父の先見

岩波文庫 1952
十数年前のこと、京都の記念事業の仕事をしていたときの年の瀬、ある老舗の主人から角屋(すみや)に行きまひょかと誘われた。「角屋ねえ、元禄の塵・享保の塵」と言ったら、きょとんとされた。「島原の角屋の塵はなつかしや元禄の塵享保の塵」のことである。吉井勇だ。
ほお、吉井勇でっか。元禄の塵・享保の塵、ねえ。うまいこと歌わはりますな、そこまではよかったが、お茶人さんでしたかな、どこやらのご主人でしたかには、こちらの口が止まった。仕方なく、「雨降りて祇園の土をむらさきに染むるも春の名残りなるかな」や「先斗町の遊びの家の灯のうつる水なつかしや君とながむる」をあげた。それでも埒があかないので、「かにかくに祇園は戀し寝るときも枕の下を水のながるる」の、あの吉井勇ですと言ったら、ああ、あれは有名ですなとやっと合点された。
頽唐派という言葉はいま、死語になっている。豪宕(ごうとう)、放肆(ほうし)などという言葉も使わない。
これは吉井勇の第一歌集『酒ほがひ』に寄せられた賛辞から採った言葉だが、これらの言葉とともに吉井の歌自身がすっかり忘れられている。これは、よくない。
できれば、吉井にしか歌えなかった歌を友と交わしあいたいのに、そこまで話が行かないどころか、手前で気散じる。手前というのは、たとえばこういう歌だ。
山岳や海洋に憧れ、酒と職人を愛した吉井の歌の面目が躍如する。これが豪宕であり、放肆である。しかも20代前半の歌だった。祇園や先斗町の歌ばかりが、吉井ではなかったのだ。
しかし、こういう歌をいくつか例に引いてたところで、やはり吉井勇の心意気は伝わらないだろう。まずもって吉井の時代が見えてはいない。
吉井は大杉栄・北原白秋の1歳年下で、明治19年生まれだから、啄木・谷崎・平塚雷鳥・松井須磨子とは同い歳、折口信夫・中山晋平の1歳年上になる。伯爵の次男で、高輪の江戸っ子として育った。
父親は水難救済會という団体の会長をしていて、歌のことも団体の幹事役だった石槫千亦から示唆を受けている。そういう吉井が若き日に与謝野鉄幹の新詩社の歌門「明星」を叩いたのである。
入門を願う吉井に、鉄幹は「歌は禅の如きものに御座候」と返事を書いた。この鉄幹の一行に心底、電撃が走ったという。吉井はたちまち「明星」の人となる。そこに白秋も啄木もいた。白秋と吉井は同じ早稲田の学生だった。
明治40年の夏、鉄幹が白秋、木下杢太郎、平野萬里、吉井を引き連れて、厳島・柳川・佐世保・平戸・天草・島原・阿蘇をへて、また白秋の故郷の柳川に戻るという3週間の旅をした。
この旅行は日本文学史上にも有名なもので、5人が代わりばんこに歌や詩を詠みこんだ紀行文は『五足の靴』として、東京二六新聞に連載された。のちに野田宇太郎が名著『日本耽美派文学の誕生』(河出書房)の冒頭に高らかな耽美マニフェストのように詳細解説した。
これで白秋には白秋の、吉井には吉井の、杢太郎には杢太郎の画期がやってきた。鉄幹が34歳であったほかは、みな学生である。
ここで急に私事を挟むことになるけれど、実はこれを書き始める前の3~4時間、恒例の学生レポートの採点をやっていた。ぶっつづけに学生の課題レポートを読むのは修行のようなものであるが、松岡ゼミ生のレポートを最後に見たのがいささか救いになった。
かれらは挙って、松岡ゼミとの出会いを“人生最大の選択”だったというようなことを書いていて、20歳前後で“人生”もあるまいとは思うものの、ぼくとの日々が、異様に過剰で、香りが高くて、ハードエッジなのに癒されて、自分の可能性について二度とおこらないような転機をもらった、それでクラクラしたのがたまらなかった、というようなことを書いていた。
はたしてこの学生たちに白秋や勇や杢太郎がいるのかどうかはわからないが、ふと『五足の靴』が思い合わされたのだ(来週に卒業ゼミ旅行をすることになってもいる‥‥)。
ともかくも、白秋や吉井かれらはこれで新詩社を“卒門”し、鉄幹の「明星」終刊のあとの歌壇を仕切る鴎外の「スバル」(昴)に移るとともに、「パンの会」を結成した。三木露風らも加わった。それが同じ年の冬のことだった。
この直後に吉井の歌魂の火が吹いたのである。酒の香りに煽られるような青い火だ。こうしてさきほどの『酒ほがひ』の発表になる。
白秋・吉井・杢太郎を擁した「パンの会」については、ここでは省いておく。それこそは頽唐派の南蛮趣味と大正日本の未曾有のエキゾティシズムの爆発である。そこを見なくては、夢二も高畠華宵も、それから鈴木清順も、ない。
だいたいはこんな時代の出来事なのだが、しかしながら、ここまでは、ぼくが吉井勇にぞっこんになっていった感覚とは、あまり関係がない。これらはぼくのぞっこんの手前の出来事にすぎない。
実際にも、『酒ほがひ』の歌だけが吉井の真骨頂ではなかった。今夜はそのことを言いたかった。ぼくが吉井をおもしろいと思うのは、吉井の独壇場は吉井の歌が夥しい固有名詞の織り込みにあったのである。京洛の片隅で友と交わしたいと思う吉井勇は、ここからなのだ。
まず、こういう歌がある。
これらは先達の文字の風情に見とれる歌の3首だが、小野道風の玉泉帖が字ごとに飛ぶといい、本阿彌切の尊さといい、風とも水とも見える良寛の書といい、こういうことを歌にしようとしている吉井がいとしい。
良寛については、「良寛はおもしろきかな世をわびてみづからとなふ襤褸(らんる)生涯」というのも、あった。
これは歌の上手下手を離れた者が、その眼殖と雅致をもってその文知の面影に寄り添い、いわば「うってつけ」というものを詠んでみせたものなのである。
人名を織り込んで、その風情の「うってつけ」を詠む吉井の歌は、実に多様に及んだ。侘び・寂び・数寄の結構についても、自在な印象を詠んだ。いや、まさに吉井の”寄る辺”がここにあらわれた。
たとえば、「相阿弥がつくりし庭の寂しさをふと感じつつ山を見上げぬ」「世に盛るさかしらの茶は知らねども利休の心いささかは知る」「うれしきは君にもあらず遠州が好みの石の置きどころかな」といったふうに。遠州の歌がいい。
「うってつけ」とともに吉井が歌ったのは「有り難し」というものだろう。それが俳人や歌人についてよくあらわれた。ぼくは一茶の歌を読んだときは、跪(ひざまづ)きたくなったほどだった。
いま、ぼくは吉井の自選歌集だけから拾っているのだが、厖大なその歌には、さらに多くの風流隠士や数寄の文人たちが詠みこまれている。こういう歌を次々に詠めるというのは、おそらく吉井をおいてほかにない。もしいるとすれば、久保田万太郎が対抗馬だが、この「面影うってつけ」や「その意気有り難し」については、やはり吉井に一歩も二歩も譲っている。
◎近松の世話浄瑠璃のめでたさを こうして、吉井の趣向はとどまるところを知らない。ぼくがメモしてきた宗教者たちについての歌には、こんなものがあった。
ここでは空海も道元も日蓮も、みんな「うってつけ」であり「有り難し」なのだ。
吉井の歌がさらに冴えわたるのは、自身の周辺に出入りした親しい者たち、また早逝していった者たちを歌うときである。ここには吉井でなければ歌えない愛惜と友誼が見えている。
◎一葉の書きし明治の世を思へば これで、ぼくが吉井勇について言いたかったこともだいたい伝わったかと思う。やっとすっとした。
そこで最後に吉井が愛した「比叡おろし」をめぐった歌をあげておく。「比叡おろし」はぼくが学生時代に作詞作曲した歌のタイトルでもあるが(六文銭・小林恵子・由紀さおり・都はるみが歌った。五木寛之がこの歌のファンであったことは以前に本人から知らされたのだが、ごく最近、笑福亭鶴瓶が『比叡おろし』が愛唱歌としていたことを知って驚いた)、そんなことをしたくなったのは吉井勇のせいだったのである。