才事記

尾崎翠全集

尾崎翠

創樹社 1979

 ――よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあひだに私はひとつの恋をしたやうである。
 こうして『第七官界彷徨』は始まる。
 私は小野町子。北向きの女中部屋に住み炊事を手伝いながら、奇妙な家の奇妙な人物たちの出来事を体験していくのだが、町子は第七官界をなんとか探し出して、これを詩にしてノートいっぱいに書きこみ、それを第七官界がわかるどこかの先生に書留小包で送りたいとおもっている。

 ところが、この家庭というのが変なのである。だいたい一助、二助、三五郎、浩六、当八、九作という名の連中が入れ替わり立ち代わりするし、どうもそのうちの何人かは町子に懸想しているように見える。
 外に向かっては何も勇気の出ない町子は、ひたすら心の中で変な気分ばかりを味わっていく。そういう町子の心の印画紙に映ったものを、尾崎翠は実に不思議な描写のあいだに入れていく。
 たとえば、「このピアノの鍵はひと眼みただけで灰色とも褐色ともいへる侘しい廃物いろ」とか、「私の部屋にはいままで何ひとつ飾りがなかつたので、まつくろなボヘミアンネクタイは思ひつきのいい装飾品となつた」とか、「私は鼻孔からかなり長い尾をひいた息を一つ吐き、ひそかに思った」とか、また「土鍋の液が、ふす、ふす、と次第に濃く煮えてゆく音は、祖母がお萩のあんこを煮る音と変わらなかったので、私は六つか七つの子供にかえり、私は祖母のたもとにつかまって鍋のなかのあんこをみつめていたのである」というふうに。

 いまでは尾崎翠の名を知らない幻想文学派はいないだろうが、本書が1巻ものの全集として刊行されたときは、一部で久々の尾崎翠の復活と騒がれたのを別にすると、多くの者には衝撃的な女流作家の発掘というふうに映った。
 ぼくはもう少し前のことになるが、学藝書林の『全集・現代文学の発見』という格別に編集がゆきとどいたシリーズの「黒いユーモア」の巻で、『第七官界彷徨』に出会ってものすごく驚いた。当時のとびきりの編集者・久保覚による目利きであった。
 その解説を書いていた花田清輝も尾崎翠を深くは知らなかったようで、安部公房の『デンドロカカリヤ』の主人公がたえず植物変形の恐怖におののいているのを引き合いに出し、尾崎翠にも瑞々しい植物感覚があるのではないかと書いていた。

 たしかに植物感覚はある。
 二助は「肥料の熱度による植物の恋情の変化」を二階で研究しているし、その薊(アザミ)を覗いた顕微鏡の中では「でんでん虫の角のかたち」が生えている。「みろ、人類が昼寝のさめぎわなどに、ふつと薊の心に還ることがあるだらう」などという憎いセリフもある。そもそも町子がこの変な物語でゆきついた恋自体が「苔の恋」だった。
 しかし、尾崎翠にあるのは植物感覚だけではなく、まったくおかしな嗅覚でもあって、また遅速感覚ともいうべき事の歩みや眼の歩みの揺蕩(たゆたい)でもあった。耳鳴りも鳴っていた。つまりは自信のない少女がもつ感覚のすべてが突起していたというべきなのである。
 そこが花田清輝にしてわからなかったのは、この時代、まだ少女マンガというものが爆発していずに、花田は竹宮恵子や萩尾望都や大島弓子が実のところは尾崎翠の末裔であることを知る由もなかったからである。これは大目に見てあげたい。
 けれども、その後の世代には、とくに少女マンガを少しでも読んでいる世代なら、小野町子が赤い縮れっ毛の少女で、長兄の一助が精神分析医、次兄が家の中で肥料研究に余念のない二助、従兄の三五郎が音楽受験生という設定を聞いただけで、ハハン、これこそはあの少女マンガ特有の疼くような感覚世界の原型であるのだということが、すぐにピンとくるはずなのだ。

 尾崎翠の文学は、まさに第七官界を求めてさまよっている。それを彼女の好きな言葉でいえば「哀愁」の直前の音信に耳を傾けるということなのである。または「二つ以上の感覚がかさなつてよびおこす哀感」への投企なのである。
 なぜこのような感性の極北をたゆたう作家が誕生したかということを、時代を知ってみるともっと驚くにちがいない。
 尾崎翠が生まれたのは明治29年である。鳥取県の岩井で生まれ、なんとその名も面影小学校という名の学校に通っていた。父親はそこの校長だったが、翠が鳥取県立女学校に入るころには急死した。これがきっかけで翠は少しずつ変わる。そんな翠を文学の香りに誘ったのは押川春浪主筆の『武侠世界』と河井酔名が編集していた『女子文壇』だった。後者には与謝野晶子、尾上柴舟、広津柳浪らが選者となっている投稿欄もあり、翠はこれらに胸ときめかせたようだ。
 やがて代用教員となって働きはじめた翠は、明治39年に創刊された『文章世界』に投稿を試みて、しだいに文体を練る。すでに「細い銀線のふるえのような情調である」「美しい絵具がリスリンに溶解されていくやうな情調である」というような評判がたっていた。先輩の投稿者には吉屋信子がいた。
 当時の翠の文章では、ぼくは次の『ねざめ』が気にいっている。声を出して読んでみられたい。大正15年、20歳のときの文章で、これで全文である。

 かすかな鐘の音がひびいてくる。何処ともしれないところをさまよひ歩いてゐた者がなつかしい場所にたどりついたやうなおちつきが私をとりまいてゐた。
 夢のうちのあの淋しさ。けれどもさつきの鐘の音もやはり夢の世界から来たものか。海なりのおとに気がつくと私はいそいで半身をおこした。黒いピンはゆふべのままに枕もとの本の上においてあつた。それを取つて髪にさしながらいつまでも床のあたたかさからはなれたくなかつた。
 細いみみなりが針のひびきのやうにわたしの頭をよぎつてしまふと、昨日までのさびしさがまたくりかへされるのだと思ひながら、私はきものに手をかけた。

 このあと翠は東大農科で肥料研究に夢中になっていた三兄(『第七官界彷徨』の二助のモデル)を頼って上京、日本女子大国文科に入る。同級生に中条百合子、村山リウ、網野菊、湯浅芳子がいたというのだから、これは励みになったことだろう。
 その後の翠のことはいちいち追わないが、作品を書きつづけ、文人たちとの交流もしばしば愉しんでいる。とくに年下の林芙美子からはめっぽう慕われたようで、長谷川時雨が『女人芸術』を創刊すると二人して原稿を寄せた。そのときの林芙美子の日記ふうの作品が『放浪記』の第一弾だった。
 ともかくも翠の文章の狙いは不思議なものだった。当時の誰もが思いつかなかったもので、いまでは誰もがそれを独自の感覚とよぶように、自分の感性の漏斗に浸ってきたものだけを書いた。『少女の友』に発表された『少女ララよ』など、ベネチアの盲目の少女ララと詩人アントニオの美しい奇譚だが、これなどいまでもどの少女マンガ誌にも載っている物語である。が、尾崎翠はそれを昭和2年に書いたのだ。
 かくて35歳になって『第七官界彷徨』が少しずつ発表され、反響をよぶ。

 晩年の尾崎翠は一人ぼっちであった。幻覚症状や頭痛や耳鳴りに悩まされ、兄に連れられ鳥取に帰ったまま二度と東京にも文壇にも登場しなくなった。
 ふたたび尾崎翠の名が聞こえだしたのは、大江健三郎と石原慎太郎がデビューしたときに、その感覚を巌谷大四が朝日新聞に「第七感の文学」と名付けたときからである。昭和33年のことだった。そしてそれからまた10年がたち、『全集・現代文学の発見』に尾崎翠が蘇る。稲垣真美が翠をモデルとした芝居『花粉になった女』を書き、それが俳優座で上演されたのは昭和49年である。芥川也寸志が翠の詩を劇中歌に作曲し、観客の涙を誘った。

おもかげをわすれかねつつ
こころかなしきときは
ひとりあゆみて
おもひを野に捨てよ

 この「おもかげ」は面影小学校の思い出でもあったろう。そう思いたい。しかし、ここで尾崎翠を終わっては、彼女の独壇場がまだ伝わらない。
 ぼくは急いで次の『春の短文集』をお目にかけて、この早すぎた少女の面影を諸君の前に置き去りにすることにする。

何処かの池で水すましが春をくるんくるん舞つてゐます。
白い水に金いろの水すまし。
頭を四つ振つてまだ水すましが去らない時は、
おお、チヤツプリンの新作が見たいや。

参考¶尾崎翠の作品はその後さらに完全に編集されて『定本尾崎翠全集』上下(筑摩書房)となった。尾崎翠についてのまとまった評伝や評論はまことに少ないのだが、ごく最近に、群ようこが『尾崎翠』(文春新書)を書いた。「私は『第七官界彷徨』を読んで、日本の小説はこれ一作でいいとすら思ったことがある」と結ばれている。