父の先見
女たちよ!
文藝春秋 1968・1975
駅弁のご飯が堅くて、それをこそげとるように食べていると、割箸がポキッと折れることがある。仕方なく片方が極端に短い箸で残りを進めるのだが、このときほど「いきどころのない腹立たしさ」を感じることはない。
うんうん、そういうことってあるよねえと言われたいばかりに、こんなことばかりを書いてみせるのは、いまでこそヘタウマ・エッセイストのおハコとなりつつある文章芸当なのだが、山口瞳や伊丹十三がこういうことを書きはじめたときは、まだ新鮮だった。
なぜなら伊丹の場合は、「私は高校野球というのが実に吐き気がするほど嫌いです」「日本の西洋料理屋でおいしい野菜サラダを食べたことがない」「ストローはひどい。とくにドリンクと称する栄養剤につっこむ極細ストローは許せない」というふうに、そこに徹底した好き嫌いが貫通されていたからで、いまのヘタウマ・エッセイにはそこがなくなっている。
しかも、こういうシャクにさわるようなことを重箱の隅をつつくように言挙げするのは、江戸でも明治でも戦後でも「男の甲斐性ではない」「にやけた男だ」というのが通り相場なのに、伊丹十三はそれを平気でやってのけただけではなく、女に対する挑戦ともうけとれるような勧告を連発してみせたのである。
曰く、シャネルの縫い取りが見えるスーツを着ている女は馬鹿に見える。女学生のセーラー服の胸元からピンクのスリップがのぞいていたときほど不潔だと思ったことはない。フランス料理屋や寿司屋でお酒が飲めないからといってジュースやコーラを注文するのはやめなさい、どうしょうもない、水かお茶でいいのだ。だしカップ一杯、砂糖大匙三杯といった料理番組や料理学校の教え方が日本の味を悪くするんです。
この本が出版されたとき、女たちは「いい気なもんよね、勝手にしてよ!」と反応したものだったし、ぼくもまったく読む気がしなかったものだが、あるとき仕事上の必要に迫られて読んでみて、こんなに巧みな逆説的なパロディはないと思った。
けれども、女たちは伊丹十三を敵(かたき)のように罵った(そのころは伊丹一三と言っていた)。ときにエッセイの最後に、「配偶者を求めております」とあって、次のような”広告”が綴られていたのも、女たちはいい気なものねと嗤った原因だった。ぼくはほくそえんだ。
…ごく贅沢に育てられ気品が匂うがごとくで、エロチックな肢体をもっていながら貧乏を恐れず、いつも愛らしい顔立ちが魅力的であること。
…しかもバロック音楽が好きでアンマがうまく、天涯孤独か美しい姉妹がいるかのどちらかで、たとえばルーの下着、エルメスのハンドバッグ、シャルル・ジョルダンの靴を愛用し、かつ牛肉の大和煮に弱く、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』が一番好きな小説であるような、そんな女性。
…ただし猫が大好きな私より二まわり年下で、伊丹十三が世界で一番えらいと思っている女性、私、そういう配偶者を求めております。
まあ、こんなことを書かれてアタマにこない女はいまい。しかも当時の伊丹は週刊誌のインタヴューなどの肩書では「映画俳優で、元プレイボーイの伊丹一三さんは云々」と必ず書かれたもので、この「元プレイボーイ」ほどうさん臭いものはなかったものだ。岡田真澄だって、この肩書でどれほど損をしてきたことか(あれっ、得をしてきたのかな)。
しかし伊丹は『女たちよ!』に味をしめたのか、続いて『再び女たちよ!』を刊行し、あまつさえ並みいる女たちを尻目に宮本信子と結婚したのであった。すでに前妻とは別れていて、しかもこんな挑戦的なエッセイを書いたのだから、女たちはもはや配偶者を選べまいとタカをくくって、可哀想にねと思っていたところへ、あの宮本信子なのである。女たちはウーム、と唸ったのだった。
これは寅さんが妹の“さくら”を自慢したような禁じ手で、勘ぐれば最初からのデキ・レースだったと思いたくなるような9回裏の左中間サヨナラ・ヒットだった。ボールが転々とフェンスに向かってころがって、そこを勝越しランナーが小躍りしてホームに向かっている。長嶋のホームランでないところが伊丹らしいのだ。
伊丹十三は伊丹万作の子供である。親子二代にわたって映画監督になったということだが、そこまでは紆余曲折がある。
大江健三郎と母の故郷の松山で同級生になり、伊丹の妹が大江夫人となったことも、伊丹に紆余曲折をもたらした。が、それはのちのことで、伊丹は大学受験に失敗して、上京した後は新東宝の編集部に入って、ついではコマーシャル・デザイナーとなって、さらには舞台芸術院に入って俳優をめざした。ぼくは誰かから伊丹はフリーハンドで明朝体を書くと天才的にうまいんだよと聞いたことがあるのだが、真跡にはお目にかかれなかった。
俳優伊丹一三は1960年に大映に入ってからのことで、そのマスクのせいか外国映画にもけっこう出ていて、かなり特異な役者であった。脇役としてはもっと年老いてもかなりの名演技を発揮したのではないかとおもう。
けれども多芸多才は伊丹家の遺伝子らしく、伊丹はサントリーのPR誌「洋酒天国」や「話の特集」にエッセイを書きはじめるとたちまち読者を獲得し、それで満足するかとおもうとそうでもなく、テレビのワイドショーの司会役やルポ番組をこなしているかとおもううちに、今度はテレビマンユニオンに参加して、ドキュメンタリーの手法の腕を磨いた。これが1984年の映画デビュー作『お葬式』につながった。
そこから先はよく知られているように数々の映画賞を独占しながら、『スウィート・ホーム』『ミンボーの女』『大病人』などで暴力沙汰やスクリーン切り裂き事件などのトラブルが続き、そんなことが原因ではないとおもうのだが、1997年に伊丹プロダクションのある麻布台のマンションの屋上から飛び降り自殺してしまった。64歳だった。
しばらくたって大江健三郎が『取り替え子』という謎めいた小説を書いて、伊丹と大江の関係にひそむ何かを暗示したが、もとよりいまなお伊丹十三という才能については、ほとんど議論がされないままにある。ぼくはリチャード・ワーマンが「伊丹こそ日本映画の神髄に迫っていたのではないか」と言った言葉が響いている。
「やるせない」とは何かということを追求できた人だったと、ぼくは思っている。