父の先見
ある映画監督の生涯
映人社 1979
これは溝口健二をめぐる39人の作家や脚本家や役者たちのインタヴューを収めた記録である。インタヴュアーは新藤兼人。新藤はインタヴュー中にカメラをまわし、同名の映画をつくった。
映画のほうは一人一人のインタヴューが分断され、たくみに編集されている。一方この本のほうは、その記録を一人ずつの語り口のまま残している。テープそのままのベタおこしではないだろうが、それに近いもの、口調の言いよどみなどもいかされたものになっている。
どちらもおもしろいが、全記録という意味で、また語り口を活字で読む味という意味では、本書は得難い一冊になっている。
なにしろ田中絹代・京マチ子・森赫子・山田五十鈴・柳永二郎・入江たか子らの役者たちから、依田義賢・川口松太郎・永田雅一・助監督たち・カメラの宮川一夫・大道具の大野松治の裏方まで、大半の生き残りのインタヴューが収録されている。
この記録が何を示しているかは、新藤兼人自身は何も言おうとしていない。そのぶん溝口健二の人間のかたちが浮上するにちがいない、そういう構成だ。そこはあくまで新藤流の“演出”なのである。
こういう本づくりは、ときに読者にいろいろのものを見えさせてくれる。つまり新藤の“演出”を越えたものが見えてくる。いわばオラリティによるドキュメンタリー・タッチというものだ。
しかし、本書で見えてくるのは、白血病で58歳の人生を駆け抜けていった一人の異才の映画監督の人物像というよりも、一人の映像作家が生涯をかけて秘めつづけた思索と行動というものがいかに深いものであったか、そういうものは生前にそうとうに親しくつきあった者たちにとっても、容易には覗けないものだったということである。ぼくはそこがおもしろかった。そこにさらに溝口健二への共感が深まった。
新藤は、溝口健二が東京の下町生まれの庶民であること、小学校しか出ていない学歴、女性に対する奇妙な感覚に格別の関心をもっている。ここが新藤らしい。インタヴューでも、そのあたりのことばかりを暗に聞き出そうとしている。
けれども、たとえば小学校しか出ていないことについては、「映画の大監督で小学校しか出ていないのは、溝口とフェリーニくらいのものだろう」と津村秀夫が言っているように、映画界では珍しいことなのかもしれないものの、どう見てもつまらない議論である。
その小学校の同級生には川口松太郎がいた。川口は生涯にわたる刎頚の友として、『西鶴一代女』や『雨月物語』をはじめとした作品を支えた。そのことのほうが、むしろ溝口の幸運だったかもしれないし、それでも溝口はそんなことへの感謝の気持ちさえもっていなかったと言ったほうがよいかもしれないのである。
溝口が庶民の感覚をもっていたという新藤のアテも、インタヴューに答えた関係者の言葉を読んでいくと、案外あやしい。
川口松太郎は「あれは本当の意味のリベラリストではなかったね」「階級意識が強かったよ」「官尊民卑の思想ってものが、どっかにあったんじゃないかって気がするね」などと言っている。
なぜそのように見えたかというと、文部大臣賞やベニス映画祭銀賞や紫綬褒章をもらうことを非常によろこんでいたというのだ。依田義賢も、ベニス映画祭ときに溝口が日蓮上人の画像の軸をもちあるいていて、いよいよ審査発表が迫ると、ベニスのホテルにこれをかけて拝んでいたというエピソードをバラしている。
川口や依田にして、溝口がすなおに受賞をよろこんだことが異例に見えていたわけである。溝口の心は小学校以来のつきあいだった川口にも、つねに叱られていたシナリオライターの依田にも伝わらなかった。
溝口組で献身的に尽くしたといわれる映画監督の酒井辰雄は、溝口に本当のことを言えたのは千恵子夫人しかいなかったと言う。
酒井は言う、「溝口先生には奥さんの言葉以外は批評じゃないんです」。が、これは有名な“事件”だが、その夫人が大作『元禄忠臣蔵』を撮っているときに狂ってしまう。そして病院に入る。そこで溝口はその後ずっと「加害者のような気持ち」「自責の念」をもったと言われている。
新藤はその点を追求したいらしいのだが、そのような溝口の心は周囲には見えなかったらしい。インタビューでは誰もが見えなかったと答える。
溝口は夫人への気持ちを別のものに転換していたのだろうか。カメラの大洞元吾は「なかなか女好きでね」と言っている。では、溝口はその「自責の念」の行方を、たとえば田中絹代をはじめとする女優たちにむけていたのではなかったか、そう新藤は推理するのだが、これも届かない。
かえって女優たちは、溝口が人間として女として女優を見ていなかったような気がするという感想をのべる。木暮実千代は、溝口がいつも女優の名前を間違えていたと笑う。
そのほかの感想は、現場では鬼のようだったこと、そのくせ何も具体的なヒントを言わなかったことを口をそろえて証言する。香川京子は「溝口先生という方は何もおっしゃらないでしょ。はい、じゃ動いてみてくださいとおっしゃられるわけですよ」「でも、あんなに夢中でやったのは、後にも先にもありませんね」と言い、森赫子は「先生が、セリフなどはどうでもかまわないって、心、役の心持ちさえちゃんとしていれば、いい」と言ったと回想する。
少なくとも仕事を通して女優を獲得するなどということは、溝口にはまったく関係のないことだったようだ。溝口はもっと別のところで人間を見ていた。
ようするに溝口を庶民的だとみなそうとするのは、あまりおもしろくない見方なのである。そこからは溝口はわからないということなのだ。まだ新人だった若尾文子にはこう言ったらしい、「ようするに、君、人間になればいいんだよ」。
ここで、多くの者が溝口をとりちがえる。溝口は人間の深さを描こうとしたにちがいない、溝口は人間として生きつづけた人だった、というふうに。しかし、こんなことを溝口が考えつづけたはずはない。
溝口はもともと泉鏡花に傾倒していたような幻想感覚の持ち主だった。
これも有名な話だが、溝口はルーブルの「モナリザ」の前で泣き出している。そこにいた依田義賢も田中絹代も驚いた。ゴッホの前では、「君たち、もう一度勉強しなおしなさい」と言った。そして、狂気が必要だとポツリと言った。
溝口は若いころから骨董品好きで、壷についてはいつも考えこんでいるふしがある。そこに歴史があることが気になったのである。溝口ほど、当時の映画界で歴史を考えていた監督はいなかった。仲のよかった小津安二郎とは、そこがまったく対照的だった。
そのうえで、人間の哀しさをまるごとつかもうとしていた。しかし、その人格と人倫は一筋縄ではなかった。「悲しくて滑稽で、それでほほえましくて、しかもそれでいてどこか腹だたしい話を、その人間を通してまるごと描くんだ」と溝口が言っていたことを、溝口と師弟関係にあたるシナリオライターの成沢昌茂は思い出深く語っている。
そうした溝口が送った人生を、人生の記録からは追うことはできない。その人生は「八方破れ」(津村)で、「獅子奮迅の生き方」(小沢栄太郎)だったというしかない。小道具の荒川大は「鬼じゃなかったが、狂人ですよ」とその仕事ぶりを評している。
そのあたりの感覚を、さすがに適確にとらえているのは、溝口の永遠の恋人だったのではないかと噂されていた田中絹代である。
田中は、自分は溝口の私生活はほとんど知らなかったと言いつつ、「スクリーンの上では実質上の夫婦だったような気がする」と言う。これは田中絹代にして言えることのような気がするが、溝口の根本にふれているような気もする。
溝口健二はつねに「絵巻」をつくりたかった人なのである。実像でも虚像でもなく、「絵巻」の中にいたかった。その絵巻にはつねに女がいた。人間というよりも絵巻の女がいなければならなかった。それは千恵子夫人であろうはずはない。実在の京マチ子でもないし、木暮実千代でもない。絵巻の中の田中絹代だった。
しかし、おそらくは田中絹代でもなかったのである。溝口は物語の中だけを見ていたはずである。