父の先見
氷川清話
講談社学術文庫 1914・1972
勝海舟は明治32年まで生きていた。西郷・大久保が倒れ、帝国議会が生まれ、日本が日清戦争に勝って三国干渉で屈辱にまみれていたところまで見ていた。
晩年は赤坂にいた。明治5年に静岡から戻ってずっといたのだから、25年も棲んでいたことになる。氷川である。松岡正剛事務所と編集工学研究所は赤坂稲荷坂に越してからは、毎年正月を氷川神社に挙って初詣をすることにしているのだが、その氷川神社のそばに寓居した。77歳で亡くなった。
幕末維新のすべてを見聞した男で、かつ自由な隠居の身で好きなことを喋れる男は海舟しかいなかったから、その氷川の寓居には、東京朝日の池辺三山、国民新聞の人見一太郎、東京毎日の島田三郎らがしょっちゅう訪れて、海舟の談話を聞き書きした。それを人よんで「氷川清話」という。
新聞連載を編集しなおして吉本襄が大正3年に日進堂から刊行した『氷川清話』が有名だが、そのほかに巌本善治の『海舟余波』もある。子母沢寛や司馬遼太郎も海舟を描いて存分ではあるが、本人の言葉だけでできている清話は、もっと格別である。
話は、自分が「海舟」という号をおもいついたのは佐久間象山が「海舟書屋」と書いたのを見て、それがよくできていたからだったというところから始まり、咸臨丸による渡航ののち浦賀に着いたとき、桜田門の変があったと聞いた瞬間に、これはとても幕府はもたないと見たというように進んでいく。
なるほどそうかと思わせるのは、幕末維新で「広い天下におれに賛成する者なんて一人もいなかった」というくだりで、海舟はそういうときは「道」という一文字を思い描いて、ひたすら自分で自分を殺すまいと誓っていたらしい。その海舟の気持ちをわずかに理解していたのは山岡鉄舟くらいのものだったという。
それから人物論に入っていく。おそらく聞き手があの人はどうでした、この人はどんなもんですかと聞いたからであろうが、海舟は大人物というのは百年に一人現れたらいいほうで、いまの御時世からするとあと二百年か三百年のちになるだろうというような見識なので、容易に人物批評はしない。
なかで、「いままでに天下で恐ろしい人物がいるものだ」とおもったのが二人いて、それは横井小楠と西郷隆盛だという。小楠は他人には悟られない人物で、その臨機応変は只者でなく、どんなときも凝滞がない。つまり「活理」というものがあった。南洲はともかく大胆識と大誠意が破格で、その大度洪量は相手の叩く度合いでしか動かない。
それにくらべると、藤田東湖などは国をおもう赤心がこれっぽっちもなく、木戸孝允は綿密なだけで人物は小さく小栗上野介は計略には富んでいたものの度量が狭かった。榎本武揚や大鳥圭介なんてのはただのムキになるだけの連中だ。
そんな忖度のついでに、山内容堂には洒落があったから英雄になれたのではないか、近江商人は芭蕉の心を生かしている、芸者や職人と付き合えない奴はなにほどでもない、おれが放免してやった泥棒たちの話に時代を読めるものがひそんでいたねえ、などという炯眼キラリと光る雑談がまじっていく。
海舟は「時勢が人をつくる」という見方を徹している。また、今日の時代(明治後半)は「不権衡」であるとみなしている。不権衡とは不釣合いという意味で、バランスがないということ、こんなときに何を焦ってもうまくはいかないというのだ。
このあたりの清話はまさに政談で、今日の日本の政治家や経済学者にもよく聞かせたい。こういうことを言っている。
政治家の秘訣は何もない。知行合一をはかるだけである。ただ、国家というものは、1個人の100年が国家の1年くらいにあたるから、この時間の読みをまちがえてはいけない。内政については地方をよく見るべきで、昔なら甲州・尾張・小田原だ。そこに秘訣が潜んでいた。
外交は、いったい誰が外交をするかということが重要で、その外交にあたった者はともかくいっさいの邪念を捨てて臨む。明鏡止水の心境をもたなければいけない。しかし、ひとつだけ外交の秘訣をいえば、それは「彼をもって彼を制する」ということだ。
それから外国に安易に借金をしないこと、軍備を拡張しすぎないことである。軍備がなければ国は守れないが、軍艦ひとつ1マイル走らせれば1000両かかるのだから、よくよく気をつける必要がある。逆に軍備縮小については、これを吹聴してはならない。軍事はあんなに重装備のものだが、実は呼吸なのである。
海舟の政談はまだ続く。
問題は経済で、と言う。たしかに経済がいちばんややこしい。しかし最初にはっきり言えるのは、まずもって経済学者の言うことなんて聞かないことだ。政治家が経済学者の言葉に耳を傾けるようになったら、おわりだというのである。そのうえで、言う。だいたい「日本のただいま不景気なのも、別に怪しむことはない」。理屈では何も変わらない、それが経済だ。人気と勢力がすべてをゆっくり変えていく。
ただし、「然諾」(約束)というものだけは守らなくちゃいけない。この、経済の然諾を何にするかというのが難しい。人民が喜ぶからといって、おいしいこと、いいことばかりを最初に約束してしまっては、あとが困る。大切なのは根気と時機(施策のタイミング)なのである。
海舟は実は経済施策につねに関心をもってきた。関心があるだけではなく、実際にもいくつもの手を打っている。
金の配分にも絶妙なところがあって、いつもタイミングをずらしている。もともと海舟には貨幣とか通貨というものに国家の秘密を嗅いでいるようなところがある。『全国貨幣総数大略』などという著述があるほどなのだ。
けれどもその一方で、経済の本当の活性化は、「待合や料理屋や踊りの師匠や三味線の師匠たちを繁盛させられるかどうか、そこにかかっているのだ」という。これはかなりの卓見である。江戸本所に生まれて赤坂に死んだ江戸っ子気質が言わしめたとは片付けられないものがある。実際にも、幕末の江戸の経済のため、海舟はそういった連中にお金をまわすのを忘れなかった。そのため、江戸は幕府倒壊の渦中ですら、おおいに繁盛していたのである。
海舟は行政改革や地方自治についても発言をしている。
行革をやるのはいいが、その方針がたったからといって何もできはしない。ケチな連中を相手の行革なのだから、そのケチにケチを言わせないようにやらなければならない。方針なんてお題目で、それはそれで措いておきなさいというのだ。「それより改革者が自分を改革していることを見せるのが一番の行革なんだ」。
もうひとつ、猟官を出さないこと、出したら取締まること、これである。
地方自治の問題だって、いまさら珍しい名目じゃない。徳川を見なさい、すべては地方自治だった。それを真似ろとはいわないが、上からの地方自治をいくら提案したってダメだろう。名主とか五人組とか自身番とか火の番とか、かつての工夫があったように、そういう工夫をもっと大きな仕組みで提案したほうがいい。
もうひとつ注告がある。それは政治家はめったに宗教に手を出さないことだ。これはとんでもない大事をひきおこす。それこそ「祟り」が返ってきかねない。そんなことも言う。
こうして海舟が「真の国家問題」として重視したのは次のことである。「今日は実に上下一致して、東洋のために、百年の計を講じなくてはならぬときで、国家問題とは実にこのことだ」。
おれも国家問題のために群議をしりぞけて、あのとき徳川300年を棒にふることを決意した。そのくらいの度量でなければ国家はつくれない。ただ、これからは日本のことだけを考えていても、日本の国家のためにはならない。よく諸外国との関係を見ることだ。そのばあい、最も注意すべきなのが支那との関係で、すでに日清戦争でわかったように、支那を懲らしめたいと思うのは、絶対に日本の利益にならないということだ。
そんなことは最初からわかっていたことなのに、どうも歯止めがきかなくなった。これはいけない。支那は国家ではない。あれは人民の社会なのだ。モンゴルが来ようとロシアが来ようと、膠州湾が誰の手にわたろうと、全体としての人民の社会が満足できればいいのである。そんなところを相手に国家の正義をふりまわしても、通じない。これからは、その支那のこともよく考えて東洋の中の日本というものをつくっていくべきだ。
この海舟の読みは鋭かった。まさに日本はこのあと中国に仕掛けて仕掛けて、結局は泥沼に落ちこんで失敗していった。
かくして昭和の世に、勝海舟は一人としていなかったということになる。