父の先見
時代を創った編集者101
新書館 2003
1カ月ほど前に刊行された。近代以降の101人の編集者を選ぶというのは、きっとスリリングで、なかなか魅力的な仕事だったろう。出版界、メディア事情、版元や編集者の個性をよく見破っていなければならない。科学もの、社会科学ものが少なく、あまりに文芸偏重な選抜になっているが、できあがったラインナップはすこぶるおもしろい。やはり編集者の近現代史は「もうひとつの近現代史」なのである。
冒頭は、明治の「万朝報」の黒岩涙香、「国民之友」の徳富蘇峰、丸善で「學燈」を編集した内田魯庵、「頓知協会雑誌」を筆頭にメディアを出しつづけた宮武外骨というふうに始まっている。おしまいは「文芸春秋」の半藤一利、「婦人公論」の澤地久枝、「海」の近藤信行、「現代詩手帖」の小田久郎まで。なかで10人ほどをとりあげたい。
大橋乙羽は博文館の大橋左平に認められて婿養子となり、支配人になった。雑誌編集で有名なのは高山樗牛が主幹をつとめた「太陽」への参画だが、ぼくは『欧山米水』などの自然観照シリーズを買う。乙羽はつねに「山水」の近代化に心を砕いていた。
その博文館に長谷川天渓が入ってきて、しばらく「太陽」「文章世界」「譚海」などを編集し、森下雨村を招いて創刊の運びとなったのが「新青年」である。乱歩は雨村の弔辞に「我々はみな森下さんの子供のようなものです」と寄せた。たしかにそうではあるのだが、実際に「新青年」を推理小説のメッカにしていったのは、雨村を継いだ編集長・横溝正史だった。
この「新青年」とともに近代日本に大衆文芸を築きあげたのは野間清治が創刊した「講談倶楽部」である。ここに岡田貞三郎という鬼才が入った。乱歩の『魔術師』などのホラーものはこちらでヒットする。吉川英治・岡本綺堂・大佛次郎・白井喬二らは、すべて岡田の腕でヨリをかけらけた。途中、失明状態になったのに、スタッフに原稿を読ませて、“聞く編集”を確立した。
こうした大衆文芸を最後に束ねたのは白井喬二であろう。だいたい仏教用語だった「大衆」(だいしゅ)を「たいしゅう」と読み替えたのも白井だったと言われる。白井は『富士に立つ影』などの時代小説の旗手であって、編集者として特定の雑誌にかかわったわけでもないのだが、「二十一日会」という大衆作家団体をつくって、ここに直木三十五・長谷川伸・乱歩・小酒井不木などを結集させ、さらに平凡社に『現代大衆文学全集』正40巻・続20巻を刊行させた。特筆すべき編集企画者であった。
大正12年、第一書房という出版社が誕生した。創業者は長谷川巳之吉。岩波文化や講談社文化という言葉があるとすれば、巳之吉は単身でこれに対抗して、第一書房文化をつくりあげた。堀口大学・太田黒元雄・松岡譲・土田杏村がブレーンとなった。堀口の『月下の一群』はここからの刊行だ。
その巳之吉が広報紙「伴侶」を改題して昭和6年に「セルパン」を創刊した。4年後、編集長が三浦逸雄から春山行夫に変わって、一世を風靡する。すでに雑誌「詩と詩論」の編集をし、「伴侶」にも原稿を書いていた春山は、ここで独特の編集センスを発揮する。海外モダニズムのカットアップともいえるし、コントと銀幕とエスプリを混交したコラージュともいえる。そのくせヒトラーの『我が闘争』やスターリンとトロツキーの確執などをいちはやく連載したりした。いま、こういうセンスの編集者は少ない。
春山とはちがうが、やはり変わったセンスを持っていたのが北原武夫だった。ぼくは北原の小説はまったく買わないが、その編集感覚はおもしろい。「都新聞」の記者をふりだしに坂口安吾・田村泰治郎・井上友一郎らと同人誌「桜」をつくり、やがて宇野千代と親しくなってからは二人で「スタイル」の編集を始めた。昭和9年である。表紙は藤田嗣治、執筆陣は内容で選ぶというより異色性で選んだ。エディトリアル・ファッションとでもいうべき編集だった。女優のグラビアが文化雑誌に登場したのも、これが初めてだったのではないか。
昭和のファッション誌なら、なんといっても中原淳一の「それいゆ」だ。この人は香川県の5人兄弟の末っ子で、実業之日本社の「少女の友」の挿絵を竹久夢二からバトンタッチして頭角をあらわしたのだが、単に挿絵画家におわることなく、戦時中に洋品グッズ店を麹町に出したりしている。そのうち「日本の女性づくり」をめざすようになって、「それいゆ」の創刊に踏み切った。しかし中原は“大人のいい女”をつくるには少女時代こそが重要だと考え、ついで「ひまわり」を創刊した。これがのちに“リボンの騎士”から“ちびまるこ”におよぶ日本の“少女感覚”をつくった。少女漫画はこの「ひまわり」こそが源流になっている。コシノジュンコ、高田賢三、金子功はさらにそのあとに創刊された「ジュニアそれいゆ」で育ったデザイナーたちである。
春山、北原、中原とくれば淀川長治だろう。すでに第52夜に紹介したように、淀川はユナイト映画社に入って宣伝担当をするのだが、戦後はすぐに「映画の友」の編集長で鳴らした。淀川の着目は“ファン雑誌”をつくりあげることだった。コンテンツはすべて映画スターと映画監督なのである。
だいたい出版社や雑誌というものは、お金がなかろうが準備力がなかろうが、仲間とともに自分でつくるものである。日本のプリント・メディアを変えた出来事はほとんどそのような“貧しさ”と“勇気”がつくりあげてきた。すでに第506夜の「暮しの手帖」や第722夜の改造社や第825夜のボン書店でも、その特異な一端にふれておいた。
そうしたなか、ぼくがずっと気になっていたのは長野生まれの3人がつくった筑摩書房と、小尾俊人が起こしたみすず書房である。筑摩書房の3人とは古田晃・臼井吉見・唐木順三のこと、古田と臼井が松本中学→松本高校・東大が一緒、そこへ信州出身で京大哲学科に行った唐木を誘って筑摩書房ができた。
この3人の一致したスローガンは「一つの出版社は一つの大学に匹敵する」というものである。まさにその通り。場合によって十の大学にも匹敵するし、百年の歴史に匹敵することがある。いま、戦前の「展望」バックナンバーを見ると、この3人の気概こそが、ぼくの雑誌感覚のルーツだったようにも思うときがある。
小尾のみすず書房は敗戦後に二人で起こした。二人とも軍隊帰りだった。小尾は「国家とは別の確信」とは何かということを編集の基本においた。なんといっても膨大な『現代史資料』の刊行が光っている。小尾はほとんどの装幀を自分でやってのけた。
昭和8年に日本工房ができた。ベルリンから帰ってきた名取洋之助が創設した実験的創造集団で、翌年に雑誌「NIPPON」を創刊した。名取がとりくんだのはフォト・ジャーナリズムで、この雑誌がなかったら、日本の写真家もグラフィックデザイナーも今日の水準はもてなかったといってよい。
名取は戦後は「ライフ」日本版をめざして「週刊サンニュース」を創刊し、さらに「岩波写真文庫」の構成編集を任された。羽仁進・羽田澄子・長野重一はここから育った。のちにひっくるめて“名取学校”とよばれる。名取は小尾とちがって日本という国家と文化が好きだった。その思いは戦時広報誌「FRONT」に反映され、そこから亀倉雄策らが育った。
その「FRONT」に憧れていたのが「装苑」「ミセス」「ハイファッション」「銀花」の今井田勲である。今井田はもともと「主婦の友」にいて石川武美に叩き上げられ、『花嫁講座』全12巻を担当して実力を蓄えた。そのうち戦時下の日本に鼓舞されて「FRONT」に憧れ、婦人書房をつくって「婦人の国」を創刊。それを文化服装学院の遠藤政次郎がまるごと引き抜いた。そこからの今井田の勢いは圧倒的だ。とくにメディアとしての“器の変え方”の才能に長けていた。「装苑」「ミセス」「ハイファッション」「銀花」のいずれにおいても、器量を変えた。おもしろいのは、生前の今井田がしきりに“下戸の酒屋の主人”になることが編集の極意だと言っていたことである。これは名言だった。