父の先見
現代思想としての環境問題
中公新書 1992
この本は出版されてすぐに読んだ。一読、勇気を感じた。
調べていないのでわからないが、中公新書で「ぼく」という主語で書いた著者も珍しいのではないかとおもう。ただし最初に言っておくが、タイトルには勇気を感じない。べつだんハヤリの用語に配慮する必要はなかった。けれども環境問題を既存の枠組にとらわれず、自分が考えたい思想としての視点をもってぶつけている姿勢は勇敢だし、すがすがしい。
たとえば環境をめぐる議論には「クジラを食べるのはよくない」といった意見が必ずある。著者はアメリカの友人にこのことを批判され、反論する。反論の根拠はクジラを食べるのは絶対に悪いという価値観がどこから出てきたかを問うことからはじまる。この姿勢がいい。あるいは「自然保護は先進国のエゴだ」というもっともらしい批判がよくある。著者は今度はこれは批判になっていないと断じる。なぜなら「自然保護は先進国エゴ以外には存在しないからである」という。この姿勢もいいのだ。
要約すると、著者は環境問題には次の5つの問題が複合しているとする。それが世の中で別々に主張されている。
①国家間の利害調整をめぐる問題
②資源再配分をともなう経済の問題
③人々の生活様式に関与する文化と倫理の問題
④現状の世界を知る上でのデータ分析の仕方の問題
⑤科学のありかたを問う科学論的問題
本書が主に扱うのは④と⑤になるのだが、随所で5つの位置の相互関係が問われる。つまり環境問題とは、著者にとっては“環境問題複合体”なのである。
そのうえで、著者は「地球環境問題は手詰まり状況にある」という判断をくだす。本書が書かれたのは1992年だから、かなり早いジャッジだが、地球温暖化をめぐる京都議定書がいっこうに共通舞台をつくれない現状をみても、手詰まりはあいかわらず突破されてはいない。予言は的中したということだろう。
では、なぜ手詰まりなのか。上記の5つの問題のそれぞれが「二項対立」にはまってしまっているからだ。
昔ながらの二項対立は「自然か、人間か」というもので、そこには人間と自然、生活と動物をどのように連続的に認識するかという視点が欠如する。両者のあいだにはいろいろのグラデーションがあるはずなのに、そういう見方は“中間主義”という非難をうけて、なかなか浮上してこない。
また「伝統か、進歩か」という二項対立も消えない。伝統派というのは、たとえば焼畑農業をしつづけている共同体には実に有効な自然サイクルが動いているのだから、これを現代社会も学ぶべきだといった意見になる。ここから「環境倫理学」も派生し、もっと自然と一体になるべきだというふうになる。さらには東洋思想が絡んで、西洋合理主義に文句がつけられる。
一方、進歩派は環境問題を人間による技術で解決しようとし、たとえば原子力発電などが容認される。また、熱帯雨林の破壊を食いとめるためユーカリを植えたりする。成長が速いからだ。それもいいのだが、多様な森林にユーカリだけの単一的な植生が出現することでおこるディストーションは見逃される。日本の例でいえば、手間のかからない杉を植えるという活動が広まり、森林保水力が大幅に低下し、人々が花粉症に悩まされるということがおこった。
進歩派はそれでもそれらの欠陥をカヴァーすれば前に進めると考える。だからこの両派の対立は埋まらない。
このほか二項対立は「全体論か、還元論か」「国家か、民族か」という面でも深刻になっている。本書はこれらの二項対立の突破を試みた。
ともかく環境問題は四分五裂している。運動として分派しているだけでなく、著者も言うように思想としての統合感を著しく欠いている。むしろ互いに矛盾しあった見方を寄せ集めて「環境問題」とか「自然保護問題」と名付けているという印象が強い。
ぼくが環境問題に刺激をうけるようになったのは、朝日新聞の科学記者だった石弘之さんのおかげである。石さんを紹介してくれたのは学研で世界中のチョウを追いかけていた編集者だった。石さんはその後、岩波新書の『地球環境報告』をはじめ、次々にベストセラーを書き、骨のある見解を譲らない論陣を張ってきた。
が、そういう人は少ない。世の中にはエコロジストと自称する数はものすごく多いが、リチャード・ドーキンスが“ポップ・エコロジー”と揶揄したように、いまをときめくエコロジーは、ぼくがオダムの教科書などで読んだ「生態学」とは似ても似つかないものになっている。
実は「環境」という用語の使い方があやしいのである。たとえばの話、都市住民にとっての環境、田園にとっての環境、スカンディナビアにとっての環境、アフリカにとっての環境、これらは別物である。
また、幼児にとっての環境、病弱者や障害者にとっての環境、哺乳動物にとっての環境、昆虫にとっての環境、タコやクジラにとっての環境、イナゴやノミやゴキブリにとっての環境も、それぞれ意味がある。イナゴが大挙して動くのは農民にとってはとんでもない事件だが、イナゴにとっては生死を賭けた遠征で、だから古代中国ではそのように生死を賭けて大群を移動させられるリーダーのことを蝗(イナゴ)にあやかって皇帝と名付けもした。
人間にとっての環境も一様ではありえない。暑がりと寒がりでも外気の意味は違ってくるし、部屋の中が快適でありさえすれば外はどうでもいいという人もある。が、そのために排出される物質や分子が外気に与える影響は、別の人間が処理しなければならなくなってくる。
もっと深いところを見れば、細胞にも環境があるのだし、遺伝子にも環境がある。本書もしだいにその深いほうへ進んでいく。
ともかくもそういう違いを「一つの環境」で語るのは難しい。それを「地球にやさしい」というだけで十把ひとからげにするのは無理がある。本書の著者も、たとえばガイア仮説による「デイジー・ワールド・モデル」(地球表面のヒナギクによる環境コントロールのシミュレーション)を評価しながらも、どうしてもガイア仮説をまっとうするというなら地球から人類を追い出すという結論になりかねないと言う。
さて本書は、第5章の「DNAと文化」、最終章の「コンピュータ」になって俄然ハイスピードのギアが入る。遺伝子による環境論と、その遺伝子によらない世代間に伝わっていく文化の問題を議論しているからである。
詳しい案内は省略するが、著者はさまざまに複合する環境の基底に「DNAメタネットワーク」というものを想定したらどうかという提案をする。人間はジーン(遺伝子)の乗物に乗って久しいが、ミーム(意伝子)の乗物に乗っても久しく、この両者が分かちがたくなっているからである。
とくに「脳」という新たな環境の事情が見えてきただけに、よけいに両者を分けない舞台を用意する必要がある。それが「DNAメタネットワーク」というものなのである。これなら人間と自然も二項対立をしなくてすんでいく。
しかし、ここにもうひとつ新たな環境が登場してきた。コンピュータである。コンピュータは人間の脳の外側でメモリーを担当してくれる。場合によっては試作や演算の補助もする。一種の人間活動の延長系としての可能性をもってきた。こうなると、環境問題複合体は、氷河から杉花粉まで、チンパンジーからウィルスまで、遺伝子から脳まで、そしてコンピュータからソフトウェアまでを眼下にとらえるべきだということになる。
本書はこの最後の最も仮説に富んだところで、残念ながら紙幅切れになっている。しかし、全体の構成、そこに導入した縦横無尽の知識、そのひとつひとつについての短いが適確な判断、論旨を動かしていく愛嬌のあるスピード、これらは申し分なかった。
ぼくが怪訝におもったのは、これほどの“名著”を環境論者たちがまったく注目できなかったことにある。きっと著者もがっかりしたことだろう。けれども、そういうものなのだ。
佐倉くん、失望したくなるのが世の中というものです。ぼくは人間が人間を含む環境を問題にしたのは、まだ「早すぎる自叙伝」の執筆だったようにもおもいますよ。