才事記

おくのほそ道

松尾芭蕉

角川ソフィア文庫 1967・2003

 さあ、芭蕉である。どう書こうかとは何も想定しないで、いま書きはじめた。
 できれば、「漢」の表現文化に習熟していた露伴(983)が、晩年には「和」の芭蕉七部集に傾注していったように、いつかはそういうことをしたいと思うけれど、なかなかその機縁に没しきれないで数十年がすぎた。朝にも夕べにも芭蕉が出入りするような日々があれば、いつかまたそういうことも試みたい。それができれば、ぼくにも多少の逆旅(げきりょ)がおこるということになる。
 そのかわりといってはなんだが、ここでは『おくのほそ道』をまたぐ芭蕉の推敲編集の草叢に少しく分け入って、その相違を僅かに浮かび上がらせ、蕉門の俳風が到達しきった元禄4年(1691)7月の『猿蓑』で話を終えたいとおもう。露伴の『評釈猿蓑』に敬意を表してのことだ。
 『猿蓑』は、蕉門の総力を結集した乾坤一擲の作品集ともいうべきもので、芭蕉は一句一句の入集についての選択はむろん、句中の一語一語にまで気を配った。許六は「猿蓑は俳諧の古今集なり」とさえ言った。
 露伴のものは、芭蕉その人が「漢と和」をしばらくリバース・モードにしたことに露伴が気づいて書きこんだ、俳諧評釈をめぐる文芸史上屈指の里程標だった。

 ところで最初に言っておいたほうがいいだろうから言っておくが、芭蕉は天才ではない。名人である。そういう比較をしていいのなら、其角のほうが天才だった。才気も走っていた。
 芭蕉は才気の人ではない。編集文化の超名人なのである。其角はそういう名人には一度もなりえなかった。
 このことは芭蕉の推敲のプロセスにすべてあらわれている。芭蕉はつねに句を動かしていた。一語千転させていた。それも何日にも何カ月にもおよぶことがあった。そういう芭蕉の推敲の妙についてはおいおい了解してもらえるはずのことだろう。

「予が方寸の上に分別なし」

 芭蕉についてどう語るかということは、百通りがある。ぼくが読み継いだものを拾っただけでも、おそらく数十を超えている。父の書棚からひっぱりだした懐かしい山本健吉(483)の『芭蕉』(新潮社の「一時間文庫」で3冊)を覚束ない嚆矢にして、それからいったいどのくらいを読んだのだろうか。
 大学時代は安東次男の評釈が鮮烈にテビューしていて、それを貪り読んだし、その後は唐木順三(085)を知ってちょっと落ち着き(大きく芭蕉を見るようになり)、その後に保田與重郎(203)から露伴に及んで、居ずまいをただしたものだ。そのころだったか、内田魯庵のぞくぞくするような『芭蕉桃青傳』や芥川龍之介(931)の皮肉な『芭蕉雑記』にも遊んだ。
 芭蕉のどの句が好きなのかなどということになっては、これは数年ごとにわらわらと変貌しつづけた。
 しかしいま、あらためてふりかえってみると、芭蕉が成し遂げたことは、やっぱり貫之(512)、定家(017)、世阿弥(118)、宗祇、契沖に続く日本語計画の大きな大きな切り出しだったというふうに、見えている。この切り出しには、発句の自立といった様式的なことも、いわゆる「さび」「しをり」「ほそみ」「かろみ」の発見ということも、高悟帰俗や高低自在といった編集哲学も、みんな含まれる。

 では、なぜ芭蕉がそれをできたのかといえば、あの、時代の裂け目を象(かたど)る江戸の俳諧群という団子レースから、芭蕉が透体脱落したからである。さっと抜け出たからである。
 それは貫之が六歌仙から抜け出し、世阿弥が大和四座から抜け出したのに似て、その表意の意識はまことに高速で、その達意の覚悟はすこぶる周到だった。
 けれども、なぜ芭蕉にそれができたのかが存分に納得できるには、芭蕉の俳諧人生がその切り出しまでにどのようなスレッシュホールドに達していたかを知る必要もある。
 芭蕉翁という「翁」の呼び名がふさわしいにもかかわらず、意外にも芭蕉は51歳の短い生涯だった。しかも本格的に俳諧にとりくんだのはやっと30歳をこえてからのこと、宗匠として立机(りっき)したときは、もう34歳になっていた。
 それなのに芭蕉は計画したことをほぼ成し遂げた。そして日本語に革命をもたらした。

「虚に居て実を行ふべし」

 芭蕉は寛永21年に伊賀上野に生まれている。藤堂藩の無足人(土着郷士)の家次男だった。
 寛永文化がどういうもので、つづく寛文文化がどうなっていて、かつ伊賀上野や藤堂藩がどういうところかも重要なのであるが、そのことを書いているとキリがない。
 ともかくも最初は貞門の北村季吟に惹かれ、そして29歳で江戸に出た。ここで貞門から談林を覗き、模索を始めた。とりあえずはこれが前提である。だから、この前提までに俳諧前史というものがどのように芭蕉に見えていたかが、芭蕉を語るときの出発点になる。

芭蕉旅立ちの図(「奥の細道画巻」より)

芭蕉旅立ちの図(「奥の細道画巻」より)

 ごくごくはしょって言うが、京都に発した貞門は、連歌に習熟した松永貞徳によっておこされたものであるだけに、俳言(はいごん)を打ち出した。漢語や俗語や俚諺をつかうことをいう。
 俳言は連歌にはなかった言葉をつかったから俳言なのである。だから、ここから俳諧が和歌や連歌から少しずつ自立の準備を始めた。貞門はその俳言を交ぜながら和歌の縁語や掛詞を駆使した。たとえば、「山の腰にはく夕だちや雲の帯」(貞徳)。夕立と太刀が掛詞になり、「はく」(佩く・穿く)「腰」「帯」が縁語になって、まだ和歌の風情を残している。

 この貞門俳諧の流行が寛永文化に重なっていた。そのなかで『犬子集』を刊行した。これは松江重頼の編集によるもので、俳諧史の最初の活気にあたる。
 たしか早稲田の暉峻康隆だったとおもうのだが、「日本の三代詩歌集を選べというなら、迷わず『万葉集』『古今集』『犬子集』を選ぶ」と言っていた。かなり大胆な見解だろうけれど、よくわかるところもある。それぞれ時代を切り拓いた最初の詩歌集であったからだ。
 貞徳がこうした俗っぽい俳諧を奨励したのには、それなりの算段があった。そのころの武士や町人の識字率が低かったからである。貞徳自身は高尚なボキャブラリーをもちながらも、それをひけらかすことをあえて避け、武士や町人がひとまず俳諧(連俳)をものすることができるように、ハードルを下げたのである。そのことによって多くの者がどうにか言葉を操れるようになったなら、伊勢や源氏や八代集を読むように勧めた。
 が、それはそうだとしても、貞門はあまりに言語遊戯に耽った。耽りすぎた。表意を研鑽するものがなくなっていった。そこで大坂の西山宗因がこれに反発した。天満宮神社連歌所の宗匠である。

「実に居て虚にあそぶことはかたし」

 宗因の挙動は、第974夜の近松浄瑠璃誕生をめぐる顛末にも書いておいたことだが、京都に対するに大坂の反発を根にもっていた。竹本義太夫が大坂に出て、近松が京都から大坂に移った前史には、この宗因の先行的登場があったのである。
 宗因にはもうひとつ、生活や身の回りの俳諧を詠みたいという主張があった。これが談林で、ここからが寛文文化になる。「白露や無分別なるおきどころ」(宗因)。
 ここに西鶴(618)が顔を出す。西鶴はもとは鶴永と号していたのだが、宗因門下に入って西山の西をもらって西鶴と改めたことでわかるように、談林を先導する役割をはたした。そのうえ、自分は一人でも荒木田守武(ここが連俳の原点である)に戻って「面白み」に徹するという気概をもっていた。「何とて世の風俗を放れたる俳諧を好まざるや、世こぞって濁れり、我ひとり清めり」という自負もあった。「大晦日定めなき世のさだめかな」(西鶴)。

 京・大坂のこうした反目は江戸の社会文化を議論するに、つねに起爆点になっていると思っておくとよい。この反目が低迷しているうちに江戸がおいしいところを攫って(浮世絵や江戸歌舞伎がそのひとつ)、そこにまったく新しい文化様式を経済文化として確立していったというのが、徳川社会文化の前半の大きな流れだった。
 京の貞門、大坂の談林はこうして互いに詰(なじ)りあううちに、しだいに新鮮な勢いを衰退させていく。これで、飽きられた。厭きられた。
 連歌も俳諧もむろん面白くて連打されるものではあるけれど、そこにスタイルやテイストが発芽しているうちはいいのだが、そこに文言を当て嵌めていじっているのが続きすぎると、「あき」がくる。スタイルやテイストは費い尽くしては失策なのである

「俳諧は吟呻の間のたのしみなり」

 貞門・談林の風波が重なるなか、ここに19歳の芭蕉が藤堂藩の侍大将である藤堂新七郎の台所御用人として出仕して、その嗣子良忠の御伽衆になった。
 良忠は北村季吟の門下に入って俳諧を習っていた。芭蕉も主人に倣ってついつい俳諧を遊びはじめたにちがいない。ただし、21歳のときの俳号「宗房」時代の句が残っているのだが、そうとうにヘタクソだった。「姥桜咲くや老後の思ひ出で」(宗房)。
 おそらくこのまま良忠とともに遊んでいたら、芭蕉はとうてい芭蕉にならなかったであろう。ところが芭蕉23歳のとき、良忠が25歳で急没した。これで芭蕉は藩内での出世を諦める。早々に辞職した。そして、とくに勝算があるでもなく京に出て、季吟に古典・漢詩文・俳諧を習いだしたのだ。もっとも、この道に進むもうかどうかをまだまだ迷っている。
 当時、俳諧師という職能は、黒衣円頂の装いにあらわれているように、士農工商の枠の外の者なのである。生活の資はすべて門人の点料か旦那衆の眷顧に頼らなくてはならなかった。へたをすれば連衆の御機嫌を伺う“おもらい坊主”と蔑まれたほどなのだ。この時期の芭蕉が迷っていたとしても無理はない。
 それに芭蕉自身が、のちに「俳諧は吟呻の間のたのしみなり」と言っている。

『芭蕉 おくのほそ道』

那須野を行く芭蕉と曾良 蕪村筆「奥の細道画巻」より

 そうしたおりに、さきほどの貞門と談林の渋滞が目立ってきた。そこで伊藤信徳・山口素堂・池西言水・上島鬼貫らが俳諧刷新の動きを見せはじめた。この機運に芭蕉も乗ったのである。これはただの相乗りだった。
 この連中には、ある共通の特徴があった。ことごとく江戸に下ったのだ。とくに京都の信徳が延宝5年(1677)に下向したのが大きかった。光琳もそうだったけれど、この時期前後、上方や京の文化が行き詰まっているときにさっさと江戸に出た者が時代を変えている。江戸に来るということは、そこから自在に意識の頭(こうべ)を動かせるということだったのである(いまでもそうかもしれない)。
 芭蕉も京を捨てて江戸に行く。発句合せ『貝おほひ』を自選自費でつくり、これをポートフォリオ代わり、名刺代わりにした。
 藤堂藩か季吟のルートを頼ったのであろうが、江戸では日本橋の魚問屋の鯉屋杉風のもとに草鞋を脱いだ。この杉風は芭蕉の最初の弟子となり、その後も最後の最後まで芭蕉の面倒をみたパトロンにもなっている。のちにいたるまで、芭蕉にはこういうコネがうまくはたらいた。

「俳諧は気にのせてすべし」

 真っ先に江戸下向した信徳は、延宝6年(1678)に素堂・芭蕉を巻きこんで百韻連句『江戸三吟』を世に問うた。そのころから芭蕉は桃青を俳号とした。35歳になっている。

富士に傍(そ)うて三月七日八日かな(信徳)
目には青葉山ほととぎすはつ松魚(素堂)
貧山の釜霜に啼く声寒し(桃青)

 桃青のものはとうてい褒められた句ではない。ただ、『貝おほひ』がほとんど戯れ句が多かったのにくらべると、ここには気迫のようなものがある。気のスピードのようなものがある。
 また、「貧」「霜」「啼く」「寒し」といった、のちに芭蕉の好んだ語彙が顔を出していて、ハッとさせるものがある。こういうところは、すでに桃青は芭蕉の萌芽を見せていた。
 ちなみに桃青という俳号は母方の伊予宇和島の桃地姓から採ったようで、この桃地が忍びの者を統括した百地一族との血縁もあるらしいところから、いっとき芭蕉忍者説が躍り出たことがあったのだが、この説はおもしろすぎて、加担はできない。
 ついでながら、芭蕉がいっとき禅林に入っていたのではないかという説もあるけれど、これもそうだとしても、そうでないとしても、とくに芭蕉の評価を変えるまい。

「乾坤の変は風雅の種なり」

 初期の芭蕉のことで言っておかなければならないのは、最初は漢詩文の調子を取り戻すことが重要だと見ていたということである。
 さかのぼれば、漢詩文には日本の詩歌を刺激した鐘が鳴っている。源氏だって白楽天なのである。それを貞門や談林は忘れた。
 日本文化というものは、大きくはやっぱり「和」をどのように創発させていったかということが眼目になるのだが、それはときどき「漢」との熾烈な交差を含んでいないと、ものにならなかったのである。芭蕉はそこが見えていた。
 そういう判断のもと、しばらく芭蕉は次のような句ばかりを詠んでいた。

夜ル寨(ひそか)ニ虫は月下の栗を穿ツ 櫓の声波ヲうつて腸(はらわた)氷ル夜やなみだ

 言葉の並びだけからいったら、これはまるで笠置シヅ子やシャ乱Qだろう。けれども、こういう着想をするところが桃青の桃青らしいところだった。
 「櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ」は、櫓がきしる音を聞いていると体の奥まで寒さがしみわたるというほどの句意で、そう思えば、「腸氷」や「氷夜」といった造語はどこか心敬をさえ思わせる。
 芭蕉がそういう凍てついた句を詠んでいたにしても、しかし大方は漢詩に滑稽を加えて俳諧としていた。これではやはり佶屈晦渋を免れないものになっていく。これでは漢から和へのトランジットもままならない。
 たしかに俳諧とは、そもそもは滑稽という意味をもっている。けれども「俳諧が滑稽である」のでは、「ロックはビートである」と言っているのと同じようなもので、必ず行き詰まる。漢詩の気分を交ぜたのは、その打開策だった。ロックに和太鼓が入ってきたようなものだ。
 しかしこのやりかたは、漢詩調や和太鼓調というものがあまりに際立つ性質をもっているので、かえって十全にこなせない。
 そこをどうするか。それを早くも芭蕉は考えた。

 延宝8年、芭蕉は江戸市中を離れて隅田川対岸の新開地・深川に移り住んだ。泊船堂である。これが最初の芭蕉庵になった。杉風が世話をした。
 このときから、芭蕉に画期的な転機が連打されたのである。それは俳諧全史を眺めわたしても、まさに乾坤一擲の転機だったろう。

可伸庵 与謝野蕪村筆「奥の細道画巻」より

可伸庵 与謝野蕪村筆「奥の細道画巻」より

 この転機は、結論からいえば、芭蕉が西行を学んだことで発揮した。漢詩文の調子に西行の『山家集』を交ぜたのだ。「侘び」に気が付いたのだ。
 そのことについては門弟の其角は『虚栗』(みなしぐり)に、「侘と風雅のその生にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾はぬ蝕(むしく)い栗なり」と書いた。許六は『韻塞』(いんふさがり)に、「旅は風雅の花、風雅は過客の魂、西行・宗祇の見残しはみな俳諧の情(こころ)なり」と書いた。
 ここに芭蕉の俳諧は「滑稽」から「風雅」のほうに転出していくことになる。「俳諧といへども風雅の一筋なれば、姿かたちいやしく作りなすべからず」(去来)なのである。「いやしく」しない。つまり、卑俗を離れたいと、芭蕉は決断したのだった。
 のちに芭蕉は服部土芳に、こう言ったものだった。「乾坤の変は風雅の種なり」(三冊子)と。そして『笈の小文』に、こう書いたものだ。「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するもの一なり」と。
 まったく同じ延宝8年のこと、西鶴は大坂生玉神社で昼夜独吟四千句を興行してみせた。なんと上方の西鶴と江戸の芭蕉とは対照的だったことか。

「その物に位をとる」

 こうして貞享元年(1684)8月、芭蕉は初めての旅に出る。「野ざらしを心に風のしむ身かな」と詠んで、能因・西行を胸に秘め、東海道の西の歌枕をたずねた。
 この「野ざらしを」の句は最初の芭蕉秀句であろう。これも、いよいよ「和」の位をとった。『野ざらし紀行』(甲子吟行)では「貞享甲子秋八月、江上の破屋を立ちいづるほど、風の声そぞろ寒げ也」と綴って、この句を添えている。
 どこか思いつめたものがある。「野ざらし」とは骸骨である。骸(むくろ)である。「しむ身」は季語「身にしむ」を入れ替えて動かしたもので、それを「心に風のしむ身かな」と詠んで、心敬の「冷え寂び」に一歩近づく風情とした。のちに加藤楸邨が「かなしび」をめがけたことがあったものだが、そういう感覚に近い。
 この句はよほどの自信作であったろう。「野ざらしを心に」「心に風の」「風のしむ身かな」というふうに、句意と言葉と律動がぴったりとつながっている。
 しかも、そこに「野ざらし」というマイナスのオブジェがはたらいた。マイナスがはたらいたということは、定家や西行の方法を俳諧にできそうになってきたということである。
 この句において、芭蕉は自分がはっきりと位をとったことが見えたにちがいない。けっして驕ることのない人ではあったけれど、おそらくこの「負の自信」ともいうべきは、芭蕉をいよいよ駆動させたはずである。

舟で雄島へ向かう芭蕉と曾良

舟で雄島へ向かう芭蕉と曾良 蕪村筆「奥の細道画巻」より

「発句の事は行きて帰る心の味はひなり」

 野ざらし紀行は9カ月にわたった。伊勢参宮ののちいったん伊賀上野に寄って、それから大和・当麻寺・吉野をまわり、さらに京都・近江路から美濃大垣・桑名・熱田と来て、また伊賀上野で越年し、そこから奈良・大津・木曽路をへて江戸に戻っている。
 ここで芭蕉はついに「風雅の技法」を身につけた。まるで魔法のように身につけた。たとえば――。

道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり
秋風や薮も畠も不破の関
明ぼのやしら魚しろきこと一寸
春なれや名もなき山の薄霞
水とりや氷の僧の沓(くつ)の音
山路来てなにやらゆかしすみれ草
辛崎の松は花より朧にて
海くれて鴨のこゑほのかに白し

 これらの句には、突然に芭蕉が凛然と屹立しているといってよい。その変貌は驚くばかりだ。とくに「道のべの木槿は馬にくはれけり」「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」「辛崎の松は花より朧にて」「海くれて鴨のこゑほのかに白し」の句は、これまでの芭蕉秀句選抜では、つねに上位にあげられる名作だ。
 そういう句が9カ月の旅のなかで、一気に噴き出たのである。「野ざらしを」の句のリーディング・フレーズはみごとに役割をはたしたのだ。
 しかし、ここで注目しなければならないことがある。それは、これらの句は、それぞれ存分な推敲の果てに得た句であったということだ。いよいよ今夜の本題に入ることになるが、芭蕉はこの旅で推敲編集の佳境に一気に入っていったのだ

 どういう推敲だったかというと、たとえば「道のべの木槿は馬にくはれけり」は、最初は「道野辺の木槿は馬の喰ひけり」や「道野辺の木槿は馬に喰れたり」だった。また、「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」は「雪薄し白魚しろき事一寸」だったのである。
 「雪薄し白魚しろき」では、重畳になる。つまらない。そこで、白魚から薄雪を去らせて、白さを冴えさせる。芭蕉は推敲のなかで、こうした編集技法を次々に発見していったのだった。
 もっと劇的な例がある。有名な「山路来てなにやらゆかしすみれ草」。これを初案・後案・成案の順に見てもらいたい。

(初)何とはなしに なにやら床し すみれ草
(後)何となく 何やら床し すみれ草
(成)山路来てなにやらゆかしすみれ草<

 初案と後案の句は、どうしようもないほどの体たらくになっている。「何とはなしになにやら床し」では、俳諧にさえなってはいない。これなら今日ですら俳句を齧った者なら、ごく初歩のころに作る句であろう。
 むろん芭蕉としては、道端の菫があまりに可憐でゆかしいことを、ただそれだけをなんとかしたかったのである。『野ざらし紀行』によると、伏見から大津に至った道すがらのことだった。けれどもその場では言葉を探しきれなかった。それでともかくは書き留めておいたのだろう。
 そこでのちに訂正を入れた。それが「山路来て」という上五の導入である。これで「なにやらゆかし」が山路にふわっと溶けた。芭蕉の歩く姿がふわっと浮上した。そして、そのぶん、路傍の一点の菫色(きんしょく)があっというまに深まったのだ。こうした推敲編集のこと、このあとでも紹介したい。

「品川を踏み出したらば、大津まで滞りなく歩め」

 ところで、なぜ芭蕉は9カ月ものあいだを旅の途上においたのか。やっと江戸に出てきて、漢詩を離れたばかりなのである。いくら西行の風雅に気がついたとはいえ、この9カ月は長い。
 しかし、ぼくはしばしば思ってきたのだが、この時間の採り方がつねに芭蕉をつくっているのではないかということである。このあとの「笈の小文」の旅が約半年、更科紀行が足掛け3カ月、奥の細道が150日を超えた。芭蕉はそのたびに充実していった。いや、頂点にのぼりつめていく。
 どうも、ここには決断的算定ともいうべきものがある。自身に課す習練のパフォーマンスが星座が形をなしていくように、勘定できている。俳諧をめぐるエディトリアル・エクササイズというものが見えている。そのパフォーマンスがどうしたら自分の目に、耳に、口に、手について、その後に化学反応のような「俳句という言葉」に昇華していくかが、見えている。

 いささか口はばったいことを言うようだけれど、何かが熟するにはつねに「時熟」というものが必要なのである。
 ここでぼくの例など持ち出してはおかしいが、ぼくの編集作業でさえ『全宇宙誌』で5年、『情報の歴史』で3年、「千夜千冊」でも4年をかけている。
 べつだん期間はどのくらいでもいいが、その事に仕えるうちに自分がかかわるものの一部始終が見えてきて、それをまあまあ使い切ったかと感じるには、やはり時熟が必要なのだ。
 芭蕉にはそれが忽然と了解できていた。『去来抄』に「この句、いま聞く人あるまじ。一両年を待つべし」というくだりがある。去来が先師の評言として引いたものである。一句の時熟に一両岸を待ちなさいというアドバイスだった。
 また、土芳の『三冊子』には芭蕉の言葉として、「思ふに余念なき俳諧の事なるべし」がある。余念をつかいきらないで、どうして俳諧などつくれるのかという叱正だ。
 いずれも時熟を示していよう。その「時の幅」を芭蕉はよくよく見据えていた。

「舌頭に千転せよ」

 さて、『野ざらし紀行』執筆の1年後、芭蕉はあの「古池や蛙飛こむ水の音」を詠んだ。貞享3年、芭蕉43歳の春である。
 この句については、当初から議論を呼んでいた。すでに各務支考が『葛の松原』に、この句ができたときの事情を記していて、その日は芭蕉庵で翁が一日嗒焉として憂いていたというのだ。
 そして、「風雅の世に行はれたる、たとへば片雲の風に臨めるごとし。一回は皂狗となり、一回は白衣となつて、共にとどまれる處をしらず、かならず中間の一理あるべし」と言って、「春を武江のきたにとざし給へば、雨静にして鳩の声ふかく、風やはらかにして花の落る事おそし」というところへ、ポチャンと蛙が水に入った音がしたというのである。
 まるで一休のカラスのカーである。蛙のポチャンがまさに“中間の一理”になっている。
 それですかさず、「古池や蛙飛こむ水の音」という一句ができたのかというと、そうではなかった。最初はできの悪い句から始まっていた。

 では、ふたたび芭蕉の推敲編集のプロセスを明かし交ぜながら話を進めることにするが、この人口に膾炙した「古池や」の一句にして、以下のように変わっていったのだ。同じ貞享3年の数句もついでに比較する。やはり初案・後案・成案の順である。
 以下の句、いずれも芭蕉は初案で幼稚を惧れず、「発句は屏風の下絵と思ふべし」のつもりで、すばやくドローイングしていることが見えてくる。

(初)古池や 蛙飛ンだる 水の音
(後)山吹や 蛙飛込む 水の音
(成)古池や蛙飛こむ水のをと
(初)西東 あはれさおなじ 秋の風
(後)西東あはれもおなじ 秋のかぜ
(成)東にしあはれさひとつ秋の風
(初)名月や 池をめぐつて 夜もすがら
(成)名月や池をめぐりて夜もすがら

 古池にするか、山吹にするか。芭蕉は迷いを隠さない。「西東」がいいか、「東にし」がいいか。芭蕉はいろいろ置き換えをする。乗り換えて、着替えて、持ち変える。そのうえで「あはれさ・おなじ」は「あはれさ・ひとつ」になっている。これが43歳のときの編集力である。
 『葛の松原』によると、「古池」の句の上五を「山吹や」としてはどうかと言ったのは、そこに居合わせた其角だった。才気煥発の其角は、きっと古今集の「蛙なく井手の山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを」あたりを思い出したのであろう。その「山吹や」によって、芭蕉の「飛ンだる」は、まず「飛びこむ」になった。
 しかし芭蕉は、それを含んでまた、上五を「古池や」に戻している。推敲とは「推すか」「敲くか」ということであるが、芭蕉は実に、この「押して組まねば、引いて含んでみよ」を頻繁に試みたのだった。

「花に問へば花かたることあり。
姿はそれにしたがふべし」

 芭蕉は初案を率直に出す。卒然といったほうがいいかもしれないが、ともかく巧まない。『三冊子』には、「物の見えたる光、いまだに心に消へざるうちに言ひとむべし」と言っている。ドローイングは速いのだ。
 が、問題はその次だ。もう少し、推敲のプロセスをあかしたい。次のものは貞享4年の句になるが、さらに決定的な比較推敲が見えている。

(初)誰やらが姿に似たりけさの春
(成)誰やらが形に似たりけさの春

 初案は、朝起きて外の空気を感じていると、それが誰かの気配の姿のように思えた、あるいは表に出て朝の空気を感じていると、そこに誰か親しい人の姿が通りすぎたというような句意に読める。
 それを推敲ののち、「誰やらが形に似たりけさの春」というふうに、した。「姿」と書いたところを「形」にしたわけである。たった一字の変換である。けれども、これは決定的なイメージ・トランスフォーメーションだった。
 こう作ってみると、今朝の春という気配そのものが姿をもっているように見えてくる。「姿」という字をやめて「誰やらが・形・に・似たり」とするほうが、かえって春の姿が見えるのだ。「姿」の字が消えて、姿が見えてくる。不思議なことである。

 では、いったい芭蕉はこのような推敲をしつづけることによって、何に近づきたかったのか。発句を自立させ、俳諧を一句の俳句として高みに達するようにすることとは、何だったのか。
 それを感じること、また、それを感じさせることが、まさに芭蕉が追求したことだった。これは高悟帰俗というものだ。「高く悟りて俗に帰るべし」。このことはまた、まさに芭蕉を読む日本人が総じて感得すべきことでもあろう。ぼくははっきりとそう言いたい。
 しかしながらそれをさて、「わび」「さび」というか、「ほそみ」「かろみ」というかどうかは、まだ芭蕉も自覚していない。
 けれども芭蕉は、もはや「姿」は「形」がつくるもので、「形」は「誰やら」がつくるものであり、「誰やら」は「今朝」が育むものであって、それが「春の姿」という面影であるということを、アルベルト・ジャコメッティとまったく同様の確信をもって、その心の中央に楔のごとく打ちこんだのであった。

「格に入り、格に出てはじめて、自在を得べし」

 貞享の句は芭蕉の前期と後期を分けた。その貞享5年は元禄元年にあたっている。芭蕉は45歳になっていた。
 笈の小文の旅をそのまま更科紀行にのばした芭蕉が、岐阜・鳴海・熱田をへて8月に更科の月見をしたのちに、江戸の芭蕉庵(この芭蕉庵は火災ののちに2度目に組んだもの)に戻ってきて、後の月見を開いたのは9月のことである。
 それから半年もたたぬうちに、芭蕉は奥の細道の旅に出る。これはそうとうの速断である。速いだけでなく、何かを十全に覚悟もしている。
 あらかじめ芭蕉庵を平右衛門なる人物に譲っているし、「菰かぶるべき心がけにて御座候」と言って、乞食(こつじき)行脚を心に期していたふしもある。
 そうなのだ。ぼくはこの紀行はまさに乞食行だと思っているのである。
 なぜそう思ったのか、ずいぶん以前に『笈の小文』を読んだときのことになるのだが、芭蕉が伊勢に参宮したおりに「増賀の信をかなしむ」と前書きして、「裸にはまだきさらぎの嵐かな」と詠んだことが、心に響いたのだ。

 増賀とは、「かくて名聞こそ苦しかりけれ。乞食の身こそ頼もしけれ」と言い放ったと『発心集』が伝える聖僧のことをいう。それ以前は、師の良源(慈恵)が大僧正になったときに鮭の太刀を侃き雌牛に乗って前駆してみせ、その異風異様に喝采が送られた人物である。
 けれども増賀はこうした喝采を嫌って、ぷいっと乞食修行の旅に出てしまった。
 その増賀について、芭蕉は故郷伊賀上野の俳友に、「一鉢の境涯、乞食の身こそ尊けれど、謡に侘びし貴僧の跡もなつかしく云々」という手紙を送っている。それが奥の細道に旅立つ2カ月ほど前のことなのだ。
 増賀は伊勢神宮に詣でたときに、「道心をおこさんと思はば、この身を身とな思ひそ」という託宣を聞いた。そこで「名利を捨てよとこそ」と、着ていた小袖や僧衣をその場にいた者に与え、赤裸のままに下向した。
 この故事を知った芭蕉は、そこで、「裸にはまだきさらぎの嵐かな」と詠んだのだ。
 こうなると、芭蕉は風狂をこそ覚悟したというべきなのである。実際にも、2月末の記録には旅立ちの用意として「短冊百枚、筆箱、雨用茣蓙、柱杖」などと書いたあと、「これ二色、乞食の支度」と記していた。
 かくして元禄2年(1689)、「弥生も末の七日」の3月27日に、芭蕉は曽良をともなって奥州に旅立った。しかし、そこにはけっこう意外なことがおこっていた。

『芭蕉連句集』

おくのほそ道行程

月日は百代の過客にして
行き交ふ年もまた旅人なり」

 半年にわたった奥の細道でどんな句が詠まれたかは、いまさら案内するまでもない。それよりも、ここでは、三つのことを強調しておきたい。
 ひとつは、芭蕉の旅は乞食の旅ではなかったということだ。たったいま、乞食行を覚悟しての旅だったと書いたばかりなのに、これではまったく反対のことを言うようだが、実は半分はそうなのである。いわゆる托鉢乞食行とはいいがたかった。
 曾良の『随行日記』を読めば、芭蕉が地方の富商・上級藩士・名望家ばかりをたずねていたことは歴然とする。
 しかし、このことをもって芭蕉に乞食行の覚悟がなかったかといえば、そういうことではない。むしろ芭蕉はずうっと遊行乞食の意識と観念を磨ききったはずだった。すでに書いておいたように、芭蕉はコネの活用にはいたって強く、人脈をつくるのにもたけていた。
 そんなことは、『おくのほそ道』を読めばわかることなのだ。研究者たちのなかには、この芭蕉の“偽装”とでもいうものを問題にしていることが少なくないのだが、こういう阿呆な研究者たちには、紀貫之が『土佐日記』(512)で、漢文であるべき日記を仮名日記という前代未聞のフォーマットに託し、男が書くべきところを女に仮託して男が書いたという二重の偽装をしたことが、ついに日本語計画の発端をひらいたことを言っておけば充分であるだろう。
 芭蕉にあっても、『おくのほそ道』とは、誰もまだ見たことのない俳諧紀行文の出奔の企てであったのだ。
 それゆえ、『おくのほそ道』がそれを綴りきった芭蕉とそれを読んだ者たちにとって、「ひとしくこのような俳諧遊行というものがあるのだ」と感じるようになっていればよかったのであって、そのことが、唯一、芭蕉が乞食行を覚悟したことの意表であったのである。

 次のひとつは、いま言ったことが理解できれば至極当然のことになるのだが、この紀行文はあとでいろいろ編集構成されたものであって、いくつも事実とは異なっていたということだ。
 これらも曾良の日記であきらかになったことである。そういう詮索の大半をぼくも一応は読んではきたが、いまさら面倒でそれを紹介する気にもならないでいる。むしろぼくならば、編集構成の手を加えない『おくのほそ道』など、芭蕉すら読む気がしなかったろうと言いたい。
 それで、もうひとつとは、むろん芭蕉が徹底して提示した句を推敲していたということである。その推敲も、その場での推敲ではなくて、後日の文脈にあわせての、そして超然たる俳句確立のための、そういう推敲だった。

「造化にしたがひ、造化にかへれ」

 これで、やっと『おくのほそ道』の句の驚くべき変遷を案内できることになった。
 それぞれ説明を入れたいけれども、それも蛇足のようにも思えるので、ただ列挙することにする。わかりやすくするために、一字をあけたり、多少の順番を変えている。ゆっくりと目で追われたい。

(初)たふとさや 青葉若葉の 日のひかり
(後A)あらたふと 若葉青葉の 日の光
(後B)あなたふと 木の下暗(やみ)も 日の光
(後C)あらたふと 木の下闇も 日の光
(成)あらたふと青葉若葉の日の光
(初)弁慶が笈をもかざれ紙幟(かみのぼり)
(成)笈も太刀も五月にかざれ紙幟
(初)五月雨や年々降るも五百たび
(成)五月雨の降りのこしてや光堂
(初)山寺や 石(いわ)にしみつく 蝉の聲
(後A)さびしさや 岩にしみ込む 蝉のこゑ
(後B)淋しさの 岩にしみ込む せみの聲
(成)閑さや岩にしみ入る蝉の聲
(初)五月雨を 集て涼し 最上川
(成)五月雨をあつめて早し最上川
(初)涼しさや 海に入れたる 最上川
(後)涼しさを 海に入れたり 最上川
(成)暑き日を海に入れたり最上川
(初)象潟の 雨や西施が ねぶの花
(成)象潟や雨に西施がねぶの花

 どれを例にしても驚くばかりの「有為転変」である。とくに立石寺で詠んだことになっている「閑さや岩にしみ入る蝉の聲」は、初案の「山寺や石にしみつく蝉の聲」とは雲泥の差になっている。
 なかんずく「しみつく」「しみこむ」「しみいる」の3段に変えたギアチェンジは絶妙だった。「しみつく」では色彩の付着が残る。「しみこむ」は蝉に意志が出て困る。それが「しみいる」になって、ついに「閑かさ」との対比が無限に浸透していくことになった。こんな推敲は、芭蕉一人が可能にしたものだ。とうてい誰も手が出まい。

 われわれにとって多少とも手が出そうな芭蕉編集術の真骨頂は、おそらく、「涼しさや海に入れたる最上川」が、「暑き日を海に入れたり最上川」となった例だろう。
 なにしろ「涼しさ」が、一転して反対のイメージをもつ「夏の日」になったのだ。そして、そのほうが音が立ち、しかも涼しくなったのである。
 享保に出た支考の『俳諧十論』に、芭蕉の「耳もて俳諧を聞くべからず」という戒めをめぐった文章がある。連句の付合(つけあい)の心得をのべているくだりだが、実はこの言葉は「閑さや岩にしみ入る蝉の聲」にも、あてはまる。蝉の声は耳で聞いているのだが、それを捨てていく。そうすると、「目をもて俳諧を見るべし」というところへふいに出ていける。
 これは「涼しさ」が涼しい音をもっているにもかかわらず、あえて「夏の日」という目による暑さが加わって、それが最上川にどっと涼しく落ちていくことにあらわれた。

「物によりて思ふ心をあかす」

 奥の細道の旅は、大垣から船に乗って伊勢遷宮を拝みに向かったところで終わっている。
 が、実際は、芭蕉はそのまま旅を続けていた。体もそうであったが、心もそうだった。
 紀行文としては、大垣が終点だった。また紀行文としては、前半が能因・西行の歌枕を辿っている意図があらわれていて、それが一応は松島と象潟で願いを達したあとは、日本海側に出て、その風土のせいだろうか、芭蕉独自の感想に深まっている。そう、読める。
 これは、そこから後世の良寛の詩魂に風情をつなげたいぼくにとっては、おおいにたのしむところであって、とりわけ那谷寺で「石山の石より白し秋の風」と詠んだところは、ここが頂点かとおもわせた。
 那谷寺に行きましょうかと誘ったのは曾良で、その誘いに従って詠んだのが「石より白し秋の風」なのである。これは「物によりて思ふ心をあかす」という芭蕉の、まことに達意に富んだ名人芸だった。

 さて、それはそれとして、芭蕉は実は奥の細道の旅をどこで終えるかなどということを意識せず、大垣から伊勢へ赴き、伊勢遷宮に立ち会えることを寿いだ。
 その伊勢参拝の予告をもって『おくのほそ道』の記述を終えたのは、それゆえ、終焉間近までこの紀行文に手を入れつづけた結果なのである(芭蕉がつねに伊勢を意識していたことは、もっともっと議論されてもいいことだ)。
 すなわち、芭蕉は伊勢からそのまま奈良・京都にまわり、伊賀上野に帰ったところで、長きにわたった旅に終止符を打ったのだ。それが元禄3年(1690)の正月である。47歳になっている。
 『おくのほそ道』の最終編集にかかっていくのは、おそらくここである。このとき、伊勢参拝予告をもってこの作品を切断しようと決めたのだ。
 そう決めて、芭蕉は大津の幻住庵に入っていった。この年は大津で越年をした。

「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」

 一方、このころから芭蕉の体には一挙に衰えが忍びよっていた。芭蕉はいよいよフラジャイルなラストゾーンに入っていったのだ。
 その時期が京都落柿舎に入っている時期になる(嵯峨日記)。そして、そこから去来の家に移り、渾身のフラジリティをこめて最後の編集にかかったのが『猿蓑』になる。
 もはや紙幅がずいぶん過ぎてきているので、そろそろ今夜の芭蕉を閉じることにするが、最後に付け加えておきたいのは、これまでもっぱら芭蕉の発句ばかりを扱ってきたが、芭蕉の捌きの名人芸は実は歌仙のほうにこそ、より絶妙な、より痛快な、「ほそみ」も「かろみ」を見せていたということだ。
 なかでも芭蕉七部集は『冬の日』『ひさご』『猿蓑』『炭俵』から抜いた7巻の歌仙をさしていて、かつてぼくが幸田露伴と安東次男の評釈に唸ったのは、それだった。

 さて、ここまできて読み返したら、「さび」や「しをり」についての説明をまったくしていなかったことに気がついた。
 が、まあ、いいだろう。「さび」については第728夜にたっぷり綴っておいたので、それを読んでもらうことにする。芭蕉は「さび」とは句の色であって、ただ閑寂だからいいというものじゃないと言ったのだ。
 「しをり」や「ほそみ」についても話しておきたいけれど、今夜は『去来抄』の次の言葉を紹介して終えることにする。
 「しをりは憐れなる句にあらず。細みは頼りなき句にあらず。しをりは句の姿にあり、細みは句意にあり」。

 もうひとつ書き残したことがあった。それは『三冊子』に出てくる芭蕉の「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」という言葉である。これは何度出会っても、すばらしい教えだとおもう。
 芭蕉は「習へ」とは、物に入ることだと言ったのである。習いながら私から出ることだと言ったのだ。それが松には松を、竹には竹をということである。『三冊子』には「私意をはなれよといふ事なり」というふうにある。
 しかし、芭蕉はそのあとにもっとドキッとすることを言っていた。
 それは、「習へといふは、物に入りて、その微に顕れて情感ずるや、句と成るところなり」という表明である。「微」にあらわれるところに「情」を感じて、そのまま「句」になっていけ、そう言ったのだ。  なんと蜻蛉の翅のように透明な微妙であろう! 畢竟、芭蕉五十年の生涯とは、「微」に入って「微」に出る一句のことだったのである!