才事記

あの人この人

戸板康二

文芸春秋 1993・1996

 この2日間で、母の通夜と葬儀をおえた。92歳だったから天寿を全うしたのだと思う。炬燵にあたってTVを見ながら往生した。
 母は少女時代を大正期に送った絣(かすり)と袴(はかま)の似合う京都の人だったが、女学校の頃にラジオドラマ・コンクールで優勝するような演劇好きでもあった。その母を偲んで、母がファンでもあった戸板康二さんの一冊を贈ることにする。

 【劇場愛・大谷竹次郎】双子の大谷竹次郎と白井松次郎がつくった松竹を支えたのは、大正の歌右衛門・中車・仁左衛門・羽左衛門たちで、その弟分を左団次・菊五郎・吉右衛門が後押しをした。しかし大谷は演目の決定にはすこぶる頑固だった。古老格の遠藤為春・川尻清潭・木村錦花にも身震いをして拒否権を発動した。が、実のところは「娘道成寺」「鳴神」「河内山」などの坊さんの出る芝居がたんに好きだっただけで、「新薄雪物語」などのよほどの顔揃いじゃなきゃできない大芝居は嫌いだった。戸板康二が本書で思い出を綴った人々の中の最高齢者。

 【車中談・土岐善麿】戸板康二の師匠の一人は三田時代の折口信夫である。戸板は折口から学習テキストとして土岐善麿の『作者別万葉以降』を読むようにいわれた。卒業後、戸板は明治製菓に入り、PR誌「スヰート」の編集に携わる。このとき目黒の斜面荘に住む土岐に「庭前即興」「紀元二六〇〇年頌」の詩をもらっている。その土岐と再会したのは30数年後のことで、土岐が日中国交正常化のための訪中団長、戸板が副団長となったときだった。土岐が車中でした雑談を戸板は忘れられない。「啄木って男はそそっかしくてね」「釈(折口)さんはたいした人だ」「ぼくは出土品じゃないんだ」などなど。

 【ステッキ・小泉信三】戸板が慶應の文学科に入ったのは昭和7年である。そのときの塾長が小泉信三だった。長身にステッキを手にして構内を堂々と歩く姿はまさに偉丈夫を思わせ、それが誇らしかったという。そんな高潔な印象のある小泉だが、趣味はめっぽう広かった。歌舞伎は沢村三木男(六代目田之助)、落語は古今亭志ん生、笛は福原英次、野球は早慶戦、料理は銀座のはち巻岡田、ウナギは神田川。志ん生には三田の洋館のテーブルの上に座布団をおいて一席を頼んだ、「らくご」を1時間かかって熱演したそうだ。おわると決まって志ん生は大津絵を唄ったらしく、そのつど小泉は涙を流していたという。ちなみに久保田万太郎には「先生」とよぶ人が3人いたというが、その3人とは幸田露伴泉鏡花と、そして小泉信三だった。

 【巻き舌・辰野隆】『シラノ・ド・ベルジュラック』は辰野隆と鈴木信太郎の名共訳だが、そのなかのシラノが滔々と悪態をつく長ゼリフは『助六』を思わせる。これはそもそも赤坂は氷川の氏子に育った辰野のべらんめえ口調が下敷きになっていた。実際にもたいへんな巻き舌なのだ。その巻き舌でフランス語を操った。辰野が高麗蔵時代の11代目団十郎の口跡に文句をつけたところ、高麗蔵が「どうしたらいいでしょうか」と相談にきた。辰野は「フランス語を習いなさい」と言い放った。その辰野に小林秀雄渡辺一夫・中島健蔵・三好達治・河盛好蔵・井伏鱒二が師事した。すごい弟子たちだ。日本のフランス文学は巻き舌が育てたのである。

 【歌舞伎・渥美清太郎】郁文館中学校の出身という肩書だけなのに、渥美清太郎の右に出る歌舞伎通はいなかった。すでに10代のころに上野の図書館が蔵書していた厖大な歌舞伎関係の本を読破してしまい、20歳で演芸画報社に入ったときは、もう並ぶ者がいなかった。大正11年には坪内逍遥のもとで春陽堂から『歌舞伎脚本傑作集』12巻を編集してみせている。戸板は昭和19年に日本演劇社に入社するのだが、そのとき社長の久保田万太郎の下にいたベテラン記者が渥美だった。その日本演劇社が経営不振のとき、乾坤一擲の『歌舞伎辞典』を数巻立てで出そうということになり、どのように分担執筆するかという段になったとき、渥美が名宣りをあげた、「最初の1冊から、私が一人で1カ月で書きましょう」。

 【好奇心・江戸川乱歩】戸板の傑作『車引殺人事件』が河出から出たときのことは、ぼくもよく憶えている。父と母が茶の間でこれを褒めちぎっていた。戸板が書いた最初の推理小説だった。その戸板に推理小説を勧めたのが江戸川乱歩である。乱歩が「宝石」を編集創刊するときのことで、それ以前に銀座の「ボンヌール」に誘われて美少年に囲まれたときのお眼鏡にかなったせいだった。乱歩は巷間で噂されるような蔵の中で蝋燭で怪奇小説を書いていたという“謎の人物”ではなく、まことに陽気で社交好き、だからこそ名伯楽にもなれたのではないかと戸板は見ている。ただ「伏見扇太郎がかわいくてたまらない」と言ったときは、さすがにすぐさま反応ができなかったらしい。

 【宗教・三宅周太郎】ぼくが父に連れられて歌舞伎の楽屋にちょこちょこ出入りしていたころは、翌日の新聞には必ず岡鬼太郎とか伊原青々園とか三宅周太郎の劇評が出ていた。なんだかあまり好きではなかった。なぜかはわからなかったが、本書を読んで少し理由が見えた。三宅周太郎はつねづね「私にとって歌舞伎は宗教だ」と言っていたらしい。ようするにそれ以外の趣味がなかったのだ。しかし、その辛口批評があったからこそ当時の梨園に名人・達人が輩出したのでもあったろう。

 【人情・川口松太郎】戸板康二は万太郎を通して川口松太郎に出会う。これは一番の脈絡だ。なにしろ松太郎は万太郎文学に心酔しきって弟子入りをした。戸板は二人に翻弄されながら腹ができていく。たしかに、ぼくから見ても二人はかなり対照的である。万太郎の字は蚊が泣いているような細字、松太郎は奔放で大きい。文士芝居も万太郎はへたくそ、松太郎は名人級だった。この二人の薫陶をうけたのだから、戸板康二という人もそうとうである。ぼくは実のところは万太郎・松太郎の両方の大ファンで、これは父から譲りうけた血潮のようなものだとおもう。ただ、松太郎についてはほとんど書いてこなかった。だから、この「千夜千冊」ではどこかで『鶴八鶴次郎』『明治一代女』『風流深川唄』か、『忘れ得ぬ人・忘れ得ぬこと』かをとりあげたいとおもう。あるいはプラトン社のこととか。それにしても今日のぼくの周辺に川口松太郎のような気っ風のよい兄(あに)さんがいないことが、寂しい。

 【御贔屓・円地文子】白洲正子との対談『古典夜話』はぶっとんでいた。そうか、野上弥生子のあとは円地文子だったのかということが、よーく得心できた。ぼくは“円地源氏”は“舟橋源氏”とともに食わず嫌いだったので、そのへんがあまり見えてはいなかったのだ。もともと国語学の上田萬年博士のお嬢さんだったのだから、小さい頃から能狂言・歌舞伎・邦楽に加えて古典に精通しているのは当然だった。その円地が戸板にかかると、二代目羽左衛門の「名月八幡祭」の新助を「あれは性感のようなものだった」と言ったという話、玉三郎贔屓で「秋草のようだわね」「清方の絵を思い出したわ」「鳥居清長の美人画のようね」などといいつづけてきた話ばかりになる。ようするにあの女傑・円地文子をごくごくかわいらしく描いてあげているわけなのである。ちなみに母は円地文子のことを「私とはちょうど反対の人」と言っていた。

 【演出力・武智鉄二】どうも仕勝手が目立つ。そう、武智鉄二は当時の芝居のありかたに文句をつけた。そのころ当り狂言だった菊五郎・吉右衛門の『寺子屋』についても、誰ともちがう濃厚な批評をした。これは武智に原点を深く読む力があったからだと戸板は見ている。一途に「芸」を考えた人だったのであろう。企画力も実行力も経済力もあった。金春八条・茂山弥五郎・豊竹山城少掾を観賞する「断弦会」をつくり、武智歌舞伎を演出し、「観照」「演劇評論」「歌舞伎評論」を出版し、川口秀子と結婚してからは舞踊を仕切り、ついに映画や参議院にまで手を出した。戸板はこうした後年の武智の暴走にはついていけなかったようだが、その独自の美意識には井上八千代・吉田栄三・山城少掾などからの影響とともに、速水御舟からのヒントがあったのではないかと書いている。

 【酒席・芥川比呂志】これはしまったと悔いている。戸板によると、芥川比呂志は昭和の演出家のベスト10人に入るのだという。ぼくは1本も見ていない。どうやら遠藤周作もの、安部公房もの、鏡花ものの演出は、この人が先駆したようだ。これは悔しい。そのかわり役者としての舞台は何度か見た。やはりアーストロフ、ドールン、ハムレットである。とくに福田恒存のハムレットには陶酔させられた。もっとも本書では芥川比呂志の酒癖のことばかりが書いてある。次々に出てくる芝居畑のスターたちが酒場で交じりあっている光景が目に浮かんだ。

 本書には、ざっとこんなふうな思い出が次々に綴られている。戸板康二の最後の連載となった「オール読物」のエッセイ集で、死後出版だった。本書が絶筆なのである。「昭和人物誌」という副題になっているのは、戸板が出会った日々が大正4年生まれの戸板の人生と昭和史が重なっていたからだろう。
 上記には適当に人物を選んで話を見つくろい、年齢順にあげてみたのだが、このほかに、小宮豊隆、岩田豊雄、徳川夢声、奥野信太郎、古川緑波、田辺茂一、田村秋子、宇野信夫、伊馬春部、菊田一夫、安藤鶴夫、花森安治三島由紀夫有吉佐和子寺山修司らの顔触れが次々に出てくる。いずれも昭和史の地模様・図模様の交点として読みすごせない。
 母がこの本を読んでいたかどうかは、知らない。「オール読物」の俳句欄にはよく母の句がとりあげられていたので、おそらくは連載中に目を通していたのではないかとおもう。
 母の葬儀で、戸板康二にも縁が深い慶應の金子郁容君が弔辞を読んでくれたとき、「松岡さんはお母さんのことをこれまで書いてこなかったが、これからはきっとその話が聞けることになるとおもう」と言ってくれた。金子君の心のこもった弔辞に応える意味でも、少しずつ、母の思い出を語ってみたい。