才事記

駱駝祥子

老舎

白帝社 1991

[訳]中山高志

 わたしは舒舎予、筆名を老舎という。中国語の発音はラオ・ショオである。
 人品いやしからぬ人物だと思うが、平屋に住みたい、文章で何でも表現できると思う、ロマンチックでありたい、幽霊に友達がいる、愛国心がある、禁煙するくらいなら死んだほうがいい、いつか雑誌を出したいと思うほかは、何の取柄もない。
 その、わたしが出したい雑誌ははっきりしている。表紙は無地と絵柄を毎号交互にし、厚さはつねに一定で、太った豚のような特大号は出さない。各号に1篇だけ解読に1週間ほどかかる特別に難しい論文を掲載し、誰も永久に自殺ができないようにする。書評が一番大事だから、毎号6篇のせる。印象派のような絵はきっと“印度象”(インド象)とまちがえられるから、絶対に採用しない。
 それより大事なことは執筆者の住所・顔写真・家族構成を詳しく入れることである。これによってこの雑誌の質は世界一になる。ああ、それから、編集長は掲載原稿の内容をソラで言えないときは、すぐに首にする。ふっふっふ。

 中国でユーモアのことを「幽黙」と綴ることになったのは林語堂先生の発案で、先生は幽黙雑誌を創刊して、これに「論語」という表題をつけた。わたしはこれを気にいっている。わたしのいっときのお稽古道場はここだった。
 中国語ではユーモアにあたる適切な言葉はない。「滑稽」がややそれに近いが、スケーターのように世の中をスイスイ滑ることを稽(かんが)えるだけがユーモアではないので、やはり「幽黙」というのがいい。わたしはさいわい幽霊のようだし、あまり喋るのも上手ではない。
 だから、わたしの幽黙は絶品だ。どこが絶品かというと幽黙に哲学がある。その哲学をたとえば老張的哲学という。老張的哲学のいいところはどこからでもはじまって、世間に失望して終わることだ。ところが、誰もわたしが学者になることなど望んでいないから、わたしはこの類い稀な哲学をもてあまして、小説にする以外なくなった。

 27歳のとき、たまたまイギリスに行く機会があったので、向こうで片っ端から小説を読んで、7割くらいがつまらないことがわかったので、ちょっと作品を書くことにした。
 ところが、最初の『趙子曰』は文章に困った。次の『二馬』は白話で書いて少し文章もよくなったのだが、どうしたら物語が終わるかわからくなって終えてしまったのが失敗だった。それに、馬が出てこないのに表題に馬を入れたのが理解されなかった(馬は主人公の人名)。はっはっは。まだまだ幽黙に磨きがかかっていないらしい。
 それが『小坡的生日』(シンガポールの誕生日)では文章も構成もよくできて、というのも、どういう言葉も言葉というものは文字とともに生かせることがわかってきたからなのだが、そうやってこの作品が満足しそうになって終えたのに、そのぶん、削ること、捨てることを忘れて、やっぱり失敗した。たとえば写実的なところなど大根の泥のようにすっぱり切ってしまうべきだったのだ。
 ただし、言葉にはどんな可能性もあるということ、どんな文字もこれを究めて使えば必ず生きるということを、このあたりで自覚できたのは、幽黙作家としてはたいそう得難い経験になった。このように、わたしは大変に謙虚でもある。

 ところで、わたしが小説を書き始めると、中国の雲行きがあやしくなってきた。日本が満州に傀儡の国をつくりはじめたのだ
 わたしはもともと中国の将来についてはさほど期待していないし、幸せな夢もめったに見ない。中国で五カ年計画や十カ年計画ができても、こういう計画は中国の哲学にはまったくあわないだろうと思っていた。「天は長く、地は久し」。これが中国なのだ。ようするに愚か者は永遠に不滅だということだ。
 日本は満州を手に入れて、さらに中国を滅ぼすつもりだったろうけれど、これは無理なのである。途中まではともかく、その先にとんでもないものが待っている。多くの人々が中国古来の教えが進退に礼をもって譲りあうところにあると思っているらしいけれど、それはたとえば墨子にはあてはまらない。墨子の墨守思想は見えない中国として、いよいよのところで動くのだ。
 そんな雲行きがあやしいなか、わたしは次の『大明湖』を書いた。ところが日本軍が上海に進攻したときの閘北火災で、この原稿が焼かれた。ろくなものじゃなかったから、それはそれでいい。
 そこで『猫城記』(猫の町の記)を書いたら、焼けた前作の内容に似てきてしまって、困った。これは未練というものが人間をダメにするということなのだ。未練などもつと、少なくとも小説家は阿呆になるものだ。わたしは自分の作品からこういうことを、教えられた。それにしても未練は男と女をダメにするばかりと思っていたのに、これは計算ちがいだった。しかしよく考えたら、未練だけが男と女を純粋にするのだった。ほっほっほ。
 まあ、こんなことをしているうちに、やっと『駱駝祥子』になったわけである。

 この小説は駱駝の話ではない。祥子(シアンツ)という平凡な男の物語だ。
 祥子はなぜか駱駝と呼ばれていたので、ということは祥子も駱駝の一種だということになるが、駱駝の一種に祥子がいるわけではない。祥子は車夫なのだ。
 車夫といっても駱駝がそうであるように、いろいろ流派があって、祥子が北京で名をなすにはそれなりの苦労も、賭けも、はったりも、努力もあった。祥子は自分で一丁前の人力車を手にしたかったのだ。そして、ついに入手した。
 しかし、そうなったら駱駝は駱駝ではなくなってしまうのだ。わたしはそういう駱駝の祥子を書き切ろうと発奮して、書き切った。

 この作品はさいわい、わたしの前期の代表作と言われるようになったようだけれど、物語のなかで祥子を無為に死なせてしまったのが、あとで響いてきた。
 では、いったい無為って何なのかということをわたしに残したのだ。
 無為は老荘以来の中国の哲学だけれど、一番難しい。無為がわかればなんでもわかるというより、何もわからなくてもすむ。でも、それがとんでもなく大変で、その苦労にくらべたら無為をわかるより、何かをしていたほうがずっとましだ。きっとみんなもそう思っている。けれども、それで一巻の終わりなら世話はない。人の世話を焼けない人生はつまらない。
 そんなこんなで『駱駝祥子』は評判とはうらはらにわたしにいろいろなことを考えさせた。

 『駱駝祥子』を書いたのは1936年のことだった。中国はずっと不安定な戦争と革命の日々を繰り返していたので、わたしの小説など、どんな銃にもどんな食料にも役立たなかった。これは首がまわらない洋服を誂えてしまったようなもので、とても困った。
 これではいけないと茹で卵のような心をもとうとしたのに、その半分くらいは腐ってしまった。もうダメかと思っていたところへ、翌年から抗日戦争が始まった。これで何もかも予測がつかなくなった。文学の役割も、都市の行方も、自分の明日も。
 でも、誰もが計算できなくなったというのは、いいことだ。ひとつの結末が必ず次の行動を決めてくれるからだ。わたしが斉魯大学の文学主任として済南に入ったとたんにそこが戦場になって、武漢に脱出したのもそのせいだった。

 もともと人の世の運命なんて、2つか3つほど目が入っていないサイコロのようなものだ。
 そのサイコロを振ってどの目が出たかも、目のない目が出たかも、同じこと、武漢に脱出してみると、わたしはそのまま抗日戦争の文芸戦線を担当することになった。これは駱駝がはたして革命のお役に立てるのかどうかというようなもので、わたしは愛国者だからどんな努力も惜しまなかったけれど、はたしてそれで中国がよくなったかどうかはわからない。
 それに文芸戦線という鉄条網をはりめぐらしたような“戦線”が世の中にあるというのもおかしなことで、わたしは、これはきっと中国人にとって面子(メンツ)が何かを邪魔しているのだろうと勘ぐって『面子問題』というトンチンカンな小説を書いたり、それとも何かに直面するとおかしくなる血の気が問題かと思って『貧血集』を書いて、駱駝の気持ちを書いた。
 まあ、わたしが何を書こうとも、本物の戦争には何の力も加えられない。でも、戦争もわたしを変えられない。へっへっへ。

 わたしは1899年の北京の生まれで、1歳のときに義和団事件がおこって8カ国の連合軍が北京に攻めこんだとき、父が戦死した。戦争というものは、顔くらいはちゃんと見て脳裏に刻んでおきたかった肉親をあっというまにたやすく殺せるものなのだ。残虐でない戦争なんて、あるわけがない。
 それに、誰にとっても意味がある戦争などありうるはずがないし、誰にとっても意味がある反戦などもありえない。戦争は戦争に意味を見いだせない者にとっては、欲望も倫理も散髪も風呂もなんでも、極限で感じるしかないものなのだ
 わたしが死んでからのことだが、ずっとのちに莫言という作家がやはり1937年から始まった抗日戦争を背景に『豊乳肥臀』という立派な小説を書いたけれど、あれなども欲望と倫理を極限で体験した民衆を主人公にしたものだった。莫言はその前に『紅いコーリャン』で腕を見せていた中国文学の若きリーダーだ。
 そんなことだから、わたしは戦争と革命が乱立バーバーポールの嵐のように渦巻いてきたさなか、まず1944年に『火葬』を書いて、これはなにもかもが一緒くたなんだと思って、『四世同堂』という連作を書いた。これは『駱駝祥子』よりもっと評判になったようだったけれど、書いているうちに戦後になって、なんだかパンツを途中で脱げなくなったというか、暗闇でパンツを穿こうとしていたらパッと照明がついたいうか、ちょっと変な気分だった。

 戦争中の話に戻るが、わたしはそのころから戯曲を書くようになった。しかし、戯曲は戯曲で、それで舞台がおもしろいかどうかは保証のかぎりではない。
 けれども演劇をおもしろくさせる方法が、たった一つだけれど、あるので、その秘訣を話しておきたい。
 暗転のときはみんなが懐中電灯でパッと舞台を照らすことなのだ。幕が下りたらすぐに裾をめくって中を覗くことなのだ。まあ、それでもうまくいかないときは、お芝居の最中から自由に拍手をすることだろう。おっとっと。
 それはともかく、わたしは演劇に未練を残しつつもアメリカに渡って向こうで何かを教えることになったのだが、戦後になって周恩来や郭沫若さんから帰ってこいと言われて、解放後の中国に戻ったら、やっぱりみんなが演劇を求めているので、『龍鬚溝』や『春華秋実』など、たてつづけに20本あまりの戯曲を書いた。
 わたしは暗転のない演劇をつくろうとしたのだ。そうしたら1966年から文化大革命で、わたしはなぜか紅衛兵の激越な批判と迫害をうけることになった。
 北京に西北城というのがあるのだが、その外側に太平湖があって、その湖畔でわたしは世にいう“非業の死”をとげた。

 その後、わたしが死んでから10年もたってのことだったが、1978年にわたしの名誉が回復されて、盛大な追悼会が催されたらしい。
 けれども、いったい名誉って何なのか。作ったり、回復できたり、つまりコントロールできるものらしい。そういうものはわたしには最初から関係のないものだったのだ。死して不本意がますます募るというのは、まことに、まことに困ったことである。

 最後にもう一言いっておくけれど、わたしを中国文学から世界文学の座敷に引っ張り出さないでほしい。また中国の固有の文化につなげて語らないでほしい。
 わたしは中国の特色は「悠久である」というくらいでとどめておいたほうが、いいような気がする。あまり細かいことを誇らないほうがいい。外国文化についても、もうすこしおおざっぱに見たほうがいいのだ。
 わたしは中国は好きだが、外国は好きなときもあるし嫌いなときもある。たとえばアメリカのご婦人はその肉体たるやむちむちしてよろしいが、近くに行くと大変な香水で、吐き気がする。
 こういうことは、しかし大声では言えない。だからこういうときは心の中でこう言うのである。「悠久なる民族はいい香り、中華万歳!」「白檀の扇子で帝国主義の匂いを送り返せ!」。
 それからもう一言、わたしが死んで30年もたって、中国人は電子メールと携帯電話に夢中になったようだ。よく知らないが、おそらくメールは下痢のようなものだろうと思う。また携帯電話はチューイングガムのようなものだと思う。
 どちらもときどきは口からも尻からも吐き出す必要がある。へっへっへ。