才事記

三教指帰・性霊集

空海

岩波書店 1965

 30歳代のおわりころ、空海の夢をたてつづけに見た。樹木の中にいたら、子供が外から樹皮に電気ドリルで文字をコツコツ彫りはじめた。そこへ弘法大師がやってきて子供を褒めた。そういうような夢のいくつかである。
 そんなことがあって1984年に『空海の夢』(春秋社)を書いた。空海については20代に『声字実相義』を読んだのがきっかけでいろいろ読んではきたが、司馬遼太郎が『空海の風景』を発表したあとだったこと、かつ、ぼく自身も工作舎を離れて最初に書きおろす本だということもあって、かなり入念な構想を練った。叙述の仕方も章立てによって少しずつ変えた。仕上がりはいまでもけっこう気にいっている。
 刊行まもなく、そのころまだ面識のなかった宮坂宥勝さんが「週刊朝日」に、すでにいろいろ教えを乞うていた松長有慶さんが「朝日新聞」に、秋月龍珉さんが「中外日報」に、かなり好意的な書評をしてくれた。
 そこに何を書いたかということを、全体は28章にわたっているのだが、『三教指帰』にかかわる第9章までのぶんまでを、ごくごく短縮してかいつまむ。なおここでは都合により岩波版『日本古典文学大系』を採ったので、空海の厖大な漢詩文をのちに真済が編集した『性霊集』(遍昭発揮性霊集)も一緒に一冊になっているが、これはここでは言及しないことにする。

 さて『空海の夢』の冒頭、モンスーン下における砂漠型の二者択一の行動思想に対して、森林型の沈思黙考型、いいかえれば優柔不断型のインド思想というものがあるということを指摘した。
 これを一言でいえば「坐って考える」という思想が、アジアになぜ生まれたかということだ。
 砂漠型の行動思想では坐ってなどいられない。オアシスを求めて右へ行くか左へ行くか、つねに決断が迫られる。まちがった判断をすれば、それはそのまま死につながる。ユダヤやアラブやイスラム諸国の底辺には、いまなおこの二者択一的な行動選択がある。旧約聖書やコーランのスタイルだ。神や指導者もこのばあいに何人もいたのでは困る。だから一神教が多くなる。
 他方、森林では雨季が多く、こういうときに焦って動いては事態の成り行きが眺められない。むしろじっとしているほうがよい。また森林では火の意味がきわめて大きい。そこで森林的東洋では(ガンジスの森がその代表のひとつだが)、「坐」の思想のほうが胚胎し、時間をかける瞑想が発達した。乾季に歩き、湿季に坐るというやりかただ。また火神アグニの信仰が重視された。
 これがヴェーダや仏典に説かれたスタイルである。こういう風土では森の多様性にしたがって多くの神が必要になる。東洋が多神教になったゆえんであろう。
 その多神多仏型の思想が流れ流れて分化して、結局は江戸の仏教学者の富永仲基の言い草によれば、インドは「幻」、中国は「文」、日本は「絞」というような仏教思想の特質が流露していった。密教はこのヒンドゥ・ブディズムが分化していく途中に南インドから中国で発酵し、さらに日本で結晶したものである。

 そもそも仏教とはせんじつめれば、意識をどのようにコントロールするかという方法のことである。暴れる意識、疼く意識、狡猾な意識をいったいどうすれば鎮めることができるのか。そのコントロールの方法によって仏教各派に特色があらわれる。
 では、その意識がどこから発生したのかといえば、当時は脳のことまでは理解が及ばなかったものの、生命現象の一部が意識になったとは理解された。プラトンは胆汁さえ思考の要因であると考えたし、ヨーガでは体の各部にチャクラというものがあると考えた。いずれにしても、そのような生命意識の一部が心や精神や欲望という“お化け”をつくっていったと考えた。
 生命の一部として突出した意識は、自分(=意識の起源)がよってきたる生命の本来を庇(かば)うとはかぎらない。目の前の欲望を消費し、市場を育くみ、ときには自らの死をさえ選択するような意識の動きも強い。初期の宗教者はこのような問題にぶつかって、みんな苦労した。
 しかし、生命そのものは自然からなんらかの理由で突出してきたものであるはずなのだから、母なる「自然の森」や「生命の海」のほうに向かう意識のはたらきもあってよかったのである。コスモスをもつ意識があってよかったのだ。
 ぼくはそこらあたりのことを、こう書いた。

生命の一部として突出してきた意識が、虫や鳥にはありえなかった「自己の未来」を発見し、それが端的には死の輪廻にほかならないことをも知って、哲人たちは「死の到来」の前に、意識の内実をふたたび生命のよってきたる母体、すなわち大自然や大宇宙と合一してしまうことができるのではないかと構想したのであった。

 そこで古代インド思想では、すなわちヒンドゥイズムやブッディズムでは、そういう大なるものに意識が向かうものを「梵」(ブラフマン)とみなし、小なるものに向く意識を「我」(アートマン)とみなした。
 ただし、これを分断したままではいられない。なんとか梵と我をくっつけて“梵我一如”にしたかった。
 そのことをじっくり試みるべく案出されたのが、いまでは当たり前になってしまった「出家」というライフスタイルである。その方法をめぐってバラモンのヒンドゥイズムに批判をもったブッダから「大乗仏教」が生まれた。
 けれども、日々の煩悩が出入りする「我」についても放ってはおけない。なにしろ自我意識なんてなかなかなくならない。ジコ虫とはそういうものである。そこで、そういう面倒な「我」をこそもう少し解明したいという一派もあって、これが「小乗仏教」を形成していった。唯識などはそのようなひとつである。そのほかいろいろな分派がそれぞれ出るうちに、5~6世紀ごろに密教が名のりをあげた。とりあえずは、ざっとこういう順番だ。

 以上は、わかりやすくいえば「意識は進化するのか」「意識は高次化しうるか」という流れで仏教を捉えた見方になる。実は空海はそこに賭けていく。
 佐伯真魚としての空海が生まれ育ったころの日本の仏教は、奈良末期の混乱のなかでひたすら威信にすがったり、いたずらに快楽や安寧を求めるだけのものになっていて、とうてい「意識の高次化」などを構想するべきプログラムもなく、また、そのような修行を体験させる場もなくなっていた。若き空海が山林修行に賭けたのは、こうした旧仏教とは別の方法だった。
 すでに空海は「意識の進化」を説明すべきひとつの武器があると感じていた。それは「言語の力」というものだ。
 『空海の夢』にも詳しく書いたように、真魚こと空海が生まれた四国讃岐の「佐伯」の家は、日本全国に係累をもつ“コトダマの一族”である。青年空海はこの血の背景をよく生かして、むろん持ち前の資質にもよるのだろうけれど、漢籍を読み尽くし、言語による多様な思索に長けていった。虚空蔵求聞持法による記憶術の修行をしたというのも、この言語編集力の基礎技術をつけるためである。虚空蔵求聞持法は、日光二荒山を拓いた勝道や吉野の比蘇寺で修行した神叡が妙法を得たという噂のキラーソフトだった。
 もうひとつ若き空海が熱中したのは、漢字と梵字と唐語のマスターである。音博士など何人かの専門家についたとおもわれるが、その一人が浄村浄豊だったことはわかっている。

 それで空海はどうしたか。
 15歳くらいで平城京の大学に入っている。そのころの入学試験は旬試と歳試があって、「読」と「講」に分かれていた。「読」ではテキストの文字1000字ごとの3字が隠されて出題され、それを回答しなければならず、「講」では2000字ごとに口頭試問にこたえなければならない。
 明経科の博士筆頭(大学頭)は岡田牛養だった。同じ讃岐寒川の出身だった牛養は空海に目をかける。直講の味酒浄成も五経の一部始終をたたきこもうとした。
 しかしこれらは、すでに叔父の阿刀大足などから十分に教わっていたこと、空海はこれをなんなくこなし、論語・孝経・礼記・春秋左氏伝そのほか9科目をマスターする。あっというまのことだったろう。ところが空海はそうしたテキストに正直に感応したというよりも、実はそこに付与されている「註」にこそ関心をもつ。
 久木幸男の『大学寮と古代儒教』によると、そのころの大学のテキストは『春秋左氏伝』をのぞいて、すべて鄭玄(じょうげん)の註をつかっていた。鄭玄とは何者か。空海は鄭玄の比較と折衷をめぐる方法論に惹かれ、そのグラマトロジーに没頭した。

 ところで、明経科の授業につかわれたテキストのようなものを儒教的な「経書」というのだが、空海はそれ以外の道教的な「緯書」をも読み尽くそうとしたふしがある。正典とは認められていないテキストということで、神仙タオイズムや陰陽タオイズムに関する雑多な漢籍が多かった。
 すでに日本では吉備真備のような陰陽道の研究者も出ていて、藤原仲麻呂は陰陽寮を太史局と改称して、国家重大事を緯書によって記録し判定するという視点を導入していた。
 空海はこのような流れも逃さなかったのだ。この天才には最初から、インサイダーの思想アウトサイダーの思想の両方を必ず点検していくというバランスが備わっていたというべきだろう。緯書を読み、タオイズムに関心をもったのはそのせいだ。
 そして、そのようなバランス探求の姿勢こそが早々の「密教発見」につながったのである。

 そもそも空海が奈良に来て注目したのは華厳経である。しかし当時の華厳経は、東大寺(総国分寺)を中心にしたホストマシンのための総合データベースのようなもので、その教理をあきらかにできる学僧を欠いていた。空海が華厳の教理にめざめるのは長安で般若三蔵らに出会えてからである。けれども空海は、早くから華厳の世界観には注目していた。この予測こそ鋭かった。
 ほかにも空海が注目したものがある。雑密(ぞうみつ)である。のちに純密と区別して中国から流れこんできた雑多な初期密教経典のことをいう。そもそも東大寺の別当となった良弁(ろうべん)がこの雑密の修行者だった。
 空海はそのことを知って、なるほど華厳と密教はどこかでつながりがあるにちがいないと察知したにちがいない。この察知がものをいう。『空海の夢』では後半の第26章に「華厳から出て密教に出る」という一章をもうけ、華厳のヴァイロチャーナ(ビルシャナ)がマハーヴァイロチャーナ(大日如来)に劇的に審級していった謎を解いておいた。

 しかしここまで視野を広げてみると、何も窮屈で貧弱な大学や宮都にとどまっている必要はない。それに時代社会そのものが大きな変転をとげつつあった。
 だいたい政治の舞台が平城京から長岡京に移り、さらに山城(山背)の平安京に移転しようとしていた。そこへもってきて、あの大伴家持が失脚した。大伴氏は佐伯氏とともにコトダマ一族につらなる名家で、互いにトモ氏・サヘキ氏とよびあう仲である。そのトモの首領の家持が左遷させられた。これはおちおちなどしていられない。
 一方、大学では、明経科の学生に呉音を禁じて漢音だけを使うようにという強い指示が出た。言葉に敏感な空海には、これは何かの大きな変化の前触れに見えた。さらに青年たちが奈良を離れて山林に修行しているという動きが目立ってきた。これはさしずめ都会に厭きたヒッピームーブメントのようなものであるが、なかで聞きずてならないのは、最澄という青年僧が山城の鬼門にあたる比叡の山中に一乗止観院という庵を組んだことである。

 空海はめぼしい情報を集め、大安寺の戒明や三論宗の勤操を訪ねて、時代の変化や仏教の行方を組み立てる。けれど、そういうことをしても埒はあきそうもない。
 ついに空海はドロップアウトを決意する。大学を捨て、山林に飛びこむことにした。
 これこそは空海の“山林出家”というものである。自身のライフスタイルを、インドに発したブッダに照準をあわせ、その出家者の末裔に連なることを選んだのである。正式な出家でない。そもそもブッダだって勝手に山に入ったのだ。
 空海は勇んで畿内四国の山野を跋渉し、虚空蔵求聞持法を駆使して森羅万象・経書緯書を体に巻き付けていく。

 こうして24歳の空海が、いよいよ最初の著作の『三教指帰』(さんごうしいき)にとりくむことになったのである。
 延暦16年、西暦797年のこと、中国では澄観が華厳哲学を、陸羽が茶経を仕上げ、バグダッドにはハルーン・アル・ラシッドの大図書館「知恵の宝庫」が完成し、アーヘンにはカロリング朝が設けられてアルクインの宮廷哲学が開花していたころである。空海も負けていなかった。
 この著作は戯曲仕立てのレーゼ・ドラマというべきもので、当初は『聾瞽指帰』(ろうこしいき)と表題されていた。漢の枚乗「七発」に「瞽(めし)いたるを発(ひら)き、聾(みみつぶ)れたるを披(ひら)く」とあるのに由来する。
 五段構成になっている。亀毛(きもう)先生論、虚亡(きょむ)隠士論、仮名乞児(かめいこつじ)論、観無常賦、生死海賦の、三論二賦だ。これまで空海が収集検討した諸家諸見に対するすべての反駁は、ここに爆発し、結晶した。
 ここで空海は何を書きたかったのか。阿刀大足や岡田牛養や味酒浄成らには儒教批判としての亀毛先生論を、ただ神仙に遊ぼうとする青年たちには道教批評としての虚亡隠士論を、そして大安寺や東大寺の僧と我と我が身の佐伯真魚に対しては、仏教思想仮説としての仮名乞児論をつきつけたのだ。
 空海は執筆にあたっての感情を、序文に「ただ憤懣の逸気をそそぐ」というふうに書いている。かつて『史記』の著者がやはり「憤懣を舒ぶ」と自序にしるしたものだった。かくて天才の憤懣の連爆はとどまるところを知らないものとなっていく。

中央にイエズス会の紋章が配された書見台

『聾瞽指帰』

 八五〇〇字の漢文である。それがみごとな四六駢儷体で綴られ、驚くほどの該博の知が縦横に披瀝されていく。その大半は中国の漢籍漢文漢詩からの自由自在な引用になっている。
 その一字一句の出典を調べた福永光司さんによると、とくに『文選』『芸文類聚』『初学記』を辞書代わりにフルにつかい、そこに『史記』『漢書』『三国志』『世説新語』『顔氏家訓』などからの語句を組み入れ、さらに儒教論では四書五経を、道教論では老荘をはじめ『准南子』『抱朴子』を駆使し、仏教論では『法華経』『金光明最勝王経』をそうとうに精読している跡が見えるのを筆頭に、ほとんど南都六宗の経典のすべてが動員されているという。もって恐るべし。
 ユーモアにも富んでいる。登場人物が5人いるのだが、最初に舞台があくと中央に館がセットされていて、そこでは主の兎角公子が母方の甥の蛭牙公子の粗暴・賭博・女色・傲慢におよぶ非行ぶりに手を焼いている。そこで3人の賢者をよんで蛭公に教唆教誨をたれてもらおうというのだが、その主が兎角(とかく)で、甥が蛭(ひる)なのである。
 招かれた儒者の亀毛先生は舌で枯れ木の花を咲かせるほどの弁舌人士、タオイストの虚亡先生は蓬髪でボロボロ、なんであれ仙人の身に託して話す。仮名乞児はツルツルの頭でおんぼろ錫杖と破れた木鉢を手にする乞食のような坊主。空海はこのように登場人物すべてを徹底してカリカチュアしてみせた。
 もっともこの配役立てにもモデルがあった。司馬相如の「子虚上林の賦」というものだ。そこに子虚・烏有・亡是の3人が登場していた。

 空海の『三教指帰』はさまざまな意味において日本思想の開闢を告げるものである。
 第1に、日本で最初の儒教論を萌芽させた。このことについてはほとんど指摘がなかったことだが、これはもっと評価されてよい。中世に“和学としての儒教論”が出るまで(これを和儒というのだが)、日本は儒教思想を儒学としてうけとめたことはなかったのである。それをわずか24歳の空海がやすやすとやってのけていた。
 第2に、タオイズムについてこれほど深い理解を示した著述は、その後の日本思想界にはまったくあらわれなかったといってよい。ぼくも厳密には調べていないけれど、おそらく明治の岡倉天心や内藤湖南まで、日本人はタオイズムを理論的につかめなかったのではあるまいか。
 第3に、ここには最初のブッダ論がある。仮名乞児に託して語っているものであるが、空海がブッダに連なりたい者であることが断固として示されている。『三教指帰』が出家宣言書であるといわれるのは、このためだ。
 第4に、『三教指帰』は日本最初の「無常の思想」の表明をなしとげた。「無常の賦」という漢詩も挿入されている。これは聖徳太子の「世間虚仮・唯仏是真」につづく表明である。日本仏教がつねにこうした「無常」を媒介にして転換していったこと、すでに太子と大師において実験済みだったのである。
 そして第5に、ここには空海の圧倒的な編集方法が縦横無尽に駆使された。これこそはのちの空海がいたるところで発揮する“方法の魂”の実験だった。それを一言で特徴づけるなら、やはり「断片から総合へ」「一から多へ」、そして「いかなる部分にも全体を響かせる」というものだった。

 こうして『聾瞽(三教)指帰』を書きあげた空海がどうしたかというと、そこからの消息がまったくつかめないままなのだ。次に空海の事績が記録にあらわれるのは、延暦23年(804)に藤原葛野麻呂を大使とした遣唐使船に乗船したということなのだ。
 それが31歳だから、実にそこには7年の空白がある。空海にとっての7年はわれわれの7年ではない。なにしろ20年間の入唐留学をわずか2年に圧縮できる人である。よほどの7年が送られたといってよい。
 では空海は何をしていたのかということは、われわれがその後の空海をどのように理解するかということにかかっていく。ぼくにもいくつもの想定はあるけれど、それは『空海の夢』をじっくり読んでもらって判断してもらいたい。
 いずれにしても、空海思想の原点は『三教指帰』にすべてある。ここでは、それを日本最初の「総合編集思想の試み」と言っておくだけにする。

参考¶『三教指帰』だけを本にしたものはない。本書の岩波版のほかに、華麗極上の四六駢儷体の読み下しを読みたいなら、山喜房の『弘法大師著作全集』第3巻がいいだろう。ぼくのばあいは、福永光司による詳細な註が魅力的な「日本の名著」第3巻の『最澄・空海』にずいぶんお世話になった。さらに原文と現代語訳がぴったり比較対照できるようになっているのは、筑摩書房の『空海全集』第6巻である。『聾瞽指帰』を村岡空さんが、『三教指帰』を山本智教さんが訳している。このほか空海についてはいまや夥しい評伝や評論が出回っているものの、筑摩の全集を読む以外は、僭越ながら渡辺照宏・宮坂宥勝『沙門空海』(筑摩叢書)、司馬遼太郎『空海の風景』(中央公論社)、松岡正剛『空海の夢』(春秋社)だけで十分なのではないかとおもう。なおぼくは、密教21フォーラムという密教ニューウェーブなグループの依頼のもと、空海密教のデジタル・アーカイブと、ビデオ版「父なる密教・母なる空海」(仮称)を制作しつつある。おたのしみに。