父の先見
一般システム思考入門
紀伊国屋書店 1979
Gerard M. Weinberg
An Introduction to General Systems Thinking 1975
[訳]松田武彦監 訳/増田伸爾
ものごとの見方を集め、
これらを組み合わせた編集装置なのだ。
かつてぼくは、このことをワインバーグや
ラメルハートやノーマンに学んだ。
いまではそれが
ぼくのなかでは編集工学に育っているが、
30年前には、その学びの毛布を引きずっていること、
そのこと自体が大事な愛着だった。
久々にふりかえりたい。
この本を紹介するのは、ぼくのシステム思考の揺籃期の秘密の一端を初めてあかすようで、ちょっと羞かしい。けれども、誰にだって「スヌーピー」のライナス君のように、いくら汚くなってもなかなか手放せない柔らかい安心毛布のようなものがあったはずだ。
いまから30年ほど前の、70年代の半ばの30代前半のことになるけれど、ぼくは本書をホワイトヘッド(995夜)の『自然という概念』などとともに“ライナスの毛布”のように引きずっていた。時代は人工知能(アーティフイシャル・インテリジェンス)の狼煙が上がりつつあったころで、ラメルハートの『人間の情報処理』やノーマンの『認知科学の展望』、ファイゲンバウムやミンスキー(452夜)などが咆哮していたが、ぼくはそれらの知識工学や認知科学の背後にある考え方のほうにずっと関心があって、さかんにシステム工学の原像のほうを覗いていたのだった。
つまり本書は、ぼくが編集工学を自覚するずっと以前に、なんとなく「いま夢中になっている編集は、いつかは工学と組まなくちゃいけないな」と感じていたころの安心毛布だったのだ。
もしもぼくが見かけより(笑)ずっとシステムに強いのだとしたら、それはこのときの“ライナスの毛布”のおかげだ。どんな肌ざわりの安心毛布だったのか、少しだけだがチラリズムさせたい。
著者のジェラルド・ワインバーグは、当時は世界一キラキラしていたIBMのシステムリサーチ研究所の中核メンバーで、それから請われてニューヨーク州立大学で最初のヒューマン・サイエンス・アンド・テクノロジー学科の教授となったシステム工学者である。
その後のことはまったく知らないのだが、本書にこめられた意図の配分の仕方、主旨の展開のうまさ、豊富な引用と引例のハンドリングの妙、科学成果とシステム思考のあいだを埋める発想力、読者をまきこむ“お題”の多様性など、そのいずれをとっても当代一流のシステム屋の腕前を感じさせた。
とくに科学的世界観がどのように成立していったかということを、新たなシステム思考のスキームに落としこむときの鮮やかな手立てと手際のよさは、あのベルタランフィ(521夜)やホワイトヘッド(995夜)を凌駕していたほどだった。
とはいえ、本書によってぼくが刺激をうけたことは、その後に編集工学的世界観のスコープになっていったたくさんの可能性のうちの、ごくごく一部の(しかし、とても大事な)発想法に寄与してくれただけなので、今夜、本書だけを詳しく案内するのはやや躊らいもある。
だから、こういうふうにしようと思う。まずは本書のエッセンシャルなところを手短かに伝え、ついではぼくがその後にシステム思想やシステム工学一般から吸収したことをいくぶん列挙し、そのうえでそれらがどのような編集工学の栄養になっていったのかを、ざっとまとめる。そういう手順だ。
最初にワインバーグの一般システム思考の“要訣”を紹介しておく。では、始めるが、われわれが直面している問題は、たいていは次の3つのうちのどれかにあてはまる。
①思考のプロセスを改善したい
②特定のシステムをもっと研究したい
③新しい法則をつくるか、古い法則の整備かをしたい
この絞り方はすばらしい。どうだろうか。諸君はこれ以外にすぐに自分の野心や悩みを思いつくだろうか。思いつくなら考えてみてほしいのだが、もしも諸君に向上心があるか、よりよい仕事をしようとしているか、自分に独自性がほしいと思っているのなら、だいたいはこの3つのいずれかが(あるいはその組み合わせが)、目の前の重要な課題になっているはずなのである。
ワインバーグは、こういうことを当時すでに読み切っていた。ぼくが傾倒したのも無理ないだろう。
では、この3つの野心をどうすればシステム思考に変換できるのか。このうちの②がシステム思考の対象になるというのではない。おっちょこちょいな諸君は、当然に②だろうと思ったかもしれないが、そうではない。これらの課題①②③をすべて充実するためのサポートシステムを準備してみようというのが、ワインバーグの「一般システム思考」(General Systems Thinking)なのである。“すべて”というところが、つまりは“ジェネラルに”というところにあたる。
これで見当がついたかもしれないが、一般システム思考は論理学同様の、ありとあらゆる思考のためのサポートシステムなのだ。実用的にいうのなら、超優秀なジェネラリストを訓練するためのものなのだ。
次に、ワインバーグが考えていた「システム」とはいったいどういうものということだが、一番大事なことは、第1には、システムには「境界」があるということ、第2には、そこにはそのシステムを見る「見方」が含まれているということだ。
ということは、二人以上の者が何かの現象や出来事や機械の動きを観察して、これをなんらかの手段でそれぞれに記述したとして、このときの何人もの見方を含んで、そのうえでその何人もの前に一定の区切られた境界をもって投げ出されていたものがシステムなのである。
わかるだろうか。多様な観察者の記述を吸収することがシステムのAの特徴で、そのシステムを特定の境界で区切っているということがシステムのBの特徴なのだ。つまり「境界と見方を含んだ毛布」がシステムなのである。
したがって、システムは現象や出来事の集合体ではあるが、それは外的に自立しきっているものではなく、つねにそこに観察者や認識者を含んでいるものなのだ。すべてのシステムはすべからく「世界内システム」という毛布なのである。
ただし気をつけなければならないことがある。システム毛布には、そもそも次の二つの相反するような紛らわしい特徴がまじっている。これを警戒しなければならない。どんなシステムにも次の二つの“くいちがい”が潜在しているのだ。
イ・全体は、部分のたんなる寄せ集め以上のものだろう
ロ・部分は、全体のたんなる断片以上のものだろう
一般システム思考では、システムの構築にあたるまえに、このイとロのいずれの判断をもって事態にあたるかを見込む。もしくは、該当システムのどこをイとみなし、どこをロとみなすかを想定する。
この二つのどちらにも与(くみ)せないでいるとき、われわれの思考は必ずや誤りを犯していることになる。ワインバーグはその誤りは、たいていは「合成の誤り」か「分解の誤り」かのいずれかに陥っていくとみなした。そうでないばあいは、こういう諸君がたくさんいるが、目の前のシステムの現場の難しさからただ逃げたくなっているだけなのだ。
ぼくはこれまで何度となく、「編集工学」になぜ“工学”という言葉がくっついているのかという質問をうけてきた。このさい、そのことを氷解させておく。
編集工学の工学(エンジニアリング))とは、「相互作用する複雑さを相手にしていく」という意味なのだ。これを方法の言葉(一般システム思考の言葉)におきかえると、こうなる。編集工学は「複雑な相互作用にとりくむことによって、システムの新たな局面に創発をもたらしていく」。
工学とは複雑なしくみに分け入るということなのである。複雑でなければ工学する必要なんてない。
複雑性とは、事態や現象の「こみいりぐあい」のことをいう。「ややこしさ」のことをいう。キャスティの『複雑性とパラドックス』(1066夜)やカウフマンの『自己組織化と進化の論理』(1076夜)に詳しく書いておいた。すでに70年代の半ば、ワインバーグはシステムの本質がこのような「複雑性」にあることを喝破していた。また、だからこそシステムはそこにかかわる者たちの「知」と、その「知」を扱う手続きとを鍛えていくというふうに考えた。編集工学もまったく同じなのだ。
しかし、従来の知識論とか科学論というのは、そうではなかったのである。もっと分析主義的で、ずっと要素還元主義的だった。
ちょっと一般的な話をしておくが、そもそも科学というものは技術と手に手をとって、自然界や物質界や生物界のさまざまな要素がどういうものであるかを突きとめてきた。酸素も原子核もアミノ酸も、そのようにしてその正体のあらましが解明されてきた。これは従来の科学が得意とする「分析的方法」の勝利であった。
けれども、いくら酸素と原子核とアミノ酸がわかっても、一匹のサルの本質はまったくわからない。つまり要素をいくら数えあげ、それをまぜこぜにしようとしても、サルの特色は生まれない。そうではなくて、サルがサルであることを成立させているすべての周辺状態を前提にしなければ、サルというシステムはわからない。サルは内部だけがサルになっているわけではないからだ。
橋だって、橋だけではできてはいない。川の流れもあるし、風もあるし、交通量もある。それだけではなく、その上をどのような交通物がどんなリズム振動をもって通過するかが関係する。それによっては、頑丈な橋も一挙に落ちる。橋は「橋を含むシステム」からできているからなのである。これについてはヘンリー・ペトロスキー(1186夜)を読んでほしい。
これでややピンときただろうけれど、ワインバーグが語る科学や工学や、ぼくが編集工学がめざす方法は、サルや橋をその要素の合計でとらえようとするような分析的方法ではないのだ。そうではなくて、「構成的方法」なのである。分析的方法はそのなかにいくらでも小さくなって含まれるのだ。
これらのことは、知識や意味を相手にするばあいにも例外なくあてはまる。たとえば、ある文章の意味を知ろうとして、その文章を成立させている言葉の辞書的な定義をいくらつなげても、意味は出てこない。
コンパイルされる定義はいくら多くてもかまわないし(これが分析的方法だが)、それが多ければ多いほどのちのち役立ちはするけれど、もっと大事なことはそのコンパイルされた定義群たちに、新たな「エディットの関係線」を生じさせることなのだ。そのために、その定義群の「こみいりぐあい」や「ややこしさ」に大きくかぶせるシステムというものは何かを、あらかじめ想定することが重要なのだ。
これは、システムとは「あらかじめ構成するもの」だということを意味している。つまりシステムとは仮説的に構成するもの、いわばアブダクションするものなのだ。
このように「要素の集合体」を前にして、あらかじめシステムを想定することが構成的方法であり、一般システム思考のエッセンスであり、つまりは編集工学のスコープなのである。
こういう方法は、今日なお、科学においても技術においても看過されがちだ。とくに残念なのは、世の中の多くの工学屋に構成的方法の本質やアブダクションの意味がわかっていないということだ。
森を取り囲むシステムは、必ずしもこの図のようにはっきりと
境界づけられるものではないが、構造図を前もって設定する事で、
新しい"気づき"やアイデアが生まれることもある。
編集工学のスコープはだいたいそういうことなのだが、それはそれとして、さて、いざシステムを扱おう(設計しよう)とする段になると、ここにさらに補足的に加わらなければならないことがいろいろある。ワインバーグはそれを巧みにいくつかの概念作用に絞って説明した。
第1には、システムの「不完全性」を残すということだ。すでに電磁気学の泰斗ジェームズ・マックスウェルが言っていたことなのだが、どんなに魅力的な要素や作用でも、それを入れこめる容器としてのシステムの器量が整っていないのなら、それらのオーバーフローしそうな要素や作用はいさぎよく捨て去るべきなのである。システムの欲ばった「過剰完全性」はシステム自体を殺すからだ。
第2に、すべてのシステムはとりあえず「ブラックボックス」とみなすことが可能ではあるのだが、だからといって当初に想定したブラックボックスは、システムが構築されるにしたがって、必ずやとんでもなく不備なものになってくる。
こういうときは、情報や意味や知識の流れがブラックボックスのINとOUTの前後でどのような状態(状態関数)をとっているかを観察し、それを新たな「補完システム」(コンプレメンタリー・システム)として分岐して新規導入すべきなのである。いつまでもメインシステムの構築にこだわっていてはダメなのだ。
第3に、システムがひととおり構築されたからといって、そのままでは生きたシステムにはならないということを心すべきだ。そのシステムに観測者や操作者のふるまいが加わらないかぎり、システムはシステムになりえない。
このとき、とても編集的なことをする必要がある。それは、システムにかかわる観測者や操作者のふるまい(手続き)と、システムが内属させ外包させているふるまい(手続き)とを、適切に入れ替えるか、つなげてみるのである。
これをワインバーグは「根源の特性」と「誘導された特性」とを切り分けたり、連結するというふうに言っている。これはかなり重要な指摘だった。ぼくが編集工学的にシステム思考しているときは、たいていこのことを重視している。
たとえば、ナポレオン戦争には「根源の特性」がある。しかし同時にナポレオン戦争によって「誘導された特性」がヨーロッパ中に広がっていた。その両方を組み合わせてナポレオン戦争というシステムが初めて読み解けるのだ。同様に、サクラの開花にもセミの羽化にも、アリストテレスにも日本神話にもモーツァルトの音楽にも浄土教にも、文化人類学にも精神医学にも、白川静(987夜)に対しても松岡正剛(笑)に対しても、「根源の特性」と「誘導された特性」とを切り離さずに見る必要があるわけなのだ。
ざっと以上がワインバーグが強調したことだった。ここまではいいだろうか。それでは、これを今日のシステム工学の、あるいは編集工学の用語や言いまわしに切り替えていくと、どうなるか。今度はそこを簡潔に説明しておきたい。およそは次のようになっていくだろう。
一般にシステムの設計は、「問題をたてる」「概念を用意する」「構造をつくる」「詳細をつめる」「実験をする」「評価をする」などというふうに進む。ごくふつうのシステムづくりでは、
①システムの全体としての境界(boundary)の決定
②そこに入る要素(element)の確認
③全体と要素の相互関係(relation)と
構造(structure)の設定
④多重レベルの階層(hierarchy)の組み立て
⑤入力(input)と出力(output)の想定
⑥システムにおける機能(function)の確定
といった認識をもってとりかかる。
しかしながら、システムというのはどんなに規模や容量が大きかろうと、また小さかろうと、どんなに実用的なものであろうと、もともとは「観念」の牙城のうえに乗っているものであるので、その観念の動向をぐらぐらにしてしまわないために、いくつもの「概念モデル」を用意する必要がある。
ところがここには、良定義と悪定義の問題、根底定義(root definition)の問題、概念モデルと概念活動モデルのちがいの問題といった、さまざまな暗礁が待ちかまえていて、たとえば情報や知識を定量的に扱うのか、定性的に扱うのかといったことや、価値指数をどうつくっておくのかとか、情報の中身の系統と情報の機能の系統をどこまで重ねるのかといったような過不足が、たちまち前面に糜爛してくる。
そこで、システムにはまずは「制約」(constraint)をどのようにつけるのかといった作業が重要で、ついでは「問題や概念をつねに再定義できるしくみや代替させるしくみ」が用意されているべきだということになってくるのである。
つまり、システムでは生成(generating)・修正(modifying)・選択(selecting)の相互の案配こそが生きた様態になるということなのだ。この生成・修正・選択を何度も経験できるようにすることがシステムをダイナミックにしていくのである。
そのためには、手前の「制約」が次の「拡張」をもたらすというしくみに目をむける。そして「制約」と「拡張」のあいだに再定義や代替が躍り出るようにしていくのである。
こういうことを勘案して、編集工学ではこれらを含んだシステム・アプローチのワークフローを、「与件の整理」「目的の拡張」「概念の設計」「設営の構造」「枠組と展開」「方法の強調」「隣接と波及」という7段階に分けてある(7つのイニシャルをとって「よ・も・が・せ・わ・ほ・り」という)。
「よ・も・が・せ・わ・ほ・り」はただ一回きりの進行をあらわしているのではない。認識・思考・表現の進行のなかで何度もくりかえし、この7段階が動いていく。
が、これらのなかで最も重要なのは「問題や概念をつねに再定義できるしくみや代替させるしくみ」というもので、それには初期にどのような概念モデルをつくっておくかに、大きなヒントがひそむことになる。ぼくの場合は概念モデルの初期設計で、できるだけ概念を対発生させるモデルをつかうようにしてきた。
対発生モデルはいろいろある。ふつうなら「精神・物質」「国家・個人」「責任・義務」「植物・動物」「重力・電磁気力」「都市・田園」といったダイコトミー(二分法)によるものが想定できるだろうが、これだけではいけない。これらは曖昧領域を消していく。そこで、たとえば「カオス・コスモス」「正名・狂言」「あはれ・あっぱれ」「来し方・行く末」など、アジア的日本的な対発生概念をふんだんに盛りこんできた。
S:システム、I:境界、E:環境
同じ事を表す概念モデルであっても、表現の仕方は様々ある。
ついで、編集工学的なシステムにあっては、“正解”にこだわらないシステムをつくる心掛けが必要だ。
これをコンピュータ工学用語でいえば、「最適解」(optimal solution)、「満足解」(satisfying solution)、「可能解」(feasible solution)をうまく相互に活用するということになる。とくに3番目のフィジビリティの範囲の設定にコツがある。このことを理解するには、モードやモダリティについての理解を深めるといい。
そのためには、活用者や利用者がシステムに対して何をしてくるのかを想定して、これをあらかじめ「構造探索モード」「関係発見モード」「要素確認モード」などに分けておくことだ。これの3つを別々に定義づけておき、これらを適確に組み合わせるようにしていく。そうでないと、多少は便利なシステムがつくれても、はなはだ単一で一様な退屈なものばかりになっていく。
なぜなら、人間というのは認識や思索や表現のプロセスのなかで、つねに「照応」「確認」「発見」とともに「迂回」「回避」「解消」をくりかえしているのであって、そのリダンダンシーやアローアンスを含んだフィジビリティこそ人間らしい知を成立させているからである。だから、構造的にものに溺れたい知と、関係の発見におもしろさを感じる知と、たんに要素をたくさん確認照応したいと思う知とを、まずは別々に設計し、それらをシステムの中で交差させるべきなのである。
ということで、ここに「ノード」(node)と「リンク」(link)をどのように組み立てていくかという作業の重要性が浮上してくる。
いまやPCがいちじるしく発達して、誰だってノードとリンクをつくるようになっている。しかし、この作業が最もいいかげんになっているともいえる。
2項関係でノードとリンクをつくりすぎていること、そのためループ(roop)やアーク(arc)が単相的になりすぎていること、グラフ理論による反射律や対称律でプログラミングしすぎていること、関係表示行列(valency matrix)に頼りすぎていること、いろいろ原因がある。
しかし一番の問題は、「階層化」と「分類化」にこだわって、本来はさまざまな“類似性”によってノードとリンクが動くようにクラスタリングしなければいけないところを、うまく設計できなくしていることである。これを補うため、しきりに「重み」や「最大距離法」によるクラスタリングもおこなわれているのだが、これらの多くも結局はデンドログラム(樹状図)におきかわる程度のものでおわってしまっている。
ノードとリンクをもっと動的なものにするには、知というもの(知識・情報)をあらかじめいくつかに分けておく必要がある。たとえば、次のように。
a・宣言的知識(declarative knowledge)と手続き的知識
(procedural knowledge)を分ける
b・「事実としての知」「判断としての知」
「連想としての知」を分ける。
c・「パターン・マッチングできる知」と「新たにパター
ンを必要とする知」を分ける。
d・個別知(private knowledge)・共同知(common
knowledge)・世界知(universal knowledge)を分ける。
e・経路ごとに「出発の知」「途中の知」「到着の知」を
分け、これらを分岐させる。
f・知識とメタ知識とを分ける。あるいは表層と中間層と
深層を分ける。
g・eをダイナミックにするために、「埋めこみリンク」
「構造リンク」「連想リンク」を分ける。
少しだけ説明しておけば、eの「出発」「途中」「到着」を分けるのは、われわれの認識・思考・表現には、つねに「出発のレトリック」と「途中のレトリック」と「到着のレトリック」が異なってくるということにもとづいている。
また、gの3つのリンクは、仮に「埋めこみリンク」をページ内リンク(アンダーライン指定など)とすると、「構造リンク」はそこから階層を移動するためのリンクで、「連想リンク」はそれらの移動の途中に分岐できるようにしておくことをいう。
だいたいこういう工夫を、開発すべきシステムの性質や機能に応じてAND・OR・NOTを選択させながら試みるといいのだが、編集工学では、ここを別の観点でも多様化してきた。
もともとのノードとリンクに「位置づけ」「状況づけ」「理由づけ」「見方づけ」「予測づけ」という5つの“漬けもの”を活用させたのである(これも位置・状況・理由などのイニシャルをとって「い・じ・り・み・よ」とした)。
位置をもつノード・リンクとやや広い状況をもつノード・リンクとはちがう。また原因と結果の関係をもつような理由のあるノード・リンクと、そこに見方が加わって成立するノード・リンクとはちがうのだ。その見方のノード・リンクと、それらの見方を全部をつかって予測をするためのノード・リンクはまた異なっていいのである。
図1に、そうしたノードとリンクによってできた「世界の危機を複合的に見るための図」をあげておいた。まことに単純化して図示してある例だが、これでも、サブプライムなどによる住宅問題とジェンダー問題とハイジャックとは結びつきうることが示される。
また、図2は交差点での交通状況をあらわしているのだが、このとき交差点の一方向のみの車のジャッジをシステムであらわすと図3のようになる。これはどんなに単純だと見えるシステムをいくらでも複雑に表現しうるということをあらわしている。ここには、交差点で車がエンストしたり、歩行者が転んだり、急に雨が降ってきたりすることは含まれていない。それらを付加すればわかるように、どんなシステムもつねに複雑なシステムなのである。
しかし、それらは.ノードとリンクの第一歩から組み立てを開始しておくべきことでもあったのだ。
いずれにしても、これらの工夫は最初にのべた「システムには見方が含まれる」ということをあらわしている。ただし、その見方の出入りをうまく設計しなければならないわけである。すなわち、見方によって進む場合と、見方そのものを発見しながら進む方法とを、大胆に組み合わせなければならないのだ。
これを編集工学ふうに言い直すと、「仮説的な駆動」(hypothesis driven)と「条件的な駆動」(condition driven)とはちがったほうがいいということになる。
いまIT社会ではウェブ設計と検索エンジンが大手を振っていて、そのなかでは、もっぱら「条件的な駆動」ばかりが権威になっているけれど、これではおっつけ限界がくるはずなだ。なぜなら、こういう社会はインデックスの数やインデックスの構造だけを争う社会になるばかりで、“コンテンツ時代がやってきた”という謳い文句を掲げながらも、実はいっこうにコンテンツやコンテキストをウェブ上で交わすことにはならないからだ。
とはいえ、「仮説的な駆動」をあらわせるシステムの開発はなかなか難しいと思われている。しかしぼくに言わせれば、そう、思いすぎているにすぎないのだ。その原因は工学そのものにあるのではない。535夜に説明しておいたことだが、「理解のアルゴリズム」と「察知のアルゴリズム」を別々に設計しようとしていないからなのである。
編集工学では「単語の目録」と「イメージの辞書」と「ルールの群」を区別する。これらはシステムが別途準備すべきデータベースに入っている場合もあるし、そのつど機能するように設計されるエンジンになっている場合もある。
なぜそうしていくかといえば、今日のIT社会では「イメージの辞書」と「ルールの群」をほとんど「単語の目録」に還元しすぎていることを阻むためなのである。何でもがインデックスに還元されすぎているようでは、ダメなのだ。社会というもの、「単語の目録」と「理解のアルゴリズム」とだけが結託しているかぎり、何も発展しない。そこばかりを強調していると、ただのクイズ社会、ただの検定ブーム社会、ただの社会保険庁非難社会でおわるばかりなのだ。
理解の社会では遅すぎる。察知の社会が登場する必要がある。そのためには、「イメージの辞書」と「察知のアルゴリズム」が重なりあい、「ルールの群」が新たなコンテキストをあらわすようにならなければならないはずなのだ。
というあたりで、今夜の懐かしい話を閉じることにする。ジェラルド・ワインバーグの一書が若き日のぼくにもたらしてくれた「ライナスの毛布」の柔らかい刺激から、だんだん話が変化してしまったが、まあ、いいだろう。
諸君も、ときには自分の安心毛布を思い出し、そこからの自分の変化や冒険を跡付けてみるといい。
ただ、今夜の話が「システム」をめぐったからといって、これがぼくのシステム論のすべてだとは思わないでほしい。なぜなら、ぼくにとってのシステムとは、たとえば漢字システムであり、文化人類学や民俗学であり、芭蕉の俳諧そのものでもあって、もっともっとナイーブ・フィジカルで、ナイーブ、カルチュラルなものなのだ。つまり、ぼくにとっては文化こそがシステムの対象となるべきもので、そこには比類ないフラジリティが作動すべきものなのである。
しかしながら、そういうシステムこそ、まだ誰も一度もつくりえていないシステムなのである。次のいつかの夜には、そういうナイーブきわまりないシステムについても、1226夜につづいて申しのべたいと思っている。
もっともこれについては、すでにイシス編集学校の「離」(り)のプログラムとそのOBたちで構成する「離想郷」でおこっている出来事がその重大な「しくみ」を構成しつつあるので、どこかでその「離」のことが明かされなければならないのだが、それは当分は秘密のままになっていくので、誰かの何かの本を「千夜千冊」することでなんとか補いたいと思っている。あしからず。