生かせるとは見ていなかった。
またもっと強い信念をもって、どんなばあいでも、大衆に迎合していてはならないと考えていた。この大衆の時代に対する警戒は、第199夜にすでに書いておいたように、オルテガ・イ・ガセットが警戒していた意味と同じである。大衆とは自分を棚上げにして付和雷同を好むものなのだ。
技術と大衆に頼った音楽がどうなるかといえば、フルトヴェングラーによると、凡庸な演奏をいかに派手に見せるかという、音響的パフォーマンスに関する計算を発達させるだけなのである。これを食いとめるには、どうするか。老いたフルトヴェングラーは「カギリを尽くせ。」と訴えた。
バッハはそれ自体の中に完全な調和をもったメロディとハーモニーとリズムによる格調である。そのバッハをヴィヴァルディやヘンデルのように演奏すべきではない。
あの偉大なヘンデルさえ、バッハの前では主観的で恣意的であって、そこからは「近さの本来」というものが早退けしている。フルトヴェングラーは「音楽におけるホメロス」としてバッハが後世に継承されていってほしいのだ。
ベートーヴェンを演奏するには、ベートーヴェンが陥った天才的特徴を全身で補うべきである。なぜならベートーヴェンこそは他の誰よりも全身の知覚を総動員して、そのパルティツール(総譜)をつくったのである。しかしそれは、実際にはピアノ一台で書いたものであって、フルオーケストラの音は鳴り響いてはいない。そうだとすれば、ベートーヴェンのすべての長所と短所を読みこんだ者こそが、ベートーヴェンの想像した音を現前させるべきなのだ。
フルトヴェングラーは、ベートーヴェンの演奏には「音の言葉」と「魂の言葉」の両方の「間の」合一が必要なのです、と書いている。
ブラームスにはそれまでのすべての音楽史が参集している。そのため背後の歴史的芸術性とそれを演奏する生身の人間的感情とのあいだに“豊かなズレ”がある。そこがブラームスの魅力なのだが、そのためそのズレをどう引き取るかによって、音楽が変わっていく。
フルトヴェングラーは、それを時代の流行や大衆の好みに合わせてはならないと言う。
決定的なのはワーグナーである。ワーグナーには音楽を超えた総合がいる。
それは、ブラームスにおいて内部に浸透したもののすべてが、ワーグナーにおいては外部に噴出しているからであり、また、ワーグナーによって音楽はその本能の安定性を失ったからである。しかしながら、そんなことは楽譜には1音符として、書きこまれてはいない。それを書きこんでいる者がいるとしたら、それはニーチェなのである。
ワーグナーでは、すべての形象が比喩であり、すべての寓意が哲学になる。そこには同時に、ワーグナー自身のすぐれた資質が紡ぎ出した叩きつけるような言葉も出入りする。指揮者は、それらのすべてを、聴衆と、そしてワーグナーとに、返していかなければならない。
こうしてフルトヴェングラーは、どんな古典音楽に対しても、最初は「無」か「混沌」からの出発を選び、そのうえで誰も演奏したことのなかった音楽をつくりあげることに達したのだった。
こんな指揮者、もう二度と出現しないだろう。