父の先見
雨月物語
角川文庫 1959
[訳]鵜月洋
ひとつ、秋成は享保期の大坂に生まれた。堂島である。侠客黒船忠右衛門が町のヒーローだった。秋成にはキタの上方気質と「浮浪子」(のらもの)の血が脈打っていた。このキタ気質が処女作『諸道聴耳世間狙』になる。
ふたつ、青年期に俳諧に溺れた。懐徳堂に通って五井蘭洲に影響をうけて国学をおもしろがった。諧謔と翻案の技法はここで育くまれた。『世間妾形気』などを書く。秋成はパロディ・コント作家であり、浮世草子の最後のランナーである。
みっつ、『雨月物語』の裏に『水滸伝』がある。都賀庭鐘の影響が濃い。都賀は医術にあかるい大坂の人で、一方で『英草紙』『繁野話』という読本第1号を創った文章家であった。ついで建部綾足が『西山物語』を発表して、秋成はこれにくらっとした。
これらの奥には中国小説があった。そのことを説明しなければならない。
秋成は息咳きって中国の伝奇譚を読んだ。白話とか白話小説という。『雨月物語』はその趣向を巧みに日本の舞台に移したのだが、むろん単なる換骨奪胎をしたわけではない。
秋成が『雨月物語』を書く気になった背景を追いかけていくと、中国思想と日本の関係を、おそらくは荻生徂徠にまでさかのぼる関係を見ることになる。最初にそういった秋成登場の前段をちょっとだけ眺めておきたい。儒学思想の高揚と消沈と江戸文学の関係はあまり議論されないけれど、ひとつの見方なのである。
徂徠は、朱子学を内面の心理はおろか現実さえ包括できっこないと批判して、自分なりに工夫した社会観をつくろうとした。そこで規範を朱子学のようには道徳には求めずに、古代の聖人たちが陶冶した礼楽刑政を規範に採り、これを「道」とよんだ。
この「道」を押し出す徂徠の擬古主義的な見方が、しばらく江戸文学に「人情」を追いかけさせたのである。聖人の道とは人情にかなったものとおもわれたからだ。いったい"聖人の人情"というのははなはだわかりにくいことだが(中国的であって、半ば日本的なのだ)、これは当時の見方からすれば、唐詩に表現されているような、不遇の自己を越え高い格調で世界を表現しつづけるようなそんな立場をさしていた。
ところが、不遇の自己をこえて格調に走るという立場とはいささか違って、そうした自分をつくった社会に憤激し、風刺する立場というものもありえたのである。
これが京儒や上方の文人たちにしばしば典型的だった「狂者の意識」というもので(秋成も晩年の自分を「狂蕩」とよぶ)、この反徂徠学ともいうべき動向が陽明学をとりこみ、とくに文人たちを『水滸伝』などに流れる反逆の思想に傾倒させた。
ここにおいて江戸文芸は徂徠よりも、上方ふうの狂文狂詩をたくみに獲得するほうに流れていった。そして、銅脈先生こと畠中観斎や寝惚先生こと大田南畝を、さらにはご存知風来山人こと平賀源内などを生むことになった。これが"うがち"の登場である。"うがち"はやがて「通」になっていく。
一方、やはり徂徠を源流として、中国白話小説が日本に流れこんできた。知識人たちによる唐話学の学習は、そのテキストにつかわれた白話を結果としてはやらせる。
詳しいことは省略するが、岡島冠山、岡白駒らが出てしきりに中国伝奇小説の翻訳翻案を試み、そこでおこってきたことは、象徴的には『水滸伝』の解釈が変わってきたということだった。それまで反権力的な部分が切り捨てられて紹介されていた『水滸伝』は、日本に入ってきた李卓吾の解釈にしたがった新しい翻案のスタイルに切り替えられたのだ。そのスタイルはとりわけ建部綾足の『本朝水滸伝』に結実して、爆発した。この手法こそが上田秋成が継承したものなのである。
だから秋成を読むということは、中国と日本の言語文化の百年にわたるシーソーゲームを読むことでもあったといってよい。これが
『雨月物語』を読むときの背景になる。しかしながら、これだけでは秋成は読めない。秋成には、こうした流れのどの位置に属した者をもはるかに凌駕する格別の才能があった。
そこで『雨月物語』である。九つの物語からなっている。それぞれ別々の物語であるにもかかわらず、裏に表に微妙にテーマとモチーフがつながっている。そこに秋成の自慢がある。
第一話、崇徳院天狗伝説を蘇らせる「白峯」で、不吉と凶悪が跋扈する夜の舞台が紹介される。読者はここでのっけから覚悟しなければならない。何を覚悟するかというと、幻想がわれわれの生存の根本にかかわっていることを覚悟する。なにしろ主人公は西行なのである。
つづいて生者と死者の意思疎通をいささかホモセクシャルに扱った「菊花の約」が信義のありかたを話題にする。これが三島由紀夫が好きだった挿話であるのは、信義のためには死をも辞さないということが告示されているからでもある。しかし、信義は男と男のためばかりのものではない。
そこで、信義と死の関係を男と女に移して「浅茅ケ宿」がはじまる。怪奇幻想には静謐なものもあるはずで、それを夫婦の日々にまでしのびこませた秋成は、ここに待ちつづける女を"真間の手児奈伝承"で結晶化してみせる。
待ちつづける女、宮木のひたむきなイメージは、溝口健二が映画『雨月物語』のなかで田中絹代に演じさせて有名になった。溝口が宮木をキャラクタライズするにあたっては、原作にはない大いなる母性をもちこんだ。そもそも溝口の『雨月』は原作をかなり離れたもので、モーパッサンさえ加わっている。
「浅茅が宿」は水の女のモチーフで進んだのだが、次の「夢応の鯉魚」では水中に身を躍らせたあやしい画僧が主人公になる。
中国の『魚服記』に取材したストーリーは、魚に愛着をおぼえる画僧が仮死状態のあいだにアルタード・ステートをさまよって鯉魚となり、戒めを破ったため危うく料理されそうになってやっと遊離の魂が肉身に戻るという顛末である。オウィディウスこのかたの変身物語の豊饒が語られる一篇になっている。
変身と異界はもとよりつながっている。その連鎖はつづく「仏法僧」では、異界からかろうじて生還した男と高野山に秘められた異常を体験する"旅の怪異"に発展し、修羅道に落ちるというテーマになっていく。途中、空海と水銀伝説にまつわる異変がはさまれ、それが関白秀次をめぐる異様につながっていく。秋成、しだいに独壇場に向かうあたりだ。
この修羅道の問題は、さらに「吉備津の釜」においては愛に裏切られた女の怨霊に転じている。女を怨霊にさせたのは主人公正太郎の浮気である。それも妻を欺き通し、騙して憚らない遊び心によっている。けれども話は裏切られた妻の磯良の復讐にはすぐには転ばない。読者はここでじらされる。そのうちに浮気の相手が物怪につかれたように死んだ。
このあたりから、秋成は文体を凝らして稀にみる恐怖の場面をつくりあげた。ラストシーンでは明けたとおもった夜が明けず、血が一筋流れ、荒廃した家の軒先に男の髻一つが月明に照らされているところで終わる。『雨月物語』の雨月のイメージは、ここにおいていよいよ煌々と照る。
読者の肌身が凍りつくとき、ここで一転、物語は「蛇性の婬」でさらに深まっていく。
初めは那智詣での帰途に美しい男女の一対がファンタジックな出会いをおこし、夢とも現(うつつ)ともつかぬうち、ただ一振の太刀だけが残って、昨夜の宴の家が一瞬にして廃屋になる。この廃屋のイメージは、その後の日本文芸や日本映画の原イメージとなったものである。
廃屋出現の謎は、いったん怪しい者の仕業とわかるのだが、ところが話はそこからで、翌年になってまた男は怪しい女に出会う。しかも女はあの仕業はやむなき仕業で理由があったというために、ついに結婚まで進む。女はしだいに禍々しい正体を指摘され、それなら男も改心するかというと、逆に哀れな女の性に吸引されていくという、徹底して不幸に魅入られた関係が三段階にわたって奈落に堕ちゆく構造なのである。
しかも読者は魔性の女の一途にも惹かれざるをえず、ここに中国白話小説と道成寺縁起の奇怪な合体が完成することになる。もとより秋成の狙いであった。
それでも物語の仕掛けはまだおわらない。
異類との怪婚物語は「青頭巾」にいたって、ついに愛欲のために人肉を食して鬼類そのものと化した僧侶を出現させるのだ。この鬼僧を調伏するにもう一人の禅僧が登場し、ふたりが同じ寺で一夜を送るという世にも恐ろしいクライマックスは、月下に乱走する鬼僧が目の前にいるはずの禅僧の姿に気づかず、朝になって公案の歌を与えられてやっと静まる。まるで富永太郎か安西冬衛の現代詩さながらである。逆説的なことなのだが、鬼類が悟道をさえ覗くという結末なのである。
こうしてやっと秋成は最終章を妙に安心できそうな「貧福論」と標題し、黄金精霊の未来史の予告ともいうべきを語る。
これでさすがに読者はホッとするのだが、ところがよくよく読めば、それはふたたび冒頭の夜の舞台を思い出す予兆でもあったというふうであり、ついにわれわれは秋成の無限軌道の振子そのものとなる‥‥。
『雨月物語』は中国と日本をつなぐ怪奇幻想のかぎりを尽くしている。それはホフマンやティークや、あるいはウォルポールやポオが、ゴシックでアラベスクな物語のかぎりを尽くそうとしたことに似ていなくもない。
しかし、このホフマン=ポオ=ボルヘスふうの円環をなす九つの物語は、すでに述べてきたように日中にまたがる夥しい本歌取りのハイパーリンク型の独自の構造をもって、夥しい細部の幻想リアリズムで支えられているので、単純に世界文学の傑作と比べるのはどうかとおもう。『日本数寄』(春秋社)に書いたように、むしろ溝口の映画と比べたり、泉鏡花や久生十蘭と比べたりするほうがおもしろい。
そのばあい、『雨月物語』が日本文学史上でも最も高度な共鳴文体であることにも目を入れこみたい。問題は文体なのである。
なぜ文体かということは、秋成が生涯にわたって儒学・俳諧・浮世草子・読本・国学という著しい変遷を経験してきたことと関係がある。とくに宣長との論争、煎茶への傾倒、および目を悪くしてからの晩年に「狂蕩」に耽ったことを眺める必要がある。それらは国学にしても茶にしても、むろん儒学や俳諧にしても、文体すなわちスタイルの競争だったのだ。
競争して、どうしたかったのか。秋成は狂いたかったのである。心を狂わせたいのではない。言葉に狂いたかった。スタイルを狂わせたかった。「千夜千冊」第425夜にふれておいたように、それは荘子の「狂言」の思想に深い縁をもつ。