父の先見
西郷隆盛語録
角川文庫 1974
[訳]奈良本辰也・高野澄
墨よりも黒い
私に一片の心がある
雪よりも白い
髪は断ち切ることができても
心は断ち切れまい
敬天愛人。西郷南州。
残念とは何かと思う。残念とは念が残ることをいう。残念無念は、その念すら見あたらないときをいう。本来の無念は覚悟そのもののことである。
誰からもとくに咎められたことがないからといって、自らに咎めがないとはかぎらない。誰しも人前では申し上げない咎めとともに生きている。ぼくには何十もの咎めが跋扈する。その跋扈と去来は止みそうもない。
さあ、これをいったいどうしたらいいか。時計の針を戻してその現場に自分を置いてみるのか。謝るべき相手に低頭してお伺いをたてにいくものか。自分の内奥の土蔵をひたすら清掃するべきか。しばしば迷ったものだ。キリスト者の「懴悔」というものが羨ましく感じられ、仏教者の「瞑目」に説得力を感じもした。
しかし、日々の体験はどういうものであれ、たえず激動なのである。どんなに小さな出来事も激動なのだ。それらは間髪をいれずに過去をつくっていく。そのうち、それらの堆積が新たな残念を生んでいく。さらにそのうち、自身の過剰や衰退がうとましくもなってくる。これではどうにも落ち着かない。自分でわざわざ落ち着かない境遇を選んでいるようだ。
過ぐる冬、西郷隆盛の書簡集をちょいちょい読んでいたとき(『西郷南州書簡集』実業之日本社・本書に一部収録)、明治8年4月5日に大山弥介に当てた手紙の、こんな文面に出会った。
明治8年といえば、西郷が下野して鹿児島に私学校をつくり、開墾に熱中していた「退耕」の時期である。かつての薩摩の盟友だった大久保利通は明治政権の中心の中心にいて、周囲から「西郷の勝手なふるまい」を問題にされ、盟友との対立を深めきっていた。そんな時期に、西郷の従弟で、のちに陸軍元帥となった大山巌に、西郷は手紙を書いていた。
フランスとプロシャのあいだに緊張が高まり、伝言が一発届いたらすぐお出掛けになられる予定とのこと、さぞお楽しみであろうと存じております。私も一緒にどうかとのことでございますが、今年は大作にとりかかりましたので、とても逃げ出すわけにはまいりません。お断り申し上げますので、左様にお含みおき下さい。
いまはまったくの百姓になりきって一心に勉強しております。はじめのころはずいぶん難渋していましたが、いまでは一日に二畝ぐらいなら鋤を使えるようになりました。もういまでは、きらずの汁で芋飯を食うのにも馴れましたから、困ることはありません。人間はどのようにでも落ち着けるものだと思いました。お笑い下さい。幸便に任せ、用事のみ。頓首。
うーん、と唸った。そうか、「今年は大作にとりかかりました」と言うのか、「とても逃げ出すわけにはまいりません」と自分に言い聞かせるのか。いや、それよりなにより、とりわけ「人間はどのようにでも落ち着けるものだと思いました」に、脳天をガツンとやられた。そして「お笑い下さい」なのである。
この文面は、その後もぼくの心のどこかにずっと引っ掛かっている。この文面が引っ掛かっている釘を、体のどこかでいつもごつんごつんと感じている。
ぼくはいまなお、「人間はどのようにでも落ち着けるものだ」という場面を、自分のなかにまったく作りきれていない。しかもそのことを、「このようにあらわせば何かの納得になるのかもしれない」という文脈として、これまでちゃんと書いてこなかった。最近になってとくにその残念を感じるのである。
では、「人間はどのようにでも落ち着けるものだ」と思った西郷は、どのように残念を捨てたのか。それとも残念を使いきったのか。
今夜は、まことに少々ながら西郷隆盛を思いたい。いつかは西郷その人のことを書かなければと思って、延ばしのばしにしていたのだから、これはいつかはそうしなければならない宿命だ。
断片的にはいろいろ感想を弾(はじ)いてきたけれど、そんなことでは西郷を掴むということはとうてい叶わない。また、多くの“西郷もの”も読み、名状しがたい感動も受けてきたけれど、それで西郷が見えたというわけにもいかない。だいたい、西郷隆盛という人物の思索と行動は日本近代の最大の謎であり、それゆえ今日の日本の根本の謎なのである。それゆえ西郷をめぐる周囲の毀誉褒貶にも甚だしいものがあった。
褒めちぎった者も多かった。勝海舟(338夜)が「世の中に本当におそろしい人物がいるものだ。横井小楠と西郷南州だ」と驚嘆し、中江兆民(405夜)が維新後のていたらくに接して「西郷さえいれば、日本はこんなふうにはならなかったろう」と嘆じ、新渡戸稲造(605夜)が「日本にリンカーンのような人物はいるのか」と問われて「それが西郷隆盛だ」と答えたという、そういう西郷隆盛像だ。
一方、反対のことを言う連中も少なくなかった。近代の歴史研究者たちは、たとえば比較的公平な目をもっていただろう井上清ですら、西郷は愛国的民族主義者だが、下級武士たちの士族大衆の代表から離れられずに矛盾に満ちた征韓論に走ったとみなした。圭室諦成(たまむろたいじょう)や石井孝は、「排他的な郷党意識」と「独善反抗的な政治理念」をもった野心家だとか、「討幕派に利用されただけの古い体質の器量」だとか断じたものだった。
西郷は、民主開明派とも保守反動とも、無私の者とも野心の者とも、そのような揺れのなかにいた人物とも思われてきた。ようするに、西郷隆盛は誰にとっても掴まえられない人物なのである。なかで坂本龍馬が、「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」と評したのが、いかにも龍馬らしく、また西郷らしかった。また内村鑑三(250夜)が『代表的日本人』の5人の筆頭に西郷をあげ、「日本の維新革命は西郷の革命であった」と言い、そのうえで次のように書いたことも西郷にふさわしい。
新日本を西郷の日本であるなどと言うつもりはありません。それは、その事業に携わった大勢の立派な人達をまちがいなく無視することになります。
たしかに西郷の同志には、多くの点で西郷に勝る人物がいました。経済革命に関していうと、西郷はおそらく無能であったでしょう。内政については、木戸や大久保のほうが精通しており、革命後の国家の安定をはかる仕事では、三条や岩倉のほうが有能でした。今日の私どもの新国家は、この人々全員がいなくては実現できなかったでありましょう。
それにもかかわらず、西郷なくしては革命が可能であったかとなると疑問であります。木戸や三条を欠いたとしても、革命はそれほど上首尾ではないにせよ、たぶん実現をみたでありましょう。
しかし必要だったのは、すべてを始動させる原動力であり、運動を作り出し、天の全能の法にもとづき運動の方向を定める、西郷隆盛の精神であったのです。
ところで、こういう西郷についてのぼくの思いの一端を、年の瀬押し詰まる今夜にしたのは、前夜のヘミングウェイの「キリマンジャロの凍豹」との関連がないのかと問われれば、そういうことはいつだってあるでしょう、つまらんことを訊くもんじゃないと答えるしかあるまい。
その、そういうことはいつだってあるでしょうを、西郷はこう詠んでいる。「狂言妄語 誰か知り得ん。仰いで天に慚(はじ)ず、況んやまた人を」。
私も人だからときに狂言も綺語も弄するが、だからといって天にも人にも慚るところはない、という意味だ。ぼくもいまのところはこの言葉で返したい。なんら慚るものはないというふうに。けれども、ぼくの場合は、それでも心の内なる咎めは残るのだ。西郷はどうだったのだろうか。
今夜とりあげる一冊は奈良本辰也と高野澄が編訳した『西郷隆盛語録』であるが(遺訓・漢詩・書簡の3部に分かれている)、以下にはときどきその引用を入れるものの、とくに本書にこだわらないで、ぼくの感想を進めよう。おびただしい参考文献については、「附記」にその一部をしるす。海音寺潮五郎の『西郷隆盛』や司馬遼太郎の『翔ぶが如く』といった大作は、今回は振り返らなかった。
西郷は二度、流罪になっている。島流しされている。まず、そのことから話してみたい。
一度目は32歳のときで、安政5年のことだった。奄美大島に流されている。その直前には自害や心中も図った。自害や心中だなんて、豪胆磊落とみえる西郷にはふさわしくないと思う向きがあるかもしれないが、それこそは人を見る目がないというものだ。西郷にこそ、そういう大胆なフラジリティがあった。
この年の7月、西郷が敬愛しきっていた薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)が急死した。時代情勢は日本中が風雲急を告げている真っ最中、ハリスが下田に着任し、黒船の対応に全力を傾注した老中阿部正弘はあっけなく39歳で病没、彦根藩の井伊直弼が大老になって、日米修好通商条約を勅許を待たずに強引に締結してしまったばかり。西郷は斉彬の極秘の使命をもって江戸詰めを命じられた矢先だった。
日本の危機である。主君の斉彬と腹心の部下の西郷は何を相談していたのか。二人して、朝廷と薩摩藩を組みつなげて幕政改革を一挙になしとげようと計画していたのである。西郷はそのための協力要請を、ひそかに松平慶永(春獄・越前)、山内豊信(容堂・土佐)、伊達宗城(宇和島)らに託すため、密書を携えていた。
ところが、井伊大老の打つ手のほうが早かった。アメリカとの開国にいちゃもんをつける松平慶永・尾張慶勝・水戸(徳川)斉昭をただちに謹慎蟄居させ、斉彬らが次期将軍に画策推挙する一橋慶喜の登城を禁止してしまった。おまけに天皇を彦根に移し、京都に藩兵を差し向けようとしているらしい。
西郷のほうは、かくなるうえは一刻も早く斉彬の上京出兵を促すしかないと踏み切った。そこで、その旨を薩摩に戻って報告し、自身は先兵隊の頭目として再び上京して、相国寺を薩摩藩兵の拠点とした。ところが、その直後のこと、斉彬急死の訃報が届いたのだ。
計画のすべてがおじゃんになった。それだけではない。師とも親とも敬愛する斉彬の死は、西郷を痛哭断腸に追いこんだ。
呆然として殉死を心にした西郷だったが、朝廷側を仕切っていた近衛忠煕(ただひろ)や近衛家の顧問格の清水寺塔頭住職の月照らに、むしろあなたこそが主君の志を継ぐべきだと何度も諌められ、なんとか殉死は踏みとどまった。けれども西郷はここで1回、あきらかに“死んだ”のである。
近衛や月照が言うには、斉彬侯が亡くなったいまや、水戸の斉昭の押し込めを解いて江戸城に迎える以外はない(斉昭を第二の斉彬に仕立てる以外はない)。それには朝廷の御沙汰を仰いで斉昭の幕政復帰を推進するしかないだろう。そう、言うのだ。
たしかにすでに梅田雲浜(うんぴん)、頼(らい)三樹三郎、梁川星巌(やながわせいがん)らの急進的な勤皇派が、秘密裏に動き出していた。吉田松陰も壮絶なテロ計画を練っていた。西郷も悲嘆をはねのけ、意を決して事態の刷新にとりくもうとするのだけれど、周囲の盛り上がりのほどには心が及ばない。
そこへまたもや井伊大老の電光石火の鉄槌が、あたかも大鉈のように下っていった。安政の大獄が始まったのだ。
梅田や頼を捕縛した司直の手は執拗で、西郷にも伸びていく。逆上した西郷は、いっそ彦根に攻めて戦死するかと思うのだが、事態は前後左右が雁字搦めになっていて、なんらの動きもとりにくい。やむなく平野国臣を伴って、月照とともに身を隠しつつ、ひとまず薩摩に帰ろうとする。男ばかりの逃避行である。月照を下関の豪商・白石正一郎の屋敷に身をひそめさせ、西郷は一人で薩摩に戻って月照の庇護を申し出た。
しかし薩摩の地は名君斉彬を失って、実権は島津久光の手に移っていた。久光は悪女の名をほしいままにしたお由良が生んだ子で、そのお由良派が長らく主君の座を虎視眈々と狙っていた人物である(364夜『南国太平記』参照)。お由良が呪詛調伏をしてまでも斉彬を亡きものにしようとしていたのは有名な話、むろん西郷はそういう久光を心底嫌っていた(海音寺潮五郎は斉彬が久光・お由良に毒殺されたという仮説をたてている)。
一方、久光のほうは、面と向かって先代藩主お気に入りの西郷を排除できないものの、月照などという坊主は関係がない。とうてい薩摩には入れられないとして、西郷に月照の放逐を厳命した。
これで西郷は参ってしまった。どうにも窮した。すでに月照は下関から薩摩に向かっている。こうなれば月照もろとも死ぬしかないと覚悟して、夜陰の錦江湾に数人で舟を出すと、二人は乗合の者が寝静まるのを待って、ひしと抱き合い入水した。二人の辞世がのこされている。
さつまの瀬戸に身は沈むとも(中将坊月照)
ふたつなき道にこの身を捨て小舟
波立たばとて 風吹けばとて(西郷吉之助)
運命はいたずらなものだ。このとき月照は絶命し、西郷は間一髪で船頭らに助けられた。戻ってみると税所篤、大久保一蔵(利通)らが西郷を助けた。
しかしこのとき、西郷は永遠の「土中の死骨」となったのである。この言葉は西郷自身のもので、以来、西郷は月照との共死(ともじに)を遂げられなかったことをずっと悔いつづけている。残念は捨てられなかったのだ。西郷を語るにあたっては、この「未遂の死」のことを、この咎めのことを、放置してはおけない。
河上肇の『貧乏物語』に、清水寺にある西郷の詩碑を見るくだりがある(ぼくもしばしば眺めてきた)。月照を思う西郷の悔恨がうたわれている。河上は「西郷の、詩碑仰がむと今日もまた、五条坂を登り行くなり」と書いて、何度も西郷隆盛の万感を偲ぶためにそこを訪れたと告白した。
豈に図らんや 波上再生の縁
頭(こうべ)を回(めぐ)らせば 十有余年の夢
空しく幽明を隔てて 墓前に哭(こく)す
こうして、冒頭に書いた西郷の最初の島流しになる。
薩摩藩は、西郷を奄美大島に流したのだ。幕府の目を憚ったのは言うまでもない。いや、そういう面子だけで西郷は流された。どんな事態であれ、面子には弱い西郷である。
奄美大島での流人西郷の日々は、実に3年におよんだ。そのあいだ、アイカナ(愛加那)という娘を島妻とし、アイカナは菊次郎という男子を身ごもった。西郷は約800冊の書籍を日がな読破し、島の子には手習いをさせ、ときにサトウキビの年貢未納者の解決に乗り出しもした。
このとき、おそらくは「敬天愛人」の思想が育まれたかと思う。少年期より朱子の『近思録』や王陽明の『伝習録』を読み耽り(996夜)、「天命」を知識にもっていた西郷であるけれど、主君の急死、二人しての入水、自分だけの助命、島流しの宿命などを3年にわたって直撃されてみれば、のちの西郷隆盛の大半はここで醸成されたとみなしていいだろう。が、これらはすべて「咎め」から出所したものだったのだ。「残念」との闘いだった。
かくて「敬天愛人」とは、裏を返せば「土中の死骨」なのである。ちなみにこのときの西郷は「菊地源吾」という変名になっている。幕府を憚り、藩内を憚ったからだった。
西郷の2度目の島流しは、奄美大島よりさらに南の徳之島と沖永良部島である。今度の天命の事情は、こういうものだ。
西郷が奄美にいたあいだに、安政の大獄がすすみ、西郷が信頼していた梅田、頼、松陰、橋本左内らが処刑された。とくに左内は西郷が最も信頼していた思想と行動の持ち主で、西郷は城山で死ぬ間際まで左内の書簡を大切にもっていたほどだった。
そういう師や旧友や心友を次々に失うなか、時代の歯車のほうはさらに狂ったように加速した。
まず、井伊直弼が桜田門外に暗殺された。日本の針は大揺れだ。これで一橋慶喜を担ぎ出す賽の目がまた出てきた。久光はこの機に乗じて、薩摩の権勢を中央に見せたかった。しかし藩内の意見がいっこうにまとまらない。そこで、ここはやっぱり西郷の出番だろうという内外の進言で、西郷は文久2年1月に奄美大島から呼び戻された。
呼び戻されたはいいが、西郷は久光の言うことなど聞きたくはない。大久保がしきりに仲をとりなすのだが、一人勝手に温泉に籠ってしまった(なぜ西郷がこのとき脱藩しなかったかということは、議論の余地がある問題だが、一言でいえば西郷にとって薩摩は「日本という国」あるいは「日本という方法」そのものだったのだ。西郷は“日本”を脱藩するわけにはいかなかったのだ)。
執拗に西郷は出番を要求される。藩命であればやむをえないし、薩摩のためには働かなければならない(そういう男だった)。
西郷は、幕府と朝廷の両方に圧力をかけるために久光が大軍を率いて上京するという仕事を、結局は先発隊として引き受けた。このとき久光は、西郷に下関で準備をして、自分が行くまで待っていろと厳重に命じた。
西郷は村田新八と鹿児島を出た。下関ではまたもや白石正一郎の屋敷に入った。ところが久々に天下の街道を動いてみると、事態がただならない雰囲気であることがすぐ見てとれた。討幕の兵を挙げようとする志士たちが隠密裡に陸続と京都に集まっている。西郷は久光との約束を破って大坂に入り、これらが暴挙とならないための手を打ち始めた。
久光は激怒した。自分の命令に背くとは何事かと怒った。打ち首にしたいのはやまやまだが、大久保の制止もあって流罪を下した。
こうして西郷は6月に徳之島に送られ、そこで2カ月滞在させられ、さらに南の沖永良部島に流島されたのだ。36歳のときだ。若い村田新八のほうは鬼界ヶ島に流された。
アイカナが2歳半の菊次郎と生まれたばかりの菊草(女児)を連れてやってきたというものの、絶海の孤島での日々は壮絶である。わずか2坪の牢格子で囲った部屋だった。台風が直撃もする。
西郷はこの孤島で、久光が奈良原喜八郎らに命じて有馬新七らの過激派を伏見寺田屋に襲わせたことを知った。また、寺田屋事件に連座した田中河内介が、薩摩に船送りされる途中に親子ともども惨殺されたとも聞いた。
田中河内介はぼくが以前から気になっていた人物で、大納言の中山忠能(ただやす)の家人・田中近江介の養子になって、禁裏の習俗いっさいに通じていた。幼年時代の明治天皇の養育係にもなっている。その田中と組んでいたのが、例の清河八郎である(のちに新徴組で近藤勇・土方歳三と対立し、暗殺された)。
田中や清河がこのとき何を企んでいたかというと、久光の上洛にあわせて、第1には江戸の同志が老中安藤信正(井伊大老の後継者)を暗殺し、第2には京都の志士が九条関白を殺し、それを合図に京都所司代を攻撃する。ついで第3に薩摩と長州の軍勢を結んで、天皇(孝明天皇)の勅使をとって江戸を攻撃しようというのだ(6年後、このシナリオが実行されたわけである)。
けれども、久光が腰抜けで、西郷すら動かせないことが見えてきた。志士たちはそれぞれ藩邸を抜け出して、事の展開を鳩首謀議するために寺田屋に集まった。集まった志士40余名のうち、30余名が薩摩藩士。そこを久光の命をうけた奈良原喜八郎や大山格之助が襲撃した。薩摩人どうしの切り合いである。そこには西郷の弟の慎吾も、大山巌も入っていた(奈良原はのちに生麦事件でイギリス人を一刀両断した男でもある)。
西郷は、このような状況につくづく落胆した。世間も島津久光がいるかぎりは薩摩はあてにならないと噂した。時代が長州への期待に傾いたのはこのときからである。それが文久3年8月のクーデターまで続く(長州もここで増長して、幕府の反撃を食らい、薩摩・長州がこうして一敗地にまみれたのちに、高杉の長州、龍馬の土佐、そして薩摩の西郷、幕閣の海舟の最終レースになるわけである)。
32歳と36歳のときの、二度にわたる西郷の島流しにふれた。
なかでも沖永良部島の住まいは座敷牢に近く、どんな矜持も自負も打ち砕くものだったようだ。西郷もさすがに「衰死」を覚悟したという。しかし覚悟して、なお次のような漢詩を書いていた。
人生の浮沈は 晦明に似たり
たとい光を回(めぐ)らさざるも 葵は日に向かう
若(も)し運を開くなくとも 意は誠を推(お)す
洛陽の知己 みな鬼となり 南島の俘囚 ひとり生を盗む
生死なんぞ疑わん 天の賦与なるを
願わくば魂魄を留めて 皇城を護らん
朝に上からの寵愛があるかとおもえば、夕刻には生き埋めにされる者がいる。人生は陰陽の明暗が頻繁にいきかう晦明のようなものだ。しかし葵だって光が射さなくとも花を咲かせることがある。一刻とて運が悪いとは思うべきじゃない。どういう意志をもつかというだけだ。
都の友人たちはみんな死に、孤島の囚人がこうしておめおめ生きているのだから、私はもはやいつ死んだってかまわないという気分になっている。それならせめてこの魂魄が日本の皇城を守ることを希いたい。
だいたいそういう意味の漢詩だ。こういう詩を西郷が綴ったのには、むろん背景も理由もある。直近の引き金は沖永良部の流人に川口雪蓬という静かな陽明学をよくする者がいて、この人物と西郷が心を通わせた。
雪蓬は、西郷が西南戦争によって非業の死をとげたのちも妻子の世話をした人物である。いわゆる「西郷墓地」の碑文も刻んだ。その雪蓬と、西郷は孤島にいて佐藤一斎の『言志四録』などの一字一句を読み致していった。
ふりかえってすでに少年期、西郷は陽明学徒になっていた。少年吉之助の純乎たる精神を育んだのは、一に方限(ほうぎり)、すなわち「郷中」(ごちゅう)の健児社に入っていたこと、二に福昌寺の無賛のもとに参禅できたこと、三に何人もの陽明学徒に学べたことである。
とくに陽明学は、大久保一蔵の父が陽明学・禅学・山崎闇斎門の儒学を修めてこれらを伝え、有馬一郎が朱子の『近思録』を読み聞かせて教えたうえで、伊藤茂右衛門によって王陽明の『伝習録』を学んだのが大きかった。伊藤は都城に住む荒川秀山(佐藤一斎の門下)の直弟子だ。
これで「知行合一」(ちこうごういつ)に開眼した西郷は、すぐに大塩平八郎の『洗心洞箚記』を読んで感銘し、つづいて王陽明の先駆をなした陸象山や陳龍川にも埋没していった。陳龍川の『龍川文集』は奄美大島にも沖永良部島にも、持っていっている。
その後、西郷は佐藤一斎の『言志四録』も読んだ。だから沖永良部で川口雪蓬と一斎を読み解いていったのには、存分な修養背景があったのだ。
ちなみに西郷の有名な「敬天愛人」の四文字は、『書経』のなかの言葉であるけれど、これをしきりに心に謳うようになったのは、ぼくは最初の流刑のときの思索によるものと思っている。そうであれば、これはまた同時に、陳龍川の「畏天愛民」とも呼応していたのであろうとも思う。
ついでながら、西郷は沖永良部を脱してからはいよいよ幕末維新の悠揚迫らぬ中心人物の一人となるのだが、そういうなかでも陽明学への研鑽を怠らなかった。たとえば京都にいるときは、必ず春日潜庵を訪れた。村田新八にも潜庵に教えを請うように勧めている。
このあとの西郷がどのように幕末を王政復古に導いていったのかは、すでによく知られていることだ。
史実的に決定的なのは、慶応1年9月に列侯会議を計画したこと、慶応2年正月に小松帯刀の別邸で木戸孝允・坂本龍馬と会見して薩長同盟を結んだこと、慶応3年正月に薩摩・土佐・越前・宇和島の四藩連合を建言したこと、同じ6月に後藤象二郎・坂本龍馬と薩土盟約を結んだこと、同12月に王政復古の論告発布に同席したこと、明治1年3月に高輪薩摩邸で勝海舟と話して江戸城攻撃を中止したことなどだろう。
詳しくいえばもっとさまざまなことが西郷の周囲に渦巻いているけれど、あの大政奉還から戊辰戦争におよんだ激動に、もし西郷がいなかったならば日本がどれほどのことをなしえたかは、わからない。このことは、内村鑑三が『代表的日本人』に言うとおりだ。
が、もうひとつ別の見方がありうることも、重視しておきたい。史実では、誰が何をなしたかということが大きくも、細かくも語られる。しかし、「何をしなかったか」ということもれっきとした歴史なのである。
たとえば、幕末のラストパフォーマンスのなかで、西郷は慶応1年3月に水戸天狗党の処分の引き受けをしなかった。慶応2年9月には大目付に推挙されたのだが、翌月これを返上した。明治1年9月には庄内藩に処分をおこなわないようにした。
こういうことがいくらもあったのだ。西郷の行動や決断には、しばしば唐突でありながら深甚な「負」が動いたのだ。もっとぼくが感じていることを直截にいえば、西郷はもともと「日本の負」「近代の負」を背負った男だったのである。
このこと、とくに明治政府における大久保利通との対比によくあらわれる。よくあらわれるどころではない。大久保と西郷のちがいこそ、最後の最後になって、西郷の何度目かの死をもたらした。
ごく最近、ぼくは『日本という方法』をNHK出版から上梓した。もとはNHKの人間講座8回分であるが、3割ほど書きたした。その冒頭に、こういうことを刳り込んで書いておいた。
以前に、ある大学(東大のこと)で日韓関係の話をしたとき、「なぜ西郷隆盛が征韓論を唱えたのかの説明がつかないかぎり、日本の近現代史は何も解けないですよ」と、その場の教授たちに言ったという話だ。そして、ぼくもまだ征韓論をうまく説明できないでいると白状しておいた。
では、この征韓論をめぐる数行は、『日本という方法』全体のちょっとした暗示になっていて、それについては本の中では何の説明もしなかったのだが、実は西郷隆盛という生き方あるいは死に方に、「日本という方法」の最も難解で、最もナイーブな精神が体現されているということを言っておきたかったのである。
では、いったい征韓論とは何だったかというに、征韓論という用語そのものがその実態から崩落しているような問題なのである。ぼくなりの見方をかいつまんで書いておきたい。
もともとの征韓論は、強行派の木戸孝允と大村益次郎が言い出していた。長州出身の二人は吉田松陰の遺志をつぐという気分で、国内の鬱勃としていた空気を国外にディスチャージするものとして、ひどい話だが、朝鮮半島を選んでいた。この段階の征韓論には板垣退助も江藤新平も賛同していた。
なぜこんな議論が噴出したのかといえば、二つの理由がある。一つには、王政復古とはいえ、日本の各地の政治と経済が早々から腐っていたからだった。『夜明け前』の青山半蔵の嘆息ではないが、どこにも王政復古の清新な治世などなかったのである。明治3年7月に、そのことを端的に告発する事件がおきた。横山正太郎という薩摩藩士(森有礼の兄)が、諌書(かんしょ)を集議院に投じたのち、その正院前で割腹自殺をとげたのだ。
輔相ノ大任ハ侈靡驕奢ニ溺レ、上ハ調停ヲ暗誘シテ下ハ飢餓を察してイナイ。官吏ハ外ニ虚飾ヲ張ッテ内ニ名利ヲ求メ、万民ハ狐疑ヲ抱イテ方向ヲ見失ッテテイル云々という内容だった。
横山正太郎は西郷が目をかけてきた弟子である。その弟子が諫死した。その諫書に外国、たとえば朝鮮が無礼をはたらくといっても、それはわが国に徳政がないからだという批判がひそんでいた。
西郷は心を傷め、明治の日本の行く末を案じた。このあたりから征韓論をめぐる立場が、微妙に割れていく。
少々、西郷の話から離れるが、実は、当時の日本人の感情を逆撫でする「外国による3つの無礼」があった。
(1)は、いま書いたばかりの朝鮮の無礼である。日本で徳川幕府が倒れ、統治の大権が明治天皇を中心とする政府に移ったので、このことを朝鮮に告知したのだが、朝鮮は国書の文字の使い方などに文句をつけ、これを認めなかった。
当時の朝鮮は鎖国体制にいて、日本の政権交代を認めず、交誼を要請する日本政府の書面も受け付けなかった。おまけに、その拒否の仕方が無礼きわまりないというものだ。もう少し詳しいことは、このあとに書く。
(2)は台湾問題である。琉球の船が難破して台湾に辿り着いたとき、その乗組員が殺害された(牡丹社の住民によって54人が殺害されたので牡丹社事件という)。台湾を領有しているのは清国だから、日本政府は清国に抗議した。清は台湾は「化外の地」だといって交渉に応じない。そこで日本側に征台論と征清論の火種ができた。
もっとも、この征台論にはもうひとつの背景がある。もともと琉球は薩摩藩の領有地で、かつ独自の王国でもあって、中国には朝貢儀礼を欠かしていない。明治政府は廃藩置県で琉球を鹿児島の管轄にし、清国との関係を切断して、名実ともに日本の領有を確立しようとしていた。このとき牡丹社事件がおきたので、これ機会に琉球を日本国と認めさせようともしていたのだった。
(3)は樺太問題で、これも説明すると長くなるのではしょって言うが、もともと樺太は間宮林蔵このかた、日本が苦心に苦心を重ねて経営してきた。安政年間には越前の大野藩が藩をあげて入植し、文久1年には幕府(正使は竹内保徳)はロシアと交渉して北緯50度をもって折半する案を出した。ロシアが北緯48度を主張したので、しばらく両国の共有地とすることになった。
しかしロシアがしだいに侵犯をくりかえすので、明治4年から副島種臣がアメリカを仲介させて交渉に入った。ところが北海道開拓を担当した黒田清隆が建議で「樺太放棄説」を提案し、それをロシアに見透かされて、日本人漁民の操業が妨害されるようになった。これが長らく尾を引いて、のちの樺太・千島交換問題(アメリカはこれをタイとエビとの交換だと笑った)にまで、さらには今日の北方領土問題まで発展するのである。
こういう「無礼」が、明治初頭の日本を悩ましていたことは事実で、今日の北朝鮮拉致問題や韓国竹島問題や中国海底油田問題に通じるものがある。とくに朝鮮との関係はしだいに異様なものになりつつあった。征韓論が広まるのもゆえなきことではあった。
しかしながら、そのころの朝鮮に甚だしい「無礼」があったかどうかといえば、これはきわめて曖昧なのだ。ぼくは朝鮮側の「無礼」はほとんど外交問題にならないと見ている。
ここで征韓論の矛盾を説明するために、順にこの問題の背景を語っておくことにする。まず征韓論の「韓」とは正確には李氏朝鮮(李朝)のことで、韓国ではない(のちの日韓併合のときの「韓」は、1897年に国名を変えた大韓帝国のことをさす)。李氏朝鮮は14世紀以来の文人官僚主義が王をいただく王朝国家だった。
官僚には文官(文班)と武官(武班)がいて、あわせて両班(ヤンパン)というのだが、武官はたいした力がなく、李氏朝鮮王国は極端な文治主義と中央集権制をとっていた。いいかえれば、朝鮮には日本のような武人が支配する封建制国家の歴史が、ついぞなかったのである。武士団が成長して領土を拡張して大名領国となるという歴史も、その大名が戦国大名として競いあって天下統一をはかることもなかった。そのぶん朝鮮史では、「宗族」という単位があって、「血」を紐帯とする小集団による結束でつながっていた(父系血族による)。
それゆえ李氏朝鮮は、しだいに両班の増長と腐敗にまみれていった。京城大学の四方博によると、1690年代の両班は人口の7・4パーセントだったのが、1858年にはなんと48パーセントにも膨張していた。人口の半分が官僚だったのだ。こんな国もめずらしい。
これでは支配層間に紛争が絶えない。国家としても麻痺寸前に陥っていた。そこへ明治維新がおこる5年前の1863年のこと、25代朝鮮国王の哲宗が後嗣のないままに死亡した。
李朝では後嗣のないときは、王位継承者の指名権は王妃に移る。大妃(王父の妃)が生存していれば、その大妃に指名権があった。哲宗には大妃(趙大妃)がいて、趙大妃は興宣君の第2王子の命福を指名した。これが26代高宗だ。ただし高宗は11歳だったので、趙大妃が摂政となり、政権の実務は高宗の父の興宣君にゆだねた。
生存する国王の父は「大院君」といった。興宣大院君はそれまで「勢道政治」(王の外戚の権勢をもって政治を支配する)をほしいままにしていた安東金一族を中央から追放して、キリスト教を排撃し、徹底した鎖国攘夷政策をとった。とくに「洋夷」を撃退したかった。実際にも1865年にロシア船舶が、翌年にはドイツ船舶が来航して通商を求めたが、いずれも排斥した。なかでもアメリカのゼネラル・シャーマン号が強引に大同江をさかのぼって平壌に入って通商を求めたときは、硫黄と火薬を積んだ小船をぶつけて炎上させ、乗組員の大半を殺害してしまった。さらにフランスも7艦の軍艦をもって江華島に上陸して略奪まがいの攻撃をしかけたが、これをも撃退した。
このとき、日本が明治維新を迎えたのだ。明治元年、対馬藩家老の樋口鉄四郎が釜山に入って、明治新政府の樹立を通告したのも、このときである。
しかし、大院君の政府はその国書にある「皇租、皇上、奉勅」といった言葉が使われていること、旧例と異なる署名・印款が使われていることに故意というほどの疑問を呈し、これをつっぱねた。
李朝からすれば「皇」は中国皇帝のみに、「勅」も中国皇帝の詔勅のことだったのである。朝鮮王は中国皇帝の臣下ではあっても、明治日本の臣下ではないというのである。
このような朝鮮の反応を「無礼」だけでは片付けられない。大院君は「衛正斥邪」を掲げて、小「中華主義」の只中にいた。「正」とは儒教のことを、「邪」はそれ以外の考え方や体制をいう。だいたいは日本の尊王攘夷に相当するが、朝鮮では中華文明に所属しない社会文化を斥邪したわけだった。このため朝鮮では日本の天皇をそうとは呼ばず、ずっと「日王」と呼んできた(天皇という呼称を使うようになったのは金大中政権になってからだ)。
そうだとすれば、征韓論とは、本来は朝鮮の小「中華主義」を打開するというものだったはずである。
しかしここで朝鮮半島の事情が大きく変化する。大院君が失脚して閔氏(みんし)の政権が登場した。1873年、明治6年のことだった(ついでに言っておくが、列強がこれ以上、朝鮮に開国を求めなかったのは、日本にくらべて朝鮮半島の需要がかなり低く見積もられていたせいだった)。
さて、話を戻して、このような状況を明治政府が裁断するに、当事者中央の事情はまったくお粗末なものだった。
だいたい明治4年7月に、新政府が懸案の廃藩置県を断行してやっと日本のほぼ全土を直接統治にしたまではよかったが、その4カ月後の11月には、特命全権大使の岩倉具視を筆頭とした総勢50余名の、いわゆる岩倉使節団が、アメリカとヨーロッパに20カ月にわたって出向いてしまっていた。アメリカでは少弁務使の森有礼が、イギリスでは大弁務使の寺島宗則が待っていた。
名目はあった。維新政府はその当初から不平等条約を撤廃するという悲願をもっていた。それはそうなのだが、岩倉使節団の実質的な目的は各条約国に「聘門ノ礼」を修めること、つまり親善訪問をすることにすぎなかった。悲願の条約改正については、「我国ノ開化未ダ普ネカラズ」なので「漸次ニ政俗ヲ革メ」ようという、まことにお粗末なものだった。
この程度の親善調査に岩倉全権大使のもと、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳(外務)が副使となり、そこに佐々木高行(司法)らがずらりと加わったのだから、これは政府の中身が半分以上棚上げになっていたといっていい。
そこで、留守をあずかる参議の4人が国政と当面のアジア外交・ロシア外交を切り盛りすることになる。西郷・大隈重信・板垣退助・江藤新平だ。留守政府とよばれた。今夜はそのあたりの詳しい活動を省略するが、とくに江藤の果断活躍と西郷の泰然自若がめざましい。
では、肝心の問題だ。西郷は征韓論をどのように見ていたのか。
従来は、西郷こそ征韓論の積極的な主唱者だという見方がされてきた。たしかに西郷が征韓論をめぐる独自の見解をもっていなかった、ということはない。明治5年8月に、板垣退助と語らって西郷腹心の別府晋介・北村長兵衛を朝鮮に派遣し、池上四郎・武市正幹・彭城中平を満州に派遣していた。
これはあきらかに情報活動で、その後に「満州視察復命書」をもたらした。そこには朝鮮は脆弱な国なので派兵すればすぐに片付くと報告されていた。もっとも、このような報告を、西郷は鵜呑みにしたのではなかった。むしろ、かえって慎重になっていた。
明治6年6月12日、征韓論が初めて朝議にのぼった。外務卿の副島は清国に特派されていたので、外務少輔の上野景範が代わり、閣議には太政大臣の三条実美、参議の西郷、板垣、大隈、大木喬任、後藤象二郎、江藤が参加した。上野は「このうえは暴戻(ぼうれい)な朝鮮政府に対して、居留民保護のため陸軍を若干、軍艦を幾艘か釜山に派遣して、いつでも援軍が送れるように準備する」という外務省案を提示し、板垣がこれに賛同した。
が、西郷は「いきなり兵隊を送るのは朝鮮官民の疑惑を招く。よろしく責任ある全権大使を送って公理公道をもって説得するのがいい」と反対した。三条が「全権大使を出すことにして、その大使が兵を率いてはどうか」という折衷案を出した。が、西郷はまたも反対する。「大使たるものは武装せず、しかも礼装をととのえるべきだ」。
板垣は前言を翻して西郷に同意、後藤・江藤もこれに同調した。そこへ大隈が、これは国家の重大事であるから岩倉大使の一行が帰るのを待つべきだと発言した、ここで西郷が声を荒げた、「一国の政府が国家の大事を閣議で決定できないなら、正院(内閣にあたる)の門を閉じなさい」。そして、こう言い放ったのだ。「この全権大使には、自分を任命してほしい」。
西郷が征韓・侵略・戦役のために大使を申し出たのではないだろうことは、ほぼ明白だ。しかし、明治6年の日本は、そのようには事態を解釈できなかった。曲解につぐ曲解が渦巻いた。
40日後、副島が清国から戻って、中国が朝鮮の無礼には責任をとらないし、事態は放任するようだと報告して、日本が朝鮮を攻めても清は干渉しないだろうという結論を得たと言った。
そこへ木戸、大久保が帰ってきた。西郷はさっそく二人に朝鮮大使の件を持ち出すのだが、二人は決断ができない(海外での条約改正の成果の第一歩も踏み出せなかったことに忸怩していた)。それでも閣議は西郷の派遣を内定し、三条が天皇にこれを奏上した。天皇は「朝鮮のことは西郷に任せよ」と内旨した。
こうしたところに岩倉や伊藤が帰朝した。顔が出揃った明治政府は、ここで征韓論(というより西郷を大使として大院君の朝鮮に派遣するかどうか)をめぐって、真っ二つに割れた。
ここからがいわゆる「明治6年の政変」になる。西郷下野のドラマのスタートだ。終局は明治10年の西南戦争になっていく。
その4年間、そこには実にさまざまな事件とその裏面での暗躍が交錯するのだが、そういう事情をいちいち書くのは、うざったい。ただ10月14日の決定的な決裂を生んだ閣議だけについてふれておく。
10月14日の正院の閣議は使節団が帰朝して最初の閣議だった。太政大臣の三条、右大臣の岩倉、参議の西郷・板垣・江藤・大隈・後藤・大木・大久保・副島の、以上10人が出席した。木戸は欠席した。
実は岩倉は、この閣議にあわよくば西郷を外そうと画策して、当日の朝に西郷に急使をたてのだが、西郷がこれを拒否した。そういう前哨のあと、閣議では岩倉が口火をきって、「樺太におけるロシア人の暴行、台湾における生蕃の凶暴、朝鮮政府の無礼、この3件はいずれも重大だが、とくに樺太が焦眉の急務だ」と言った。
西郷はただちに反駁して、「朝鮮問題は国際上の葛藤で、皇威の隆否、国権の消長にかかわっている」と一蹴した。
大久保が西郷に反論をした。大久保は朝鮮問題を急げば戦争になりかねないという主旨である。西郷はその戦争をおこさぬための派遣交渉だという主旨を貫いた。二人は真っ向から対立したのだが、ここは大久保が西郷の主旨を理解できなかったと見るほうがいい。通説では、大久保が内治を重視し、西郷が外征を主張したとなっているが、そうではないだろう。
ついで板垣と副島が、大久保に「内治を整えるというが、どのくらいかかるのか」と詰め寄り、大久保が50日ほどかかると答えると、さらに板垣が「その見込みがつけば大使派遣に賛成か」と尋ねると、副島が「仮にそれを50日と決めて、その後に大使派遣に同意するとしてはどうか」という中間案を出した。
けれども西郷は譲らなかったのだ。「すでに延ばせるだけ延ばした。それでは時期を逸するだけではないか」。
司馬遼太郎の『翔ぶが如く』では、大久保が「拙者どもが不在のあいだは国家の大事は決めてはならんとうことで御座した」と言うと、西郷が「左様な約束は知り申はん」、大久保が「そりゃいまになっせえ、卑怯じゃごわはんか」と反発し、そこで西郷が「お控えやんせ!」と一喝したとなっている。
閣議は翌日にも開かれたが、西郷は自分の言いたいことは述べたからと出てこなかった。
西郷に代わって主旨を加えたのは板垣と副島であるが、議論は平行線のままになる。休憩中に三条と岩倉が密談した。その結果、再開後の閣議の冒頭で、三条が「いま大使派遣を否決すれば西郷参議は辞職する。同君の進退は国家の安危にかかわるから、同君の説を尊重できないか」というふうに持ち出した。
岩倉は黙っていた。ここでキレたのが大久保だ。翌日、大久保は辞表を提出、これに続いて木戸・大隈・大木も辞表を出した。
こうして3日目の閣議となって、いよいよすべてを決することになるのだが、今度は岩倉がぬけぬけと欠席をする。三条は右大臣(岩倉)がいないでは決議ができないと逃げる。そして必ず明日には決議すると約束した。西郷は渋々呑んだ。
このとき西郷は「朝鮮派遣施設決定始末」という自分の見方を綴った文書を用意していた。そこでこれを清書して、翌日に三条に届けた。三条はそれを岩倉のところに持っていったのだが、そこで岩倉が面妖にも翻った。三条に「私は降りる」と辞意を示したのだ。昨日の休憩中に密談した内容をくつがえし、三条一人に全責任を押し付けたといっていいだろう。
いっさいを一人で決断せざるをえなくなった三条は、このとき錯乱状態に入ったといわれる。まだ37歳そこそこだ。
その真相がどうかはわからないが、この事態を察知したのが伊藤博文だった。三条が理性を失っているという理由で、ここに岩倉を太政大臣代理の職につけ、岩倉の決裁でいっさいを解決してしまおうという画策だった。
天皇が三条の病状を見舞うということにして、そこで天皇が岩倉を太政大臣代理に命じるというシナリオだ。これがまんまと図に当たった。岩倉はまるでこれらの展開を読んでいたかのように、すばやく各自との密議を手配して、大久保にもこれを告げた。
西郷は不穏な空気を感じていた。事態の急転を知った江藤らは憤然としていたが、西郷はもはや日本の命運が怪しくなったことを呑みこみ、「長袖、ついに国家の大事を誤る」と呟くだけだった。
10月23日、西郷は参議、近衛都督、陸軍大将のいずれの職についての辞表を提出する。板垣・江藤・後藤・副島も連署しようとしたが、西郷がそれでは徒党を組んだようだと言ったので、翌日に別々に辞表を出した。5人の参議はいずれも下野してしまったのだ。
よく知られた経緯の、いまだ十全には理解されていない部分をあえて書きすぎたかもしれない。
いずれにしても明治6年の政変は、その後の明治国家の命運を分けた。大久保はこのあと明治国家の政権の中央に坐り、板垣らの4参議は政変の2カ月後に「民撰議員設立建白書」を起草して、自由民権運動を起爆していった。しかし、西郷は翌11月にはさっさと鹿児島に帰村してしまった。大西郷の決然たる「退耕」である。「残念」がなかったはずはない。
「千夜千冊」としては、久々に長くなってしまった。これまでもそうだったが、年末年始、ぼくは何事かをいささか長く書く癖がある。自分の感情の奥にひそむ何事かを、誰かの著書に託して覗く癖がある。今夜もそうなってきたのだが、ここで西郷隆盛についての感想を終えるのは、まだちょっと早い。
ここからのち、大久保が西郷の鹿児島における「退耕」を不審に思って、ついに西郷を攻める西南戦争に至るという明治国家最大の矛盾の事情を、いまさらあれこれ書きたいのではない。「人間はどのようにでも落ち着けるものだと思いました。お笑い下さい」と綴った、あの残念を超える胸中と、それにしてはべらぼうな覚悟と愉快をもって鹿児島を西郷王国にしかねなかった計画について、その魂魄の一端にのみふれておきたいのだ。
その前に、一篇の詩を紹介しておきたい。読めばすべてが伝わるだろうと思う。こういうものだ。
墨よりも黒い
私に一片の心がある
雪よりも白い
髪は断ち切ることができても
心は断ち切れまい
かつて、ぼくはこの詩を『新・代表的日本人』というビデオ・シリーズのなかで朗読した。西郷は明治維新の「負」をいっさい背負ったのですと言って、この詩を読んだのだが、リハーサルもあり、カメラも回り、20人近いスタッフがスタジオを埋めていたにもかかわらず、途中で声が途切れ、涙ぐんでしまった。
さっそくテイク2を申し出たけれど、ディレクターもスタッフも言うことを聞いてくれなかった。いまでは、この判断をありがたく思っている。その場面を見ると、ああ、これがぼくの西郷論なんだと感じられるからだ。
ぼくの西郷論が「髪は断ち切ることができても、心は断ち切れまい」という一節を読む震える声だけだというのでは、あまりに情けないが、まあ、そういうこともあるものだ。なんならビデオを入手して、ご覧いただきたい。
が、「千夜千冊」のほうはそれではすまない。もう少し、西郷の「どのようにでも落ち着けるものだと思いました」の内実を、披露しておきたい。
話はかんたんである。西郷が鹿児島に帰って何をしたかということだ。西郷が鹿児島でしたことは、次の漢詩にあらわれている。
絃声 車響 夢魂おどろく
垢塵(こうじん)たえず 衣裳の汚(けが)るるに
村舎 避け来たって 身世軽し
この「身世軽し」と嘯けたのが、鹿児島の西郷なのだ。しかし、そうなったがゆえに、西郷は何事かの継承と伝達のために、心底、遊べた。それが「私学校」というものだった。
私学校は、早くも明治7年6月に着手されている。故山に帰ってまだ半年。城山のふもとにある旧藩の厩跡を本校とし、やがて城下に12の分校を、郷村に124の分校を作った。加えてさらに砲隊学校、幼年学校、吉野開墾社などを設けた。
私学校本校の生徒は歩兵出身者たちで、500名ほどになった。午前に兵学と史学を集中して学び、あとは自由にさせた。銃隊学校とも呼ばれた。綱領に「道を同じふし、義あい協(かな)ふを以て、暗に聚合(しゅうごう)せり」、「道義に於ては、一身を顧みず、必ず踏み行ふべき事」、さらに「王を尊び、民を憐むは学問の本旨、然ればすなわち天理を極め、人民の義務に臨みては、一向に難に当り、一統の儀をあい立つべき事」などとある。
西郷はこういうことを青年に伝唱させたのだ。不特定多数の青年に対してではない。西郷の知る特定少数に対してだ。
砲隊学校のほうは私学校の東隣に構えて、砲隊約200名を学ばせた。この費用は県令(県知事)の大山綱良が薩摩藩時代の余裕金から充当した。ちなみに最近の日本では岐阜県をはじめ、県庁の「裏金」がいろいろ問題になっていたが、そういうものは貯めたならば、最も高尚なることか、最も厚情なることかに一挙に費うべきなのである。
幼年学校は島津斉彬を祀る照国神社の前につくられ、生徒100名ほどを擁した。陸軍士官の養成を眼目とした。これが“賞典学校”ともいわれるのは、西郷、吉井友定、大山綱良、桐野利秋らが戊辰戦争のときの恩賞典禄のすべてを、学校設立のために拠出したからだった。前身は、西郷が江戸詰めのときに永田町に設立した「集義塾」である。
吉野開墾社は城下の東北の吉野村に設立されたもので、農業学校にあたる。昼間は耕作に励み、夜は学問に耽った。150人ほどがここに活動した。草堂の額には陳龍川の一節を西郷が揮毫した。「一世の智勇を推倒し、万古の心胸を開拓す」というものだ。
西郷が私学校を広げているとき、明治7年2月に佐賀では江藤新平と島義勇が「佐賀の乱」をおこした。征韓党と憂国党が合体した挙兵だった。大久保はただちに鎮圧に乗り出し、江藤の首をさらした。
明治9年10月には、熊本の太田黒伴雄らの敬神党が政府の欧化主義に反旗をひるがえして、熊本鎮台・県庁を襲撃し、倒れた。「神風連の乱」である。これもたった1日で鎮圧された。その2日後、秋月では宮崎車嗣助・今村百八郎らが征韓派の400人をもって決起したが、福岡鎮台の兵が出動すると、たちまち瓦解した。「秋月の乱」である。
その翌日、長州の前原一誠は大久保の放った密偵に煽られて、殉国軍500名を集めて山口県庁を襲撃しようとした。が、あらかじめ察知されて萩城で一両日を闘って、壊滅した。「萩の乱」となった。
これらの勃然たる反乱は、いずれも表面上は征韓派の決起、あるいは不平分子の逆上、もしくは西郷隆盛との連携協調と見えた。
しかし、西郷はこれらの反乱に一度も加担せず、また私学校の生徒がこれらに呼応することを厳しく戒めていた。「反乱を焦って困るのは、その土地の良民ばかりだ」というのが、生徒や桐野たちに言った言葉であるが、もっとはっきりいえば、これでは「日本は落ち着かない」からだった。
しかし、世間も周囲も、また政府も、そのようには見なかった、すべては西郷が画策しているか、そうでなくとも次の次には動くだろうと見ていた。
こうして大久保の内偵がついに鹿児島に放たれ、これに激怒した私学校生徒が自主的に立ち上がり、事態は西南戦争という明治最大の「内乱」に向かって驀進してしまったのである。
その話はしないことにする。いや、次の夜の「千夜千冊」につなげることにする。第1168夜に何をとりあげるかは歳末の次夜まで待っていただきたい。
それでは、しめくくる。
西郷隆盛は日本が「するべきこと」と「してはならないこと」を体現したのであろうと思う。西郷によって「するべきこと」が進行したこともあった。また、「してはならないこと」が見えれば、そのつど、その場に仁王立ちをした。あるいはあえて「不在」を突きつけた。
しかし、「そこにはそれはない」ということをどのように伝えるべきかということは、やってみせることよりもずっと難しい。初期の西郷はそのことに悩んだ。けれども、自身を「土中の死骨」と喩えたころからは、日本の根底そのものに、その「ない」があることを察知した。
西郷はその「ない」の本来に気がついたのだ。これは「無」や「空」というものとは、ちょっとちがっている。一言でいえば「面影の本来」をどう告示するかというものだが、それゆえに、そこにあらしめてはならないものだった。
西郷はそれを表現するのは、(漢詩をべつとして)へたくそだった。そのかわり、自身でその「ない」を一身で体現した。「負」を引き取ったのだ。キリマンジャロの凍豹ならぬ城山の山水になったのだ。
西郷隆盛は「負の山水」である。日本という方法のための「負の山水」だった。そう言ってわからないなら、ぼくが代って声を張り上げたい。「おはんら、しばらく黙らっしゃい!」。
単行本では、林房雄による『大西郷遺訓』(新人物往来社)、ぼくも愛読したことがある頭山満の講話が入っている『西郷南州遺訓講話』(至言社)、本書、岡崎功による『西郷隆盛言志録』(新人物往来社)などが、古本屋をあたればまだしも入手できよう。
数々の西郷隆盛をめぐる評伝は、まことに多い。山路愛山『西郷隆盛』(玄黄社)、田中惣五郎『西郷隆盛』(吉川弘文館)から、井上清『西郷隆盛』(中公新書)、圭室諦成『西郷隆盛』(岩波新書)まで、よりどりみどりだが、なかなかこの一冊というものには出会えない。なかで上田滋の『西郷隆盛の世界』(中公文庫)、安藤英男の『西郷隆盛』(学陽書房)、南日本新聞社の連載をまとめた『西郷隆盛伝』(新人物往来社)あたりが見えやすく書いてあるのではないか。
小説なら、同じ薩摩に生まれ育った海音寺潮五郎を読むべきだろう。全4冊の『敬天愛人・西郷隆盛』(学研M文庫)、『史伝西郷隆盛』(文春文庫)、『西郷と大久保』(新潮文庫)など。ついではやはり司馬遼太郎の『翔ぶが如く』(文春文庫)だろうが、これは西郷とともにそれをめぐる人物のほうがよく書けている。そのほかぼくは、尾崎士郎の『私学校蜂起』(河出文庫)と池波正太郎の『西郷隆盛』(角川文庫)を比較的早くに読んだ。
歴史的研究もいくらもあるが、幕末ものはキリがないので紹介を省くとして、毛利敏感の『明治六年政変』(中公新書)、同じ著者の『大久保利通』(中公新書)、佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館)、呉善花の『韓国併合への道』(文春新書)、佐木隆三『司法卿江藤新平』(文春文庫)などは読んでおきたい。
ぜひ目を通したいのは、江藤淳『南洲残影』(文芸春秋)と福田敏之編著の『西郷隆盛写真集』(新人物往来社)である。西郷は極端な写真嫌いだったぶん、とくに関連写真集が気になる。
では、次の夜にどのように西郷が残影するのか、あれこれ想像をたくましくしていただきたい。