父の先見
日本の失敗
東洋経済新報社 1998
アメリカがヨーロッパから文明国だとよばれるようになったのは、明治31年(1898)の米西戦争でスペインに勝ってからだった。スペイン領のフィリピンとグァムとプエルトリコを獲得した。この年、アメリカはハワイも併合した。
日本がヨーロッパから文明国とよばれるようになったのも、明治38年(1905)に日露戦争に勝ってからだった。日本は南樺太を獲得し、韓国の保護権と遼東の租借権を手に入れた。日米が文明国扱いをうけたのは、ほぼ同じ時期だった。
何のことはない、文明とはこうした大国地域から褒められることなのである。これに先に気がついたのがアメリカだったことがその後の歴史の歯車を変えた。すでに提督ペリーは日本に開国を迫るときに、ヴィジョンをもっていた。『ペルリ提督日本遠征記』には、こう書いてある。「我々は之を以て、我々の現在の目的が血を流さずに成功して、隠れもの同然の孤独な一国民を文明国民の仲間に引入れることが出来る前兆だと思われる」。
ペリーのいう「我々の現在の目的」とは日本の開国のことだ。余計なお世話だが、これが文明国が他の野蛮国をその傘下に引き入れたいというときの摂理なのだ。福澤諭吉は『文明論之概略』で、こう書いていた、「我と商売せざる者は之を殺すと云うに過ぎず」。
それから約半世紀をへて、この二つの国は第一次世界大戦の戦勝国となって五大国のメンバーとなり、日本はアメリカに殺されずに商売をするために列強とのゲームに興ずるようになっていた。ところが、この二つの国が戦うことになった。本書はその意味を問う。
松本健一が書いた本は、長らくぼくが信用して近現代史を読むときに座右にしてきたものである。とくに北一輝については絶対の信頼をおいて読んできた。いまではその内容は松本自身によってさらに詳細に拡張されて大部の『評伝北一輝』シリーズになって、もはやぼくなどでは追いつけなくなっているのだが、それはそれ、あいかわらず松本を読むとぼくは得心する。
3年ほど前、松岡さんと対談をしたいからというので神田の日本学士会館の一室に呼ばれたときは、ぼくだけの感想かもしれないが、なぜもっと早く会えなかったかと悔やまれたほどの「日本の襞に沿う交情」のようなものが互いを放電させていると感じた。
松本の文章にそうした「襞」を感じたのは、いつだったか。おそらくは、東大安田講堂の攻防が終わってしばらくして、松本が「あのとき私は、幸徳秋水と北一輝を重ねて思い出していた」というようなことを書いたのを読んでからのことだったように想う。そのあとか、それともその前だったか、森崎和江と辺境をめぐって往復書簡を交わしていた雑誌の文章も、松本の"心の貌"のようなものを感じて好ましかった記憶がある。
いやいや『秋月悌次郎』も『われに万古の心あり』も『蓮田善明』も『白旗伝説』も読後の印象はぼくに残って、まだ響いている。この人は、そうなのだ、革命と挫折をめぐる面影を研究しているといえばいいだろうか。歴史の面影が書けるのだ。
松本がどのように歴史の面影を書いてきたのか、それをなんとか伝えたくて、さっきまでどの本にしようかと迷っていた。最もオーソドックスな近代史を読むなら中央公論社が全集にした「日本の近代」の第1巻『開国・維新』が入りやすいだろうし、最もヴァナキュラーな趣向で読むなら『秩父コミューン伝説』や『隠岐島コミューン伝説』などを読んでほしいともおもうのだが、今夜は2005年を閉じる夜にふさわしく、あえて『日本の失敗』という現代日本の疵瑕を浮き彫りにした一冊にした。
本書は、ほぼ同時期に文明国になり、ほぼ同時期に五大国になった日米両国が、互いに互いを仮想敵国(potential enemy)としたことから説きおこしている。
明治42年に匿名のホーマー・リー将軍なる人物が『日米決戦論』(原題は『無知の勇気』)を書き、大正3年に日本の海軍中佐の水野広徳が『次の一戦』を書いた。両方ともフィクションだが、リーのものはアメリカが日本と戦ったら西海岸を破られるだろうと予想し、水野のものは日本軍はマニラを奇襲して緒戦を勝つが、太平洋上の艦隊戦で惨敗するというふうになっていた。
このように日米が互いに互いを仮想敵国と想定するようになったのは、その背景に中国における権益問題があったからだった。問題の背景は日本が第一次世界大戦中に中国の袁世凱政権に突き付けた「対支二十一カ条の要求」の条件にかかわっていたのである。
当時のアメリカはイギリスに次ぐ世界第2位の海軍国になろうとしていた。セオドア・ルーズベルトがアルフレッド・マハンの『歴史に於ける海上権の影響』を読んで、大海軍構想を描いた。
マハンの著書は日露戦争の日本海海戦立案者となった秋山真之も愛読していた。しかし、このときはアメリカはモンロー主義をとっていた。参謀会議の議長ヴリーランド提督は「モンロー主義と中国機会均等策と東洋人排斥がアメリカの国是である」と言って憚らなかった。実際にも移民日本人は1920年の排日移民法によって排斥されていた。
アメリカは仮想敵国をとっくに日本に絞ったが、日本のほうは陸軍がロシアを、海軍がアメリカを仮想敵国にして内部で割れていた(日本の軍部はその後もつねに割れていく)。そればかりか日本の軍部はそのような仮想敵国があることを、一度も国民に知らせなかった。いまなおアメリカ大統領が「悪の枢軸」をアメリカ国民にも相手国にも世界にも真っ先に告げているのと、まったく異なっている。
松本は、1926年に時事新報記者だった伊藤正徳が書いた『想定敵国』に日本の軍部が秘密主義をモットーにしている問題を指摘したことに注目しているのだが、日本ではこのような指摘すら希有だったのだ。
ところで、「対支二十一カ条の要求」は、いまは「対華二十一カ条の要求」と教科書も学術書の多くも呼称しているのだが、松本はこういう"歴史の現在"を訂正する表現を叱正する。本書も「太平洋戦争」ではなくて、あくまで「大東亜戦争」という呼称にこだわっている。「太平洋戦争」(the Pacific War)はマッカーサーが「大東亜戦争」という呼称を禁じたために通用することになったのであって、日本は開戦以来一貫して「大東亜戦争」として戦い、敗北したというのが松本の譲らぬ思想史家としての立場だ。松本は「これは私の恣意ではない」と書いている。
日本がいつアメリカと戦う気になったかということは、いまだ明白にはなっていない。
たとえば北一輝・大川周明と並んで「猶存社」の三尊とよばれた満川亀太郎は、『奪はれたる亜細亜』の最終章に「日米戦ふ可きか」をもうけて、いま日米が戦えば陸に中国と戦い、海に米国と戦って難渋するという予想を出していた。
大川周明は楽観していて、『亜細亜・欧羅巴・日本』では日米はギリシアとペルシャのごとく、ローマとカルタゴのごとく、東西文明の対抗と宿命をかけて戦わなければならないとした。それは「昼の太陽を象徴する日章旗」と「夜の星を象徴する星条旗」の戦争になるはずだと、えらくシンボリックに比喩もした。
二人とちがって、北一輝は日米が戦えば必ず第二次世界大戦になると読んでいた。日米両国が戦うだけでなく、アメリカにイギリスが最初に加担し、ついでロシアが加担するだろうと予想し、日米決戦だけが進むなどと考えるのは机上の空論だと断定した。さらに北はこのような事態になるのを避けるには「日米合同対支財団ノ提議」という文章のなかで、日米の中国での権益を分配するための手を最初から打っておけばいいと唱えた。
これは第二次世界大戦になればイギリスが全体的な勝利を収めるだろうという予想に立ったもので、そうであるならばあらかじめ日米は権益をシェアしておくべきだというのである。
大隈重信内閣が中国に突き付けた大正4年(1915)の「対支二十一カ条の要求」は、まとめれば、①青島と山東省のドイツ権益を日本が継承する、②満州の租借権の期限を99年にわたって延長する、③鉄鉱山を日中で共同経営する、④日本人の商工業者と耕作者のために土地の貸借権や所有権が得られるようにする、⑤必要に応じて中国全土における日本人警察官の配備ができるようにする、というふうになる。領土を拡大し、資源を確保し、軍備警護に手を出すという狙いである。
ヨーロッパがつくりあげた帝国主義的侵略をまるごと踏襲した要求だが、どう見てもかなり過剰な要求だった。ところがこれに真っ先に反対したのは中国ではなくて、アメリカだった。このうち、⑤の条項をアメリカは絶対に認めないと「待った」をかけた。後から中国に進出したアメリカの権益をいちじるしく阻害するからだ。
アメリカは体のよい"後出しジャンケン"なのだが、大隈内閣はアメリカ国務長官のブライアンの注文をまるまるのんで、あっさり⑤を削除した。その削除した⑤を除く要求を、中国の袁世凱政権は承認した。⑤の削除があったとはいえ、この屈辱的な要求を中国がのんだことは、中国の民衆を怒らせ、五四運動をまきおこした。
この対支対米をめぐる事態にひそむ本質的な問題を、そのころ4人の日本人が正確に読んでいた、と松本は書く。北一輝と吉野作造と石橋湛山と中野正剛である。
北は支那革命が進捗するという立場から批判し、吉野は日本が帝国主義陣営に参画しても利己的なテリトリーゲーム(縄張り争い)に参入してはならないと批判し、湛山はテリトリーゲームではなく、自由資本主義の市場競争にするべきだと批判した。湛山は青島の領有は絶対に日本の国益にならないと明確に主張した。
中野正剛は「対支二十一カ条の要求」を日本の政治にし、そこに大アジア主義を加えていった犬養毅の帝国主義が、列強の帝国主義とは異なる"別個の帝国主義"になっていることを痛烈に批判した。犬養はおかしいというのだ。松本はアジア主義者であるはずの中野がそのような読みをしていることに着目し、そもそもは民族の抵抗を本質とすべきアジア主義以外のアジア主義に、日本がはからずも突進しようとしていることを見抜いた中野を評価する。
しかし、日本は一番悪いほうへ進んでいった。アメリカと中国権益を争いつつ、いったいわれわれの国がどのようなアジア主義やどのような資本主義やどのような帝国主義に突入しているかを知らないまま、アメリカとの戦争を最も不利な条件で迎えざるをえない方向に向かって、これもはなはだ無自覚なままに突入していったのだ。
それでもまだ、石橋湛山のように事態の本質を見抜いていた者はいた。湛山は「東洋経済新報」の社説に、大正9年に「日米衝突の危険」を書いて、日米は経済政策において密接な相互関係性をもっているにもかかわらず、日本とアメリカのあいだに中国をおくと、きわめて先鋭的に対立してしまう。このままでは日米は衝突するという危惧を開陳した。
けれども昭和6年の事態は満州事変まで踏み出したところで、引き返し不可能なところに進んでしまった。
満州事変の作戦は関東軍作戦主任参謀の石原莞爾、同高級参謀の板垣征四郎、関東軍司令官の本庄繁の、ほぼ3人で、ほぼ3人だけで書かれた。
この3人はしかし、無自覚に戦争を仕掛けたわけではなかった。のちに石原は「日本が満蒙(満州と内蒙古)を領有することは中国の幸福につながると判断した」と明確にふりかえっている。
石原莞爾は明治44年に孫文が武昌で辛亥革命の狼煙をあげたときは朝鮮の守備隊にいて、兵卒たちを率いて近くの小山に上り万歳三唱を叫んだという。そう、自身で回顧している文章がある。
孫文の革命はやがて袁世凱との妥協に変わり、袁の死後もいくらたっても革命が成就しない状況になっていた(そのころ、日本の政治家や知識人の多くは孫文の中国革命に賛同していた)。そこへ日本が「対支二十一カ条の要求」を出した。石原はこの要求の撤廃が必要だと感じた。日中関係と日米関係を好転させ、また中国革命を純化させると確信した。
事態はそうは進まなかった。外相幣原喜重郎の方針は中国の内戦に干渉しないというものになった。石原は、この方針はアメリカの中国に対する門戸開放策と領土保全策に膝を屈するものであると見た。このままではなるまい。日本が何かを仕掛けなくてはまにあわない。昭和3年10月に、張作霖爆殺事件で辞職した河本大作のあとをうけて関東軍の作戦参謀として旅順に赴任した石原は、新たな作戦プランを次から次へと東京の参謀本部に提案しつづける。
とくに英米に依存してきた工業力を中国との交易を通して高めて自立させ、日本の国力をたかめることをしきりに提案し、それには満蒙を日本が領有して張作霖なきあとの張学良を掃討して武装解除させ、満州を平定するのが一番ではないかと申し送った。
石原は昭和6年に「満蒙問題私見」を書く。いずれ日米は決戦せざるをえなくなるはずだが、おそらく持久戦になるだろうから、それには国防的見地から満蒙問題を早急に解決しておかなければならない。そうすることによってロシアの南下と東進を食いとめ、朝鮮の統治を安定させることもできる。こうなったからには、もはや日本が満蒙を領有することしかないと迫った。これによって一挙に中国を解放する契機にできるとも考えていた。
事態の打開を迫る石原の示唆をうけた参謀本部は、ようやく「満蒙問題解決方策大綱」をつくる。関東軍の計画を否定しないけれど、最初から満蒙を植民地にするのは無理だから、まずは満州に親日政権をつくるのはどうかというものだ。
石原は反対した。ピントがはずれているというのである。当時、奉天総領事をしていた吉田茂も「対満蒙策私見」をのべて、「要地たる満蒙を開放せられざる異常に、財界の恢復反映の基礎なりがたし」とのべた。そこへ中村震太郎という大尉がスパイ容疑で中国軍に殺され、さらに満州で中国の農民と朝鮮人民が衝突するという万宝山事件がおきた。
ぐずぐずできないと見た石原は、東京に頼らずに作戦を実行する決断をした。関東軍が単独行動に出るらしいという情報は参謀本部にも流れ、これを抑える動きが出てきた。"留め男"の建川美次少将も派遣されてくる。慌てたロシア班長の橋本欣五郎が「ただちに決行すべし」の暗号電報を3度にわたって入れた。こうして予定を10日も早めて、9月18日午後10時20分、柳条湖付近の満州鉄道が関東軍の手で爆破された。
双方の軍隊の予想せぬ動きも出て、事態は事変の激発となった。満州事変である。
この唐突な作戦決行に、日本政府と軍中央は事態の「不拡大方針」をとった。関東軍の満蒙領有は認めないというものだ。石原は土肥原賢二、板垣征四郎、片倉衷らと鳩首協議をし、やむなく国民政府のもとで親日地方政権をつくるという方針に後退することにした。のちに石原はこれをみずからの「転向」とよんだ。「王道楽土」と「五族協和」の理念が通るなら、満州国をつくるのもいいだろうという気になったというのだ。
東京裁判によって、満州事変が「侵略戦争」の開始であって、その後の「日中戦争」や「太平洋戦争」の展開を前提にした世界戦争の布石であったというふうに"確定"された。つまり国際法に背いた戦争犯罪であると"裁定"された。
問題は、この見方をどう解釈するかである。日本は侵略戦争をしたのか、どうなのか。藤岡信勝を中心とする歴史教科書グループは、満州事変や大東亜戦争を「侵略」と規定したのは東京裁判史観にすぎないという立場を表明した。すでにそのように記述した検定教科書や分厚い『国民の歴史』という著作も登場している。松本健一はそこをどう見るか。
松本は東京裁判が「勝者の裁き」であることは否定しないが、大東亜戦争はそもそも近代日本が選択した「武装された攘夷戦争」であって、それゆえその戦争が「侵略」とうけとられるのは、当時にしてすでに当然であったのに、日本人がそれを認識できなかったのが「日本の失敗」なのだと見た。日本は精神的鎖国状態に縛られたままだったのだと見るのだ。
松本と同様の見方は、当時の中江丑吉にも見通されていた。中江兆民の長男である。袁世凱の顧問だった有賀長雄の秘書として大正の初期から北京に住んでいた。五四運動のさい、旧知の曹汝霖を救い、のちに潜行中の片山潜や佐野学を匿ってもいた。その中江は満州事変を知って「これは世界戦争のプロローグだ」と感じた。
そのころアメリカ国務長官だったヘンリー・スティムソンも、満州事変の5年後に『極東の危機』を書いて(日本語訳は第648夜に紹介した『暗黒日記』の清沢洌)、満州事変が国際法にそむく「侵略」であるとみなした。国際法といっているのは「国際連盟規約」と「支那に関する9カ国条約」と「不戦条約」(ケロッグ・ブリアン協定のパリ条約)のことである。日本はこの3つともに参加していた。侵略はあきらかなのだ。
日本が満州事変の時点で、すでに「侵略」の意図をもっていたことは隠せない。その後、関東軍は"東洋のナポレオン"の異名のあった馬占山将軍を破ってチチハルを占領し、さらに錦州に入って、翌昭和7年には上海事変を策動し、国内では血盟団事件や5・15事件の矛盾をかかえながら、満州国を"建国"させた。
いったい、なぜ日本は侵略戦争に突入していったのか。なぜ、日米は決戦をせざるをえなかったのか。いまなお、日本ではこの問題をどのように"解釈"するかをめぐって議論が収まっていない。戦争責任の"犯人"を問う問題もくすぶっている。中国や韓国から靖国参拝に絡めていまなお"謝罪"が要求されてもいる。
この一連の流れは、昭和4年(1929)の10月24日にウォール街が大暴落をおこして、そのまま世界恐慌に突入していったという流れのなかでとらえたほうが見えやすい。発端はそこにある。そのような世界資本主義システムの劇的な変化の意味を、日本がちゃんと見抜けなかったと解釈したほうがいい。
大恐慌によって何がおこったかというと、世界はいったん軍縮せざるをえなかったのである。その結果のひとつが昭和5年1月のロンドン軍縮会議にあらわれた。
日本はこの会議を前にして、補助艦(巡洋艦・駆逐艦など)の対英米比率7割を確保し、潜水艦は現状の7万8000トンを維持しようと決めて、若槻礼次郎全権首席と海軍代表財部彪(たからべたけし)海軍大臣をおくりこんだ。
それがロンドンでは維持できそうもなくなった。財部はその状況を日本に打電する。海軍は岡田啓介大将を筆頭に協議するのだが、いったんは妥協やむなしという結論となり、内閣もこれをうけて浜口雄幸首相が天皇に妥結の方向でいくということを伝えた。ところが、海軍の一部の者はこれが気にくわない(反対の急先鋒は末次信正海軍軍令部次長だった)。すったもんだのすえ、加藤寛治軍令部長がまたまた天皇のところへ行って、軍令部としては今回のロンドン会議の決定には反対であると申し上げておくと言った。
二つの報告が天皇のところへ届いたのである。そこへ事態をさらに紛糾させることがおこった。
ロンドン軍縮会議の決定と調印はそのままだったのだが、このように天皇をさしおいて国家の最高の軍令が勝手に判断されていくことに対して、問題が噴き上げた。ちょうどそのとき開かれていた第58回特別議会で、犬養毅と鳩山一郎が「これは統帥権干犯だ」と言い出したのだ。統帥権は大日本帝国憲法の第11条と第12条に規定されている。
天皇がもつ統帥権(国軍がもつ総指揮権)によって軍備が決まるのに、それを海軍が適当に左右しているのはけしからん、憲法違反だということだった。いわゆる「統帥権干犯問題」である。のちに司馬遼太郎は、この瞬間に日本が「異胎の国」になったと指摘した。
松本健一は、それもそうだろうが、そのような方向を招いたのは犬養や鳩山の政友会が統帥権という"魔法の杖"を政争の道具につかって、政党政治が政党政治を破壊してしまったともみなしている。本書は、このときの鳩山一郎の未熟な政治判断をかなりこっぴどく批判している。
ロンドン軍縮会議がもたらした統帥権干犯問題は日本を狂わせていく。ひとつは軍部を増長させたのだが、もうひとつは日本の政党政治がここにみずからの立脚点を崩して、軍部の台頭を許すようになった。議会閉会直後、海軍軍令部参謀の草刈英治は憤死した。石原莞爾が満州事変をおこすことを用意しはじめたのは、このときだった。
ここまでの流れを大筋だけであらためて整理すると、こういうことになる。便宜のために略年譜にしておく。松本の本書にはこのような記述はない。松本は世間によくあるような昭和史の流れを追うということはしていない。
大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発し、その渦中で日本は「対支二十一カ条の要求」を中国につきつけ、中国では反日の五四運動がおこった。一方、レーニンのロシア革命が成就して世界で初めてのプロレタリア独裁による共産主義国家が生まれた。大戦はヴェルサイユ条約で終結し、国際連盟が発足した。アメリカは参加しなかった。大正9年(1920)、海軍は八八艦隊計画に着手して、世界一の海軍をめざした。翌年、原敬が暗殺された。
大正11年(1922)にワシントン軍縮会議が開かれて、世界大戦の不幸を回避するためのワシントン体制が確認された。日本は対英米10:10:6となった。世界第3位の海軍力であるが、これに不満をもった。日英同盟も破棄された。翌年、関東大震災が襲った。翌年アメリカで排日移民法が採択された。
大正14年(1925)、ロカルノ条約が結ばれてヨーロッパの集団安全保障体制が敷かれた。中国では蒋介石による北伐が始まった。田中義一内閣時代になると、森恪(いたる)らによって東方会議が組織され、対中国積極策がひそかに策定された。昭和3年(1928)6月、張作霖爆殺事件がおこった。「満州某重大事件」として伏せられたこの事件によって、いよいよ満州に日本の関心が集中していった。パリ不戦条約に日本が調印したのはこの年の8月、昭和天皇が即位したのは11月である。石原莞爾が関東軍に赴任した。
昭和4年(1929)、浜口内閣となり犬養毅が政友会総裁となったあとの10月、ウォール街で大暴落がおこり、世界は大恐慌の嵐にまきこまれていった。同じころトロツキーが追放され、ソ連は秘密裏にスターリン独裁に入った。翌年早々、ロンドン軍縮条約が主要国間で締結され、その結論をめぐって日本は「統帥権干犯」問題でおおいに揺れた。ナチスが第2党に躍進した。昭和6年(1931)、浜口が狙撃され、若槻礼次郎が首相となって、満州で万宝山事件がおこると、9月に関東軍が柳条湖で満州鉄道を爆破した。
ついでにこの先の日本がどうなったかというと、上海事変、満州国建国、5・15事件、リットン調査団報告をへて、昭和8年(1933)の国際連盟脱退というふうになる。
本書はこうした昭和史の流れを、日本のナショナリズムの本質は何かという視点で検討している。とくに幣原喜重郎の国際協調路線が持続できなかった日本のA軸と、斎藤隆夫や吉田茂らの政治リアリズムのB軸と、憤懣やるかたなき恰好をとってつねに昭和史を動かしたナショナリズムのC軸との、鮮明な比較によって、従来にない組み立てを試みた。
これらの軸のちがいと、その重なりの狂いが、日米間の戦争をしだいに不可避にしていった。
また松本は、西田幾多郎や高山岩男や高坂正顕らがどのように大東亜戦争を「世界史の哲学」として位置づけようとしたか、和辻哲郎や丸山真男がそもそも鎖国と開国をどうとらえていたのか、国体イデオロギーをどのように見ていたのかも検討し、それを佐久間象山の「東洋道徳・西洋芸術」や吉田松陰の開国議論、さらには太宰治や福田恆存の思想とくらべた。これは政治や外交の軸が狂おうとも、そこに日本人の意識に確固たるものがあればこれらの歯車の狂いを撥ねのけることもできたはずなのだが、そこに「世界史の哲学」の薄弱があったことを証明するものになっている。
こうして本書は、昭和16年12月8日の「開戦の詔勅」が国際法にまったくふれなかったことを問い、その理由を日清戦争と日露戦争の「開戦の詔勅」の問題につなげ、日清日露の詔勅では「国際条規の範囲に於て」ということが明示されていたことを指摘する。
一方、国際法がどうあれ、国内の意識が戦争に加担していくときに踏み外しがなければ、それはそれでひとつの物語になったはずなのだが、それがそうはならなかった問題を、東条英機の戦争思想が日本が"生きる"ためのものではなく、"死ぬ"ためのものになっていたこと、他方、これらのことが「日本という国の生と死をめぐる将来」を日本人自身も重大な問題としてうけとめえなかったことに結びつけ、「日本の失敗」がきわめて広範囲なものに及んでいたことに言及していった。
もとより松本の昭和論をめぐる議論は、他にも数々の著作や論文になっているので、本書の記述が松本の考え方を代表する唯一の構成になっているというわけではないのだが、ぼくには、この構成はいまこそ多くの日本人が読んでおくものと感じられた。
すでに重光葵は、大東亜戦争について「この戦争には動機があっても目的がない」と指摘していたのである。
重光は戦後の昭和27年に発表した『昭和の動乱』で、こう書いていた。「自存自衛のために戦うと云うのは、戦う気分の問題で、主張の問題ではない。東亜の解放、アジアの復興が即ち日本の主張であり、戦争目的である。公明正大なる戦争目的が、国民によって明瞭に意識し理解せられることによって、戦争ははじめて有意義となり、戦意は高揚する。また若し、戦争の目的さえ達成せられるならば、何時にても平和詼復の基礎工作となるわけである」。
これに対して東条英機は『戦陣訓』に、こう書いた。「死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し、一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」。
これでは、よく言って「禅」、わるくすれば脅迫だ。戦争をしない者たちが静かに庵室で禅定を結ぶならまだしも、これは戦争をするために戦場へ赴く者たちの思想や主張とはとうていなりえない。最初から他者や国民や他国への説明を放棄したといってよい。いや、たんに自己犠牲を迫って勝ち目のない戦争を乗り切ることを考えていたにすぎなかった。
のちに橋川文三は『日本浪漫派批判序説』のなかで、ナチズムの哲学がいわば「我々は闘わねばならぬ」であったとすれば、日本の軍隊は「我々は死なねばならぬ」と言ったに等しいと分析してみせたものだった。
日本が国際ルールのもとでの繁栄と自由を選択した以上は、そのルールのなかでの充実だけが日本の政治なのである。それとはべつに禅や茶に遊ぶのは、まったく国際ルールに関与するものではない。自在に遊べはよろしい。
しかし、いったん柔道を国際ルールにしてオリンピックと世界大会を闘うのなら、その柔道を「日本精神」などと結びつけて何かを訴えたり、文句を言うべきではない。一人勝手に、柔道の心を畳の片隅で問えばいい。同様に、禅を宗教連盟の規約に入れたり、茶を国際ティーパーティ条約にしたいなら(そんなことはまだしていないが)、それで茶の輸出入や価格の暴騰暴落が国際的な経済摩擦問題になったとしても、そのルールの範囲内で闘うべきである。そこに利休の茶の心をもちこんでも意味がない。
昭和史はそこを踏みまちがえた。おそらくいまもなお、踏みまちがえている。松本が言うのはそこなのだ。日本人は「日本の失敗」の問い方すらわかっていないのではないかと言うのだ。
昭和史についてはそれこそ仰山な出版物が出回っているので(最近またとくにふえてきた)、ここでは司馬遼太郎『「昭和」という国家』(NHK出版)、秦郁彦『昭和史の謎を追う』上下(文芸春秋)、江藤淳監修『昭和史』(朝日出版社)、中村隆英『昭和史』ⅠⅡ(東洋経済新報社)、それに最近の半藤一利『昭和史』(平凡社)、坂本多加雄・秦郁彦・半藤一利・保阪正康『昭和史の論点』(文春新書)などをあげておく。